20141017 塩売街道~太山寺

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ASG-10-20141017-13:53

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2014/10/17 13:53:05終了日時2014/10/17 18:27:11
水平距離34.10km沿面距離34.12km
経過時間4時間34分06秒移動時間2時間59分46秒
全体平均速度7.47km/h移動平均速度11.39km/h
最高速度30.46km/h昇降量合計270m
総上昇量130m総下降量140m
最高高度81m最低高度18m

写真レポート

四国ガス敷地内の球形タンク

2014/10/17 14:17:26

四国ガス敷地内の球形タンク

 『松前界隈はええとこぞなもし』を執筆している山野芳幸氏から、「塩屋海岸近くの四国ガス敷地に設置されている球形タンク付近で塩を焼いていた」という古老談を紹介していただいた。

塩売橋から石鎚山を望む

2014/10/17 14:42:01

塩売橋から石鎚山を望む

加多寺

2014/10/17 14:48:36

加多寺

 昔はこの地に立派な「加多寺」がありました。この時代は崇光天皇将軍足利尊氏の世でもあって今から660年前すでに当地に創建されていた由緒あるお寺でありました。御本尊は石鉄蔵王大権現と称し祭祀せられ現在に至っています。昔を物語るものにクスの大木と信者の記名玉垣石が残っています。延宝4年(1676)320年前石鎚山を管理していた別当前神寺より先達寺としての指定を受けることになり加多寺の住職は近在の信者講参りの人々を集め石鎚山夏山祭りのお先達としてその任を務めていました。

アイガモ

2014/10/17 14:51:16

アイガモ

 アイガモは、アヒルとマガモを掛け合わせて誕生しました。日本では主として食肉用に飼育されていましたが、このアイガモを水田に放して、除草や害虫を駆除させ、無農薬で安全なお米をそだてようというのが「アイガモ農法」です。

路地に住み着いた猫

2014/10/17 14:57:31

路地に住み着いた猫

古い家屋が残る路地

2014/10/17 15:00:01

古い家屋が残る路地

 古い家屋が残る路地は何故か心地よい。

地蔵

2014/10/17 15:03:01

地蔵

 四叉路の南西隅に地蔵がある。ここには目通り幹回り180cmのセンダンの木があり、ここでおたたさんが一休みした所だと言われる。今なお残る二つの切り株が当時を偲ばせる

塩売街道の風情

2014/10/17 15:03:01

塩売街道の風情

 自動販売機が古の塩売街道、郵便ポストに、違和感なく溶け込んでいる。

金毘羅常夜燈

2014/10/17 15:09:36

金毘羅常夜燈

 「金」は金毘羅さん、「三」は三島神社、「石」は石鎚山を意味する。これ以外に、「氏」があるが、これは氏神さんのこと。そういったものを大切にして家内安全や組内の安全を願った。金比羅参り、伊勢参りなどの人が利用した道であろう。

地蔵尊

2014/10/17 15:32:26

地蔵尊

 戦国時代、日本中は全国統一を求めて、戦乱の渦中にあり、全国の武将は、いやおうなく東西のどちらかの陣営に加担しなければならない立場にいた。
 このような中で、慶長5年9月18日「伊予の関ヶ原の合戦」といわれる「刈屋畑の戦い」は、東軍方の加藤勢と西軍方の毛利勢が古三津を主戦場として戦った。
 この大激戦で戦死した武将や名もなき武士たちの霊を慰め平和な郷土の構築を願って、旧宮前町2丁目に地蔵尊が創建された。(享保元年7月24日)その後現在地に移された。

三津厳島神社

2014/10/17 15:33:36

三津厳島神社

 10月6日に例大祭が行われ、10月7日の神幸祭では、三津の南北と古三津の南北計4体によって喧嘩神輿(鉢合わせ)が行われる。また、宮出しの前には古三津地区の伝統芸能である虎舞(獅子舞の虎版で加藤嘉明の虎狩りに因む)が奉納される。

句碑

2014/10/17 15:51:41

句碑

 木のもとにしるも膾もさくら哉    松尾芭蕉

 はつさくら華の世の中よかりけり   栗田樗堂

能登但馬守一族郎党の霊

2014/10/17 15:51:41

能登但馬守一族郎党の霊

 古三津での戦である。1600年(慶長5)のことである。毛利方が豊臣方(西軍)、加藤方が徳川方(東軍)である。毛利軍が三津浜に上陸し、松前城を拠点とする加藤軍と戦った。刈屋畑の戦いである。ここでも、勝利したのは東軍であった。

「御船手中」と彫刻

2014/10/17 15:55:46

「御船手中」と彫刻

 三津には松山藩の軍港にあたる御船場があった。この神社の北方の三津内港あたりを、以前は船場町といっていた。船場町も今の住居表示では、住吉の一部になっている。

三津浜

2014/10/17 15:59:01

三津浜

 6月10日、子規は家族や親類、友人たちにおくられて三津浜から出帆した。船は豊中丸であった。前記「半生の喜悲」に、「もっともいやだったのは、はじめての出京で三津浜から出帆したとき」と正直に書いている。少年の身でひとり故郷の山河とわかれることは、あれほど上京をあこがれたくせに、さすがにかなしかったらしい。(司馬遼太郎『坂の上の雲』より)

二の門(仁王門)

2014/10/17 16:24:26

二の門(仁王門)

二の門(仁王門)

2014/10/17 16:24:26

二の門(仁王門)

 入母屋造八脚門、国の重要文化財。一の門を望む。

阿形像

2014/10/17 16:36:06

阿形像

 二王門は参道の一ノ門と山門の中間地点に建つ山門一戸の八脚門で、金剛力士像を安置する。
 髪の毛を髷に結い、上半身は裸形、腰は裳で装い、裸足という姿が原則ですが古代には甲をまとった武装像もあります。主に阿形像が持つ「金剛杵」ですが金剛杵は古代インドの武器で最初、四天王の上司である「帝釈天」の持物でした。  

吽形像

2014/10/17 16:36:06

吽形像

 髪の毛を髷に結い、上半身は裸形、腰は裳で装い、裸足という姿が原則ですが古代には甲をまとった武装像もあります。

二の門(仁王門)

2014/10/17 16:36:06

二の門(仁王門)

 入母屋造八脚門、国の重要文化財。一の門を望む。

太山寺参道

2014/10/17 16:48:01

太山寺参道

太山寺本堂

2014/10/17 16:48:01

太山寺本堂

 太山寺の草創については、以下のような「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。それによると、飛鳥時代の用明天皇2年(587年)、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光が差し嵐が止んだ。光の差した場所に行ってみると十一面観音を祀った堂があった。長者は感謝しそこに寺院を建立するため、豊後より一晩で建材を持ち込んだ。そして、山腹に一夜にして寺院を建立したということである。

太山寺の仏足石

2014/10/17 16:48:01

太山寺の仏足石

 釈尊の足形を石面に刻んだもの。インドには古くからこれを礼拝する風習があり、西域から唐を経て奈良時代に日本にも伝わり、各地で模刻された。

句碑

2014/10/17 17:02:41

句碑

  もりもりもりあがる雲へあゆむ  山頭火

 この句は、昭和15年9月この太山寺で詠まれたといわれています。この雰囲気の中に佇む山頭火はいったいそのとき何を想ったのでしょうか。

一のノ門

2014/10/17 17:09:36

一のノ門

 一の門:冠木門に切妻屋根を架けた簡素な門。
門は3つあり、一の門から本堂までは0.8kmある。

 二の門(仁王門):入母屋造八脚門、国の重要文化財

 三の門(四天王門):入母屋造楼門