夏は涼しく・・浪速の刑場跡・・をポタってみる・・。

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2017-08-14 13-10

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/08/14 13:10:49終了日時2017/08/14 16:32:06
水平距離41.51km沿面距離41.91km
経過時間3時間21分17秒移動時間2時間38分46秒
全体平均速度12.49km/h移動平均速度15.63km/h
最高速度34.66km/h昇降量合計792m
総上昇量392m総下降量400m
最高高度81m最低高度1m

レポート概要

夏の休みとなると・・僕らが子供のころは毎日のように心霊特集をやっていたけど最近は見ることが少なくなったと感じる昨今である。
ユーチューブなんかで質のいい北野誠の(お前ら来るな)とな稲川 淳二の怪談話が聞けるのでTVも視聴率が稼げなくなって、やめてしまったんだろうな。

盆ははやはり異界への扉が開くと謂われていて、昔から子供は海や川の水辺や墓場に行っては成らないと・・厳しく戒められていた。
おじさんになった今、少し涼しくなりたくて大阪にあった刑場跡をポタって見た・・・

写真レポート

大正区への玄関 千本松大橋

2017/08/14 13:34:50

大正区への玄関 千本松大橋

陸の孤島と云われる 大正区へは必ず橋を渡らなければ成らない。
千本松大橋は、僕が子供の頃(1973年)に架けられた。
当時も珍しい橋で近辺の住人は見学に行ったもんだ。
下には渡船があって、自動車以外で走っている人を見かける事は皆無である。
物好きなローディー位しかループを漕ぐ人は居ないだろう。



近代紡績発祥の地

2017/08/14 13:51:45

近代紡績発祥の地

刑場跡とはなんの関係もありませんが、明治16年7月に, 東京-大阪の実業財界人渋沢栄一や藤田伝三郎らが出資した大阪紡績会社(通称三軒家紡績)が, 当地「三軒家村」で創業を始めました。

このあたりは人口島で人も住まず大きな工場を作るのに適してそうだ。



今木刑場跡(世界初の腎臓機能実証実験の地)

2017/08/14 13:55:23

今木刑場跡(世界初の腎臓機能実証実験の地)

明和7年から安永7年にかけて難波島の今木新田が開拓され、その北端には、幕府の木津川口刑場(今木刑場)が設けられました。

主に廻船に関わる刑場であったそうですが、時代が下ると千日前で晒首になった罪人の胴体を捨てる場所でもあったそうです。(明治40年百済橋を架ける時に大量の人骨が出たそうだ)

1800年ここで大矢尚斎、伏屋素狄、各務文献ら絲漢堂の蘭法医による女性の刑死人の解剖が行われ、腎臓の機能が実証された。



「安政大津波」の碑

2017/08/14 14:02:27

「安政大津波」の碑

こちらも刑場跡とは関係ありませんが、大正橋東詰に安政大津波の碑があります。

嘉永7年(1854年)11月の大地震による大津波でその模様を記録し後世に対する戒めを伝えるのが、大正橋東詰(北側)にある安政2年(1855年)7月建立の安政大津波碑です。

慰霊塔ような作りですが、津波の被害と心得を後世にに残したい思いが刻まれた碑です、日本人は記録が好きな民族ですが、江戸期の人々は後世の子孫にまで思いと気構えを伝えたかったのでしょう。
日本は江戸時代からいい国であったのですね。



千日前刑場跡

2017/08/14 14:14:34

千日前刑場跡

関連リンク

ご存知千日前刑場跡です。僕らが子供の頃、現在ビックカメラがある場所で大きな火事があり100人以上の人が亡くなった。当時から刑場の上にビルを建てたので成仏できない罪人の霊がしでかした等とまことしやかに謂われていた。

今ではかつての刑場跡を想像させる物はアムザ横の三津寺墓地とアムザから少し南にある榎地蔵尊くらいで痕跡はほぼ無い。

ここでは主に松屋町牢屋敷内で斬首し、その刑首をここで晒す(晒刑)が行われていたそうだ。



堀川端処刑場跡(八重垣大明神)

2017/08/14 14:48:43

堀川端処刑場跡(八重垣大明神)

関連リンク

堀川端処刑場は徳川2代将軍秀忠の時代、この堀川端(扇町界隈の旧称)の荒野に仕置き場(刑場)が設けられた、千日前刑場や飛田刑場が出来る前にあったらしい。

ここに画像にある八重垣大明神と謂うフェンスで囲まれた誰もお参りできない不思議な碑があった、直感で(祟りのある場所だな・・)と感じ調べてみると・・おお怖。リンク参照

僕の会社の近くに祟りのある楠があるのですが、ここほど厳重に封印していないので、おしてしるべしですかな?



堀川端処刑場跡

2017/08/14 14:50:27

堀川端処刑場跡

いわずとも知れた 扇町公園 ですね。間テレの新社屋が綺麗な公園ですが。
心霊スポットみたいですね。

元々このあたりは荒野であり、踏み入る者も少なかった事から徳川2代将軍秀忠の時代、この堀川端(扇町界隈の旧称)の荒野に、仕置き場(刑場)が設けられており明治十五年(1882)に、堀川監獄分署(後の堀川監獄)が設立され、政治犯や重犯罪人が投獄される場所となり、「泣く子も黙る」といわれるほど恐れられました。



野江刑場跡

2017/08/14 15:06:20

野江刑場跡

関連リンク

かつて此処には東海道(京街道)が突っ切っていた。

丁度、町と農村部との境目が野江村辺りで、そういう場所として野江刑場がおかれていたようだ。

現在は刑場跡を示すような一切の物は存在していない、関西大学 大阪都市遺産研究センター 所蔵
牧村史陽氏旧蔵写真データベースに昔の写真があるのでリンクします。



旧大阪砲兵工廠化学分析所

2017/08/14 15:23:20

旧大阪砲兵工廠化学分析所

京橋口の近くに明治初期に建てられた日本軍の兵器工場「大阪砲兵工廠」がありました。当時アジア最大の工場で、第2次世界大戦前には6万人もの人々が働いていたそうです。

終戦直前に米軍の爆撃によって多くの建物が破壊され、がれきと不発弾などが放置されて、危険なため20年間手付かずのままでした。その後、自衛隊大阪地方連絡部として使用されましたが、1998(平成10)年以降は自衛隊が撤退し再び放置されています。

此処は出るよ・・



鳶田(飛田)刑場跡

2017/08/14 15:48:55

鳶田(飛田)刑場跡

関連リンク

国立国会図書館のリファレンスページに以下の記載がある。

鳶田(飛田)刑場は、摂州西成郡今宮村鳶田の泉州筋街道に面した処にあり、南北間数凡一町位で供養塔が数基建立されていた。平素は葦の茂った原野であった。また、平日は番人小屋はなく、処刑の時に番人小屋を建て、番人が詰めた。」

此処では主に火あぶり(火刑)が行われたようだ、有名な大塩平八郎の乱での処刑はこのあたりで行われた。
かつてあった供養等や地蔵はどこにも無かった?関西大学 大阪都市遺産研究センター 所蔵
牧村史陽氏旧蔵写真データベースに昔の写真があるのでリンクします。



住吉大社

2017/08/14 16:11:24

住吉大社

異界を訪ね歩いた後は不浄なものやややこしい残念を払わなければ成りません。。

最後は日本最強の清めの神 住吉三神 にお参りして帰途に着いた。