夏は涼しく②・・大坂七墓+α・・をポタる。

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2017-08-19 07-00

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/08/19 07:06:38終了日時2017/08/19 12:21:33
水平距離60.53km沿面距離60.85km
経過時間5時間14分55秒移動時間4時間19分59秒
全体平均速度11.59km/h移動平均速度13.91km/h
最高速度46.02km/h昇降量合計1138m
総上昇量569m総下降量569m
最高高度73m最低高度4m

レポート概要

江戸の中期頃から明治初期に至るまで、盂蘭盆(うらぼん)になると、七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向する人達がいました。手にはスリ鉦や木魚、鈴などを持っていますね。団扇や扇子、提灯を持って夜に巡っていたのでしょうか。
下記に画像があります。
http://www.sankei.com/west/photos/141216/wst1412160008-p2.html
ずいぶん楽しそうですね・・
七墓巡をすると「千仏を供養したのに匹敵する」「自分が死んだ葬式の日に雨が降らない」などの霊効があるとされた。

夏の暑い一日・・少し涼しくなりたくておじさんは大阪七墓+αに行って見ました。
たぶん僕の葬式には雨が降らないでしょう。

写真レポート

住吉大社

2017/08/19 07:14:33

住吉大社

今回もポタ前に日本最強の清め神 住吉三神 に祈りをささげて出発。



天下茶屋跡

2017/08/19 07:21:34

天下茶屋跡

七墓とは関係ないけど紀州街道を北上するのでついでに立ち寄り。

天下茶屋は豊臣秀吉が堺や住吉への途中立ち寄り、茶の湯を楽しんたところで、その名も殿下茶屋がなまったものという。この茶屋には名水のほまれ高い泉があり、秀吉はこれに「恵の水」と名づけた。その跡は芽木(めぎ)家とともに邸内に保存されていたが、戦災で焼失した。
 なお、道(紀州街道)をへだてた東側に紹鴎森天満宮があるが、ここは千利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう)が隠棲したところである。大阪市



飛田墓地(大阪七墓①)

2017/08/19 07:30:17

飛田墓地(大阪七墓①)

関連リンク

この墓地には、大塩平八郎ら 20 名の処刑が行われた刑場が併設されていた。刑場の地蔵堂にあった7尺の太子地蔵や元禄墓地修復顕彰碑、無縁仏を祀った飛田墓地無縁塔などが堺筋に面する一画にまとめて移設されていたが 2010年(平成22年)3月に撤去され更地になってしまった。

一切の記憶が失われた訳ですね。



飛田墓跡(大阪七墓①)

2017/08/19 07:31:02

飛田墓跡(大阪七墓①)

阪堺電車の下を潜る道があった。

この道が(阪堺電気軌道)下を潜っているのは、古くから使われた道だからわざわざ下を潜る構造に軌道を敷いたわけだから、かってあった刑場に墓地の南端から向かう道の跡ではないか?と考えた。



千日墓(大阪七墓②)

2017/08/19 07:50:42

千日墓(大阪七墓②)

関連リンク

ここも痕跡はこの三津寺墓地と榎地蔵尊だけがある。

三津寺墓地からアムザを眺める。



千日墓(大阪七墓②)

2017/08/19 07:52:01

千日墓(大阪七墓②)

関連リンク

榎地蔵尊は江戸期の絵図にも登場する。

この北側が刑場跡でこの周りが千日墓地の跡と成る。



高麗橋

2017/08/19 08:04:27

高麗橋

付加刑としての晒や本刑としての晒刑を執行する場所(晒場)に関して、藤井嘉雄著『大坂町奉行と刑罰』には、日本橋と高麗橋であったと記述している。

昔はこのあたりに晒首が並んでいたのですね・・



松屋町牢屋跡

2017/08/19 08:11:48

松屋町牢屋跡

関連リンク

「十三のいま昔を歩こう」というサイトに「大阪七墓巡り 蒲生・小橋・鳶田」があり、そのレポートのコメント欄に、安田八十八氏が寄せた大阪の処刑場を概略解説した書き込みがあるので転載させていただきます。
.
“大坂の刑場 : 殆どの斬首刑は与左衛門町(糸屋町2丁目中大江小学校)の牢屋の土壇場で行われていたようです、死体は渡辺村役人が役舟に乗せ東横堀川から難波島まで運び捨てられていました、鳶田の刑場は広くて(南北一町位約110m)あったので火刑(火あぶり)磔刑が主に行われていたようです、大塩の死体は腐らせないように塩詰めにされていました、新塩を鼻、耳、口、肛門に詰め、身体全体を新塩で包み保存していた(摂津役人村文書)



繁華街をくねる中国街道

2017/08/19 08:30:07

繁華街をくねる中国街道

中国街道を梅田へ向かう。

都市化が始まる前からある道で。くねくねしています。



梅田墓(大阪七墓③)

2017/08/19 08:39:55

梅田墓(大阪七墓③)

関連リンク

かつての梅田墓は痕跡を一切とどめていなかった。

恐らくこの辺りには水辺に広がる墓石が乱立していたのでしょね。

2017/6月の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。との記事があったのでリンクしときます。



梅田墓(大阪七墓③)

2017/08/19 08:41:53

梅田墓(大阪七墓③)

今は何も残っていません。
50年後には梅田墓があったことすら都市の記憶から失われるのでしょうね。



南浜 墓(大阪七墓④)

2017/08/19 08:57:05

南浜 墓(大阪七墓④)

行基によって建てられた。日本最古の墓所・火葬所のはじまりの場所ともいわれています。
火葬場は現在は存在しない。

今は非常に小さな墓地になって居ますが、かつてはこの場所に北にある墓所を含めた非常に広範囲な墓地であったらしい。

花が生けられたりしている墓もあり現在も生きている墓所でしよう。



南浜 墓(大阪七墓④)

2017/08/19 09:04:38

南浜 墓(大阪七墓④)

首の無い地蔵尊の二つ隣にある、新寂林道の墓は大塩平八郎の祖父政之丞が早死した子供のために建てたもの。とされています。
その左はその左は平八郎が25歳の時に先祖のために建てた墓。

南濱墓はかなり有名な人々の墓がいまだにたくさんある様子です。

ものすごく蚊の多い所で20分の間に5箇所かまれた。



南浜 墓(大阪七墓④)

2017/08/19 09:06:19

南浜 墓(大阪七墓④)

地蔵堂の中に由緒書きがある。
 
南浜墓地は行基菩薩(約千三百年前)によって整地され我が国最初の墓所であって天平十九年七月弥陀如来六観音六地蔵尊を安置し荼毘開闢の供養が行われた。
その後世相の変遷により次第に荒退し大正十四年豊崎町より大阪市に移管された。
天満の住人・秋田羅以(らい)は日頃嫡子を望み神佛に祈願してゐた処ある日一人の行者が訪れ 「南浜墓地の南浜地蔵尊を信仰せよ必ず願は叶へらる」と言って立ち去った。
早速地蔵尊を祈願をかけたところ霊験あらたか明治二十四年一月九日男子(栄之助)が授けられた。
その御恩報謝として同年九月に現存の地蔵尊石佛並御堂が建立され今日に至った。
 道引き地蔵講世話人               昭和六十年一月二十日

おばさんが綺麗に掃除されていた。



葭原墓(大阪七墓⑤)

2017/08/19 09:13:13

葭原墓(大阪七墓⑤)

西暦645年大化の改新が行われ、都が難波長柄豊崎に移され、色々の改革が着々と進んでいた頃、行基菩薩 (668-749)は大阪の南から北にかけて七カ所の墓地を作り、大阪七墓と称された。そのうちの1つが天満葭原のこの地の墓地であった。こののち法然(1133-1212)によって開かれた浄土宗ではこの墓地を守るため西の坊というお寺を建立した。その当時この付近は大阪湾の海岸線に近く、葭(葦)の生い茂る地帯で、この通りも昭和の末期(1980-1990)までは葭原(吉原)通りと呼ばれていた。このお寺にこの地蔵尊 阿弥陀如来、勢至菩薩が併祀された。その後海岸線は土砂も堆積し、近代は盛んに埋め立てもされ、建物も多く建って、現在ではとても海は見えないが、当時はお地蔵様の正面、西の方に海を見渡すことが出来たので、沖向地蔵尊と呼ばれるようになった由である。
大正10年(1921年) 大阪市がこの地に北市



葭原墓(大阪七墓⑤)沖向地蔵尊

2017/08/19 09:13:13

葭原墓(大阪七墓⑤)沖向地蔵尊

この地に北市民館を建設するに当たり、この墓地は 現在の長柄墓地に移転されこの地蔵尊の堂宇のみ残された。10世紀に亘る度々の淀川の氾濫、最近では明治18年(1885年)の大洪水にも耐え、さらに昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲にも付近一帯焼夷弾による大被害を蒙ったにもかかわらずこの堂宇は焼失を免れ、霊験あらたかなお地蔵さんと地域の人々に信仰され親しまれている。
ただ 堂宇は年代を経て 老朽化が著しいため平成15年(2003年)隣接の太田診療所の新築と同時に建て替えられ現在のお姿となっている。           天六東通り商店会会長 川島長利 撰文

かつてはここで海に日が沈む光景が見れたのでしょうね。
はるか淡路島と明石の境界線に沈む夕日はさぞかし美しい景色だったのでしょう。
先の説明分を書いた人は郷土愛に満ちていて、この町が大好きな



蒲生墓(大阪七墓⑥)

2017/08/19 09:29:28

蒲生墓(大阪七墓⑥)

関連リンク

京橋の東にある古堤街道沿いに蒲生墓はあった。

飲み屋街のチョイ裏に墓石が並ぶ



蒲生墓(大阪七墓⑥)

2017/08/19 09:29:28

蒲生墓(大阪七墓⑥)

関連リンク

今では施錠されていて関係者以外は立ち入りが出来ない。

此処では結構有名な墓石があって見たかったのですが無理でした。ただこの墓地は新規の墓所を整地しているので新しい墓を作ることが出来るのかも知れない。

まだ生きている墓所と言えるのでしょう。



真田山陸軍墓地

2017/08/19 09:46:45

真田山陸軍墓地

関連リンク

大阪七墓とは関係がありませんが、ここもインパクトのある墓地なので立ち寄りました。

公益財団法人真田山陸軍墓地維持会のHPより転記

明治4年に設置されたこの真田山旧陸軍墓地は、全国で80箇所以上つくられた陸軍墓地の中でも最古の歴史を持ち、旧日本陸軍の歴史・文化を後世に伝える遺跡・遺物としても極めて貴重な存在となっています。・・・ETC



真田山陸軍墓地

2017/08/19 09:48:28

真田山陸軍墓地

此処は確かに都会の中の異空間になっています。

和泉砂岩で作られた墓石には氏名・出身地・何処で死んだか・が刻まれていてリアリティー感がすごい。

思わず襟を正してしまうような空間である。



小橋墓(大阪七墓⑦)

2017/08/19 10:01:32

小橋墓(大阪七墓⑦)

今では痕跡を確かめる何者も残っていない。
公園の西にかつて墓地にあった三体の地蔵が延命地蔵尊としてぽつねんとあった。



湊西防災公園

2017/08/19 11:19:01

湊西防災公園

大阪七墓めぐりのついでに堺の仕置場を探してみた。

堺の南仕置場跡ははっきりとは解らなかった・・

ただいろんな資料を見ていると紀州街道沿いの一里塚にあるとされているのですが?熊野街道沿いに一里山地蔵尊と言うのがあってどうも其処ではないか?と云う感じがする。



堺北之橋跡

2017/08/19 11:38:50

堺北之橋跡

堺の町には住吉大社から紀州と続く「紀州街道」が町の真ん中を通っていてそこを縦軸にして街並みが碁盤目状に作られていました。その紀州街道が堺へ入ってくる入り口になっていたのが「北之橋」です。大阪夏の陣後の堺の環濠再建時に公儀橋として建設され、長さ七間(12.7m)、幅二間半(4.5m)だった。

川から向こうは異界の地であった。



堺北仕置場跡

2017/08/19 11:40:01

堺北仕置場跡

堺市史より転記。
“徳川時代の御仕置場は南北二箇所にあった。南は東湊町紀州街道の傍ら一里塚のある所、北は北之橋北方街道の西側にあって、それぞれ南仕置場、北仕置場と呼び、又南北の刑場とも云った。(堺鑑、各年代改、堺手鑑)現在其旧祉は人家となり、並松町に属し、風間堂の筋向に当っている。

確かに風間堂の筋向いに今も人家が建って居ますがお庭に地蔵尊が祀られていました。