江戸時代に大坂に在ったとされる刑場跡を巡って見た。

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2018-03-11 09-54

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2018/03/11 09:54:33終了日時2018/03/11 14:17:17
水平距離55.79km沿面距離55.97km
経過時間4時間22分44秒移動時間3時間37分50秒
全体平均速度12.78km/h移動平均速度15.19km/h
最高速度37.15km/h昇降量合計1015m
総上昇量490m総下降量525m
最高高度65m最低高度-4m

レポート概要

大阪にある(かつてあった)刑場跡を訪ねた。
前回 浪速の刑場跡をポタる との表題で刑場跡を訪ねて見たが、やや消化不良の点もあり今回は完結偏として廻ってみた。

大阪府史:警察史の記載を見ると「刑場、即、仕置場は、各所共に、牢屋の近傍、又は、村外レに一定せられしが、一定のものなき所は、河原、若くは、物捨場に於いて行ふ規定にして、当所の仕置場は、千日(今の南区難波東河原)、及び野江、鳶田等にして晒鋸挽、獄門、死罪等の刑場なり。原文ママ」との記載が確認できる。

江戸期の死刑制度を考える場合、一罰百戒が為政者の眼目であり、世間を騒がせた様な凶悪な事件(当時は強盗・親殺し・主殺し・放火)の場合、現在のように密室で執行されることはまずまず無かった。
刑死者の無残な遺体をさらす事により、再犯の防止に利用していた事だろうしお上(為政者)のご威光を世間に示してもいただろう。
また刑としての死刑と、見せしめとしての晒刑があって重罪の場合は市中引き回しの上刑場で執行されその遺体を数日晒していた模様ですし、死罪等の場合等は、牢屋に併設された土壇場で斬首された後、その首を晒す事が多くあったそうです。
江戸期の刑罰は非常に複雑で現在のようにシンプルな執行方法では無くいくつものパターンの組み合わせで、死後供養が可能・不可能なども含まれたもので、刑罰の内容(死罪・下手人・斬首・磔・火刑)が決められていた模様です。またそれらに付加刑としての引き回しや晒しがあり複雑なものだったようすです。(現在のように矯正すると言う概念がなく刑務所的な施設は皆無で、犯罪と量刑の関係も庶民へは知らしめていなかったそうで、現在の感覚からは非常に極端な量刑と法の運用なのです。)

また見せしめとしての意味合いが政治的に非常に強く反映された時代でもあったので、大規模な町から少し外れた街道沿いに刑場と晒場が置かれていた様子です。
時代が下って町が拡大されていくとそれにともない刑場も町の郊外へと変遷していった、庶民にとっては現在からは考えられない事ながら、娯楽 の側面もあった様子で、野江の刑場での最後(明治初年頃)の刑死人は奉公先の主人を殺した河内の大工の娘と大金を盗んだ大店の番頭の二名であったが、大工の娘は相当な美人であり、処刑の当日、見物人が殺到し、沿道の田畑は人でいっぱいになったという。(あかいつかより)
http://scary.jp/supot/osaka/noesyo/index.php

武士の場合は名誉ある死を賜る場合は、(これも一種の刑罰と捉える事が出来て、武士でも犯罪性が高い場合は切腹させず斬首される事があった 切腹を命じられた場合は名誉が保たれる事を感謝する場合もあったが、実態は刑死とさほど変わらず武士階級における死刑であった) その場合の場所はいろいろなパターンがあったようで、(自宅・城の部屋・寺院の部屋・寺院の庭先)いろんな所で切腹をしている。

いずれにせよ、かつての刑場(刑場跡)は旧街道の町から少し離れた人家がまばらになった辺りに置かれていて、老若男女 が物見遊山気分で見にいっていたんでしょうね?母親は子に(悪い事するとああなるよ!)とか言いながら学習させていたことでしょう。

写真レポート

大和橋

2018/03/11 10:08:06

大和橋

紀州街道の大和橋をスタート地点とした。

街道の先にあるのは、(未知なる場所と知らない世界)は万国共通である。



風間堂

2018/03/11 10:11:06

風間堂

風間六右衛門は堺の町割りに際して、法華宗の寺院の敷地が大きすぎると批判を浴び、江戸に出頭を命じられたが、江戸への旅支度をして駕籠に乗ったが、並松町の辺りで自害した。
その後、風間堂という小堂を建立された。

かつて風間堂の筋向いには大野道犬の供養搭があった。
大坂の陣のときに大野道犬斎治胤が堺に駐留して市街を焼き討ち。2万軒の建物を壊して焦土とした。敗戦後城を脱出して京都方広寺の近くで捕えられるが、恨みを持つ堺の人々が徳川幕府に願い出て引き取り、6月27日見せしめに焼き討ちにされた。治胤は全身黒こげながら笑うなど最期まで悪びれたところがなかったという。

ここ並松町はその大野道犬が火刑にされた所でもある。



北の橋の掲示板

2018/03/11 10:13:28

北の橋の掲示板

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現在は道路となっているが、かつてここには堺の町をめぐる環濠がある橋が掛かっていた。

町の境界でありこの北側の風間堂の向かいあたりが並松の刑場跡にあたる。



堺北御仕置場

2018/03/11 10:15:05

堺北御仕置場

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北の橋にある掲示板には紀州街道往還図絵のコピーが掲示してある。
読みにくいが 刑場 の文字が見える。

並松の刑場には大野道犬の供養搭・風間六右衛門の墓・刑死した無縁仏を供養する題目碑があったが明治になり刑場が廃止された時にそれらは月蔵寺へ移った。

月蔵寺では同寺の墓の改装後、大野道犬の供養搭と風間六右衛門の墓を見やすい位置へ移動させるとの事であった。



妙國寺

2018/03/11 10:21:39

妙國寺

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 堺事件は、慶応4年2月15日堺港に上陸してきたフランス軍艦の兵に対し、鳥羽伏見の戦以後に堺の警固にあたっていた土佐藩士がこれを阻止しようとしてフランス人11人を殺傷した事件です。フランス公使は憤激し、2月19日に明治新政府に対し土佐藩士の斬刑や謝罪を含む五ケ条の要求を提出し抗議しました。結果、2月23日土佐藩士隊長 箕浦猪之吉(みのうら いのきち)ら20人の切腹が妙國寺本堂庭前でフランス人士官等の立ち合いのもと行われました。
しかし、11人が切腹した時点で、フランス人達は切腹の悲惨さにすっかり青ざめ切腹の中止を命じ、残りの9人は罪人として土佐に返されることになりました。 
切腹してはらわたをフランス人に投げつけて事切れたそうです。



土佐の侍腹切の墓

2018/03/11 10:20:52

土佐の侍腹切の墓

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土佐十一烈士墓は慶応4年(1868年)に起った堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓で、宝珠院にある。

切腹した場所の妙国寺の住職は境内の墓地に罪人を埋めることを拒み、(罪人の)鳶田の墓地に埋めよと言い、土佐藩家老・深尾鼎、大監察・小五郎右衛門らは、「国家のために忠死した者を」と怒声をあげた。そこで、この寺の一件は、吹田屋清五郎と明石屋万吉のふたりがその奔走をひきうけた。

妙国寺の裏に破れ小屋のような宝珠院という小寺があり、ここの老僧が、「罪人であるか、国家の忠臣であるか、後世の歴史がきめるやろ。わしはどっちでもええ。死ねばことごとく仏であるによって」と葬ってくれることになる。 司馬遼太郎 「俄ー浪華遊侠伝ー」より。



とさのさむらいはらきりのはか

2018/03/11 10:19:50

とさのさむらいはらきりのはか

その後の宝珠院は参詣するひとが、毎日、何万とおしかけ、境内には、二、三十軒の露店がならび、宿屋町の大通りの両側には、花屋、線香を売る店が並ぶ。
それに、宝寿院の老僧は、義侠心もつよいが、金儲けにも細心な人物で、残りの9つの大瓶を土佐藩からもらいうけ、「この大瓶にはいったら運気がつく」と寺で宣伝し、遠く、大和や河内方面からも人がおしかけてきたと言う。

司馬遼太郎 「俄ー浪華遊侠伝ー」より。



一里山地蔵尊(堺南御仕置場址)

2018/03/11 10:35:00

一里山地蔵尊(堺南御仕置場址)

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ここにはかつて一里塚があったようで堺南御仕置場址と伝わる。
堺の古い地図には刑場との記載のある物はないが堺市史に記載がある。
紀州街道往還図絵には熊野街道(小栗街道)に一里塚の記載が確認できる。

堺市史第三編 名蹟誌 第三章 史蹟名勝 第一節 史蹟(一)(一六)御仕置場址

一里山地蔵は大正時代(1912~1926)の初期には村の西端から300メートルくらいの距離で、村と小栗街道との中間にありました。山とか丘というほどでもなく、小さな土の塊のようなもので、これが大和川から一里(4キロ)のところにあることから一里塚と呼ばれました。現在は「一里山地蔵尊」がまつられています。掲示板



鳶田刑場址あたり

2018/03/11 11:14:40

鳶田刑場址あたり

このあたりは鳶田墓地に隣接する形で鳶田刑場があったらしい、鳶田の刑場は広くて(南北一町位約110m)あったので火刑(火あぶり)磔刑が主に行われていたようです。
有名な大塩平八郎もここで磔(自害後ですが)に処せられたそうだ。
大塩の乱は大坂の町の五分の一が灰燼に帰し、大変な事件であったので事件後処刑までに(首謀者はすべて死亡していたがわざわざ遺体を保存して磔にした「塩詰死骸引廻上磔」)長い時間が掛かったようだ。
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kasiyawa1.jpg

鳶田(飛田)刑場(西成区太子町一丁目) 
「鳶田(飛田)刑場は、摂州西成郡今宮村鳶田の泉州筋街道に面した処にあり、南北間数凡一町位で供養塔が数基建立されていた。平素は葦の茂った原野であった。また、平日は番人小屋はなく、処刑の時に番人小屋を建て、番人が詰めた。」



太子地蔵尊のあった址

2018/03/11 11:18:09

太子地蔵尊のあった址

江戸時代 飛田に墓地が移され、刑場も置かれました。
ここには、「太子地蔵尊」と、「飛田墓地無縁塔」がありましたが、2010年頃に撤去されてしまいまいた。飛田墓地無縁塔とともに跡形もなく消え去りました。



千日前刑場址

2018/03/11 11:28:27

千日前刑場址

千日前刑場の歴史は古く、大阪落城の時代にさかのぼる。
徳川幕府は市街整理のひとつとして寺院と墓地の移転廃合を行いました。点在している墓地を千日、小橋村、葭原村、濱村、梅田村へ移したのです。特に千日は刑場も置かれ一般の人を遠ざける場所になりました。

現在では様変わりしてここが墓や刑場があった痕跡は皆無で、この三津寺墓と榎地蔵尊のみが往時の面影を残している。



榎地蔵尊

2018/03/11 11:29:56

榎地蔵尊

唯一この 榎地蔵尊(榎神社)のみが位置を違えず存在している。



京街道への道標

2018/03/11 11:50:59

京街道への道標

かつては此のあたりから、大和街道・京街道が分かれていた。



京街道

2018/03/11 11:56:14

京街道

東成郡誌(大正11年刊行)に記載のある 榎並町 第五 名所旧跡 野江仕置場址 を転記する。
原文ママ(旧漢字カナ使いは訂正)
現今北区善源寺町の東端に在り。この跡とも覚しき坪敷百三十坪(古は面積数倍ありき)東は野江井路に連なり西・北・南は京街道に接す。
雑草生い茂り足ふみいれべからず。
石碑の苔蒸したるもの二三、土中に埋もれたる、所々に蔭見する。
昔此の地にて重罪者を所刑せし処と云い伝ふ。
  中略 仕置場にて磔せらるたるものの重なるもの左の如し。(現在古老の言に依る)
稲田のおとめ。中河内郡楠根村稲田(稲田大工某の娘)大阪へ奉公に行き主人を殺したるため。
米太の番頭。大阪市東区平野町付近。主人の金貮千七百両とれり。
何れも六十年前なり。
---------------------------------------------
この磔は明治5年に執行された。明治五年は太陽暦が採用された年でまだ西南戦争が起こる前で、かなり世情は混乱していたのではないかと思われるのですが、このように犯罪の刑の執行が粛々と行われているところを見ると治安が安定した国家であったのでしょう。
しかし業務上横領で磔とは厳しい時代ですね。



榎並地蔵尊(野江刑場址)

2018/03/11 11:58:36

榎並地蔵尊(野江刑場址)

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元の場所は当地より南の榎並川に掛かっていた水香橋の袂に祀られていたものであったようだ。

この地蔵の京街道を挟んだ向かい側あたりから南へかけて・かつての水路(現在は埋められて道路)との間の場所がかつての野江刑場の跡ではないかと考えられる。



堀川端刑場址

2018/03/11 12:17:08

堀川端刑場址

元々このあたりは荒野であり、踏み入る者も少なかった事から徳川2代将軍秀忠の時代、この堀川端(扇町界隈の旧称)の荒野に、仕置き場(刑場)が設けられており明治十五年(1882)に、堀川監獄分署(後の堀川監獄)が設立され、政治犯や重犯罪人が投獄される場所となり、「泣く子も黙る」といわれるほど恐れられました。  綱島天神社」のサイト転記

いまは綺麗な公園として整備されていますが、かなりな心霊スポット見たいです。



八重垣大明神

2018/03/11 12:17:59

八重垣大明神

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阪神高速の入り口に奇妙な社がある。

フェンスで囲まれた参拝できない社だ、ご他聞にもれず たたり のある社である。
(浮浪者対策かも知れんが・・)



松屋町牢屋跡

2018/03/11 12:29:53

松屋町牢屋跡

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十三のいま昔を歩こうと云うブログに安田八十八氏の書き込みがあるので転記して見ます。
-----------------------------------原文ママ
殆どの斬首刑は与左衛門町(糸屋町2丁目中大江小学校)の牢屋の土壇場で行われていたようです、死体は渡辺村役人が役舟に乗せ東横堀川から難波島まで運び捨てられていました、鳶田の刑場は広くて(南北一町位約110m)あったので火刑(火あぶり)磔刑が主に行われていたようです、大塩の死体は腐らせないように塩詰めにされていました、新塩を鼻、耳、口、肛門に詰め、身体全体を新塩で包み保存していた(摂津役人村文書)以下省略
-------------------------------------------------------



西町奉行所跡

2018/03/11 12:31:36

西町奉行所跡

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初は東横堀本町橋にありましたが、享保9年の大火で東町奉行所とともに一時難波別院に移り、のちに本町橋東詰に移った敷地面先は9,600㎡。あり付帯施設として松屋町牢屋も併設されていたのだろう。

市中引き回しの上獄門申し付ける。となれば奉行所の横にあった松屋町牢屋から引き出されて引き回された。



大塩平八郎終焉の地

2018/03/11 12:40:46

大塩平八郎終焉の地

大塩平八郎中斎(1793~1837)は、江戸時代後期大坂町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、世を治める者の政治姿勢を問い、民衆の師父と慕われた。天保8年(1837)2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして、門人の武士・農民等を率いて決起した。
 乱後大塩平八郎は・格之助父子は、この地に隣接した靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏したが、同年3月27日幕吏の包囲のうちに自焼して果てた。民衆に呼びかけた檄文は、密かに書き写され、全国にその挙を伝えた。大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている。
 決起160年に当たり、全国の篤志を仰いでここに建碑する。

  一九九七年九月
              大塩事件研究会



大塩平八郎終焉の地

2018/03/11 12:43:23

大塩平八郎終焉の地

画像の狭い通路は太閤背割りと云う豊臣秀吉が築いた下水施設で現在も利用されていますが、ちょうど碑文のあった裏側に手拭地仕入職美吉屋五郎兵衛宅がありそこに潜んでいたが、火薬を撒いて爆死したそうだ。

遺体はその後塩漬けにされ鳶田の刑場で磔にしたそうだ。「塩詰死骸引廻上磔」



三軒家刑場 (今木刑場址)

2018/03/11 13:04:21

三軒家刑場 (今木刑場址)

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三軒家刑場 (大正区三軒家東二丁目、月正島・一名葦島) 
「三軒家刑場は、木津川口の月正島にあった刑場で、一名葦島刑場とも称した。その規模は定かではない。廻船にかかる御仕置はこの刑場で執行した。『町奉行所旧記』にいう安治川口・木津川口刑場とは、この三軒家刑場を指すものと思われる。明和元年〔一七六四〕五月二日、対馬藩の通詞鈴木伝蔵は、朝鮮使節一行の崔天宗(さい てんそう)なる者を、その宿寺である西本願寺津村御堂で刺殺した件により、月正島で「死罪」に処せられたことは有名である。



百済橋跡 世界初腎臓機能の実証地

2018/03/11 13:04:21

百済橋跡 世界初腎臓機能の実証地

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百済橋は難波島西の三軒家川にあったものですが、川の一部が埋め立てられたさいに廃橋になりました。かつてこのあたりは難波島と呼ばれ、江戸初期より造船業が盛んだったようですが、橋を作る際に大量の人骨が発掘された。

明和7年から安永7年にかけて難波島の今木新田が開拓され、その北端には、幕府の木津川口刑場(今木刑場)が設けられました。そこは一面、葭原だったため、葭島と呼ばれていました。1800 年(寛政 12 年)、大矢尚斎、伏屋素狄、各務文献ら絲漢堂の蘭法医による女性の刑死人の解剖が行われました。これが大阪の市井の医師による初めての人体解剖です。この時、伏屋素狄は腎臓に墨汁を注入し、腎臓を手で握り締め、淡い液体を押し出し、「腎臓の機能は濾過と尿の生成である」と結論づけました。これが西洋に先駆けること 38 年、世界初の腎臓機能の実証実験です。以後、葭島は江戸時代の大坂における人体解剖のメッカとなりました。

敵塾を生んだ大坂 その医跡を巡る。竹中裕弘氏 転記
  



住吉大社

2018/03/11 13:58:26

住吉大社

海洋神の住吉大社へお参り(って云うかお祓いやね)



住吉大社

2018/03/11 13:59:01

住吉大社

イザナギが死者の世界へ赴いた後、その身を清めたときにお生まれになった神様で、穢れの浄化や、生命の加護といった性質を持つとされる海神で最強の清めの神様なのです。