かつて大坂-泉州にあった刑場跡を巡る。

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2019-01-02 07-34

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2019/01/02 07:39:44終了日時2019/01/02 13:16:45
水平距離83.08km沿面距離83.09km
経過時間5時間37分01秒移動時間5時間10分36秒
全体平均速度14.79km/h移動平均速度16.01km/h
最高速度61.86km/h昇降量合計461m
総上昇量226m総下降量235m
最高高度49m最低高度8m

レポート概要

江戸時代に大坂に在った刑場跡を訪ねてみた。
前回 浪速の刑場跡をポタる との表題で刑場跡を訪ねて見たが、やや消化不良の点もあり今回は完結偏として主に泉州と大阪市内(大坂三郷)を廻ってみた。

かつての刑場(仕置場)はいかなる施設で有ったのか?を大阪府史:警察史の記載を調べて見ると「刑場、即、仕置場は、各所共に、牢屋の近傍、又は、村外レに一定せられしが、一定のものなき所は、河原、若くは、物捨場に於いて行ふ規定にして、当所の仕置場は、千日(今の南区難波東河原)、及び野江、鳶田等にして晒鋸挽、獄門、死罪等の刑場なり。原文ママ」との記載が確認できる。

江戸期の死刑制度を考える場合、一罰百戒が為政者の眼目であり、世間を騒がせた様な凶悪な事件(当時は強盗・親殺し・主殺し・放火・窃盗「十両盗めば死罪」)の場合、現在のように密室で執行されることはまずまず無かった。(江戸も中期を過ぎると見せしめとしての死刑は形骸化して牢屋の付帯施設内で執行されていたようですが)
刑死者の無残な遺体をさらす事により、再犯の防止に利用していた事だろうしお上(為政者)のご威光を世間に示してもいただろう。
また刑としての死刑と、見せしめとしての晒刑があって重罪の場合は市中引き回しの上刑場で執行されその遺体を数日晒していた模様ですし、死罪等の場合等は、牢屋に併設された土壇場で斬首された後、その首を晒す事が多くあったそうです。
江戸期の刑罰は非常に複雑で現在のようにシンプルな執行方法では無くいくつものパターンの組み合わせで、死後供養が可能・不可能なども含まれたもので、刑罰の内容(死罪・下手人・斬首・磔・火刑)が決められていた模様です。またそれらに付加刑としての引き回しや晒しがあり複雑なものだったようすです。(現在のように矯正すると言う概念がなく刑務所的な施設は皆無で、犯罪と量刑の関係も庶民へは知らしめていなかったそうで、現在の感覚からは非常に極端な量刑と法の運用であった様子ですし、また現在のように物的証拠などと云う物が無い時代であったので相当な数の冤罪もあったでしょう。大岡越前と将軍吉宗との会話記録が残っていて大岡越前は現役時代に二名の冤罪があって「間違った裁きをした」その事が気になっていた記録が残っています。)
一人は裁きを待っている間に牢で死んでしまった。
一人は取り調べが厳重に過ぎて身に覚えのない罪を自白してしまい死罪となってしまった。
自らの力の及ばなかったそれらの事件を生涯悔やみ続けていたんだそうです。

また見せしめとしての意味合いが政治的に非常に強く反映された時代でもあったので、大規模な町から少し外れた街道沿いに刑場と晒場が置かれていた様子です。
時代が下って町が拡大されていくとそれにともない刑場も町の郊外へと変遷していった、庶民にとっては現在からは考えられない事ながら、娯楽 の側面もあった様子で、野江の刑場での最後(明治初年頃)の刑死人は奉公先の主人を殺した河内の大工の娘と大金を盗んだ大店の番頭の二名であったが、大工の娘は相当な美人であり、処刑の当日、見物人が殺到し、沿道の田畑は人でいっぱいになったという。(あかいつかより)
http://scary.jp/supot/osaka/noesyo/index.php

武士の場合は名誉ある死を賜る場合は、(これも一種の刑罰と捉える事が出来て、武士でも犯罪性が高い場合は切腹させず斬首される事があった 切腹を命じられた場合は名誉が保たれる事を感謝する場合もあったが、実態は刑死とさほど変わらず武士階級における死刑であった) その場合の場所はいろいろなパターンがあったようで、(自宅・城の部屋・寺院の部屋・寺院の庭先)いろんな所で切腹をしている。
堺事件の場合は切腹した小隊の隊長は23-24歳程度であったようで江戸期の責任の取り方と成人とは何ぞや?と云う事を考えさせられる。

いずれにせよ、かつての刑場(刑場跡)は旧街道の町から少し離れた人家がまばらになった辺りに置かれていて、老若男女 が物見遊山気分で見にいっていたんでしょうね?母親は子に(悪い事するとああなるよ!)とか言いながら学習させていたことでしょう。
江戸期は現在では考えられない程の刑罰の残酷さが普通で有ったし・またしかし現在とは比べ物にならない犯罪率の低い社会でもありました。
しかし勤め先の主人殺し「内容は判らないが」や勤め先の金の横領で(現在の貨幣価値では2億7千万円位か?)で磔はきつい時代であったのですね。

写真レポート

大和橋

2019/01/02 07:43:04

大和橋

紀州街道の大和橋をスタート地点とした。

街道の先にあるのは、(未知なる場所と知らない世界)は万国共通である.
後述する 堺事件 の初端はこの橋から始まっった。



風間堂

2019/01/02 07:46:21

風間堂

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風間六右衛門は堺の町割りに際して、法華宗の寺院の敷地が大きすぎると批判を浴び、江戸に出頭を命じられたが、江戸への旅支度をして駕籠に乗ったが、並松町の辺りで自害した。
風間六右衛門は堺の町割りに際して、法華宗の寺院の敷地が大きすぎると批判を浴び、江戸に出頭を命じられたが、江戸への旅支度をして駕籠に乗ったが、並松町の辺りで自害した。
その後、風間堂という小堂を建立された。

かつて風間堂の筋向いには大野道犬の供養搭があった。
大坂の陣のときに大野道犬斎治胤が堺に駐留して市街を焼き討ち。2万軒の建物を壊して焦土とした。敗戦後城を脱出して京都方広寺の近くで捕えられるが、恨みを持つ堺の人々が徳川幕府に願い出て引き取り、6月27日見せしめに焼き討ちにされた。治胤は全身黒こげながら笑うなど最期まで悪びれたところがなかったという。

ここ並松町はその大野道犬が火刑にされた所でもある。



北の橋の掲示板

2019/01/02 07:48:03

北の橋の掲示板

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現在は道路となっているが、かつてここには堺の町をめぐる環濠があり、おのおの橋が掛かっていた。
堺の北端の堀には北の橋が架かっていた、ここから外は町の外の扱いになる、刑場はたいがいこのような場所に設えられていたようだ。

町の境界でありこの北側の風間堂の向かいあたりが並松の刑場跡にあたる。
掲示板に説明されている紀州往還看取絵図の堺の拡大図には 刑場 の文字が読める。

並松の刑場には大野道犬の供養搭・風間六右衛門の墓・刑死した無縁仏を供養する題目碑があったが明治になり刑場が廃止された時にそれらは月蔵寺へ移った。



月蔵寺

2019/01/02 07:51:44

月蔵寺

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月蔵寺では、明治の初頭に刑場が廃止された時に 大野道犬の供養搭 風間六右衛門の墓 が改葬されたとのよし。

大野道犬の供養塔は月蔵寺の尼・法春が道犬の死を哀れんで建てたものとされる。



月蔵寺

2019/01/02 07:51:44

月蔵寺

かつて堺の北仕置場にあった供養塔も移されている。



月蔵寺

2019/01/02 07:53:00

月蔵寺

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画像奥が大野道犬の供養搭で手前が風間六右衛門の墓である。



妙國寺(堺事件切腹の場)

2019/01/02 07:56:07

妙國寺(堺事件切腹の場)

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堺事件は、慶応4年2月14日大和橋を南下しようとしたフランス軍艦の兵に対し、鳥羽伏見の戦以後に堺の警固にあたっていた土佐藩士が押し返し翌15日再び堺港に上陸してきたフランス兵に対し、土佐藩士がこれを阻止しようとしてフランス人11人を殺傷した事件です。
フランス公使は憤激し、2月19日に明治新政府に対し土佐藩士の斬刑や謝罪を含む五ケ条の要求を提出し抗議しました。結果、2月23日土佐藩士隊長 箕浦猪之吉(みのうら いのきち)ら20人の切腹が妙國寺本堂庭前でフランス人士官等の立ち合いのもと行われました。
しかし、11人が切腹した時点で、フランス人達は切腹の悲惨さにすっかり青ざめ切腹の中止を命じ、残りの9人は罪人として土佐に返されることになりました。 
切腹してはらわたをフランス人に投げつけて事切れたそうです。
妙國寺はこの切腹した土佐藩士に寺への埋蔵を断ったのです。




宝珠院

2019/01/02 07:57:25

宝珠院

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土佐十一烈士墓は慶応4年(1868年)に起った堺事件で切腹した土佐藩士11人の墓で、宝珠院にある。

切腹した場所の妙国寺の住職は境内の墓地に罪人を埋めることを拒み、(罪人の)鳶田の墓地に埋めよと言い、土佐藩家老・深尾鼎、大監察・小五郎右衛門らは、「国家のために忠死した者を」と怒声をあげた。そこで、この寺の一件は、吹田屋清五郎と明石屋万吉のふたりがその奔走をひきうけた。

妙国寺の裏に破れ小屋のような宝珠院という小寺があり、ここの老僧が、「罪人であるか、国家の忠臣であるか、後世の歴史がきめるやろ。わしはどっちでもええ。死ねばことごとく仏であるによって」と葬ってくれることになる。 司馬遼太郎 「俄ー浪華遊侠伝ー」より。



とさのさむらいはらきりのはか

2019/01/02 07:57:53

とさのさむらいはらきりのはか

その後の宝珠院は参詣するひとが、毎日、何万とおしかけ、境内には、二、三十軒の露店がならび、宿屋町の大通りの両側には、花屋、線香を売る店が並ぶ。
それに、宝寿院の老僧は、義侠心もつよいが、金儲けにも細心な人物で、残りの9つの大瓶を土佐藩からもらいうけ、「この大瓶にはいったら運気がつく」と寺で宣伝し、遠く、大和や河内方面からも人がおしかけてきたと言う。

司馬遼太郎 「俄ー浪華遊侠伝ー」より。

当時の政治的な情勢から対外的には半分罪人扱いの切腹であったようです。



とさのさむらいはらきりのはか

2019/01/02 07:56:33

とさのさむらいはらきりのはか

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とにかく非常に参拝客(と云うか?供養に訪れる人々)が多く、あちこちに 土佐の侍腹切りの墓
とか女子供の参拝(供養)も多かったのか?ひらかな表記で とさのさむらいはらきりのはか との道標が
当時の庶民の熱狂ぶりを示している。

土佐十一烈士墓 など もあり今でも当時の人気ぶりが道標からうかがえる。



一里山地蔵尊(堺南御仕置場址)

2019/01/02 08:09:04

一里山地蔵尊(堺南御仕置場址)

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こにはかつて一里塚があったようで堺南御仕置場址と伝わる。
堺の古い地図には刑場との記載のある物はないが堺市史に記載がある。
紀州街道往還図絵には熊野街道(小栗街道)に一里塚の記載が確認できる。

堺市史第三編 名蹟誌 第三章 史蹟名勝 第一節 史蹟(一)(一六)御仕置場址

一里山地蔵は大正時代(1912~1926)の初期には村の西端から300メートルくらいの距離で、村と小栗街道との中間にありました。山とか丘というほどでもなく、小さな土の塊のようなもので、これが大和川から一里(4キロ)のところにあることから一里塚と呼ばれました。現在は「一里山地蔵尊」がまつられています。掲示板
『日本刑罰史蹟考』 重松 一義/著 成文堂,1985
には、湊村の小栗街道にある一里塚に向ひあった西側、(中略)現在の堺市東湊町にあたる(重松刑場遺構)」とあります。



岸和田藩 かむろ坂

2019/01/02 09:05:03

岸和田藩 かむろ坂

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旧の国道26号線、中央小学校裏門の向かい側に、旧城内へ通じる坂がある。旧堺町のくるわと、三の丸のくるわを坂口の木戸を通って結んでいた坂道で、城の古絵図には、堺町の南端あたりに、嶽屋、あるいは牢屋と書き込まれている。付近に刑場があって、さらされた首や、そのざんばら髪の形容から、俗にこのような名がついた、といわれている。
岸和田市HP転記

また「かむろ」とは「禿」と書き人の頭を意味する。



岸和田城

2019/01/02 09:07:25

岸和田城

豊臣氏滅亡後、松平(松井)氏二代を経て、寛永17年(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入城し、以後、明治維新まで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めました。



津田川刑場跡

2019/01/02 09:17:57

津田川刑場跡

津田川の岸見橋(古くは往来橋)北詰付近は、岸和田藩の津田川斬首刑場跡で、岸見北詰浜側に松の樹と並び、岡部氏に強訴し、斬首の刑に処された人の墓碑があった。



円教寺

2019/01/02 09:24:31

円教寺

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初代岡部藩主宣勝が入城の際、領内108ヵ村の百姓たちは、前任の松平氏時代に藩の石高が、領地はそのままで、5万石から6万石へ増高されたため、1万石の年貢減免を求めて岸和田城の堺口御門に宣勝一行を待ち受けて、強訴に及んだ。
強訴して処刑された人の墓碑の由緒によると、城主岡部宣勝は群衆の主たる者を投獄し、農民の窮状を詳しく訴えた沼村庄屋川崎久左衛門を、法は曲げられずとして、津田川刑場で斬首の刑に処した。
この碑は死後160余年を経て、同刑場に有志によって建てられたもので、その後1899(明治32)年に円教寺(日蓮宗、岸和田市五軒屋町)の境内に移したとある。



千本松大橋 千本松渡船

2019/01/02 10:30:26

千本松大橋 千本松渡船

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大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)

大正区へは必ず橋を渡らなければならないが、船の通行がありほとんどの橋が高く徒歩や自転車では苦しい。

大阪市が営業する渡船(無料)を使い大正区へ渡る。



三軒家刑場 (今木刑場址)百済橋跡 世界初腎臓機能の実証地

2019/01/02 10:49:46

三軒家刑場 (今木刑場址)百済橋跡 世界初腎臓機能の実証地

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百済橋は難波島西の三軒家川にあったものですが、川の一部が埋め立てられたさいに廃橋になりました。かつてこのあたりは難波島と呼ばれ、江戸初期より造船業が盛んだったようですが、橋を作る際に大量の人骨が発掘された。

明和7年から安永7年にかけて難波島の今木新田が開拓され、その北端には、幕府の木津川口刑場(今木刑場)が設けられました。そこは一面、葭原だったため、葭島と呼ばれていました。1800 年(寛政 12 年)、大矢尚斎、伏屋素狄、各務文献ら絲漢堂の蘭法医による女性の刑死人の解剖が行われました。これが大阪の市井の医師による初めての人体解剖です。この時、伏屋素狄は腎臓に墨汁を注入し、腎臓を手で握り締め、淡い液体を押し出し、「腎臓の機能は濾過と尿の生成である」と結論づけました。これが西洋に先駆けること 38 年、世界初の腎臓機能の実証実験です。以後、葭島は江戸時代の大坂における人体解剖のメッカとなりました。

敵塾を生んだ大坂 その医跡を巡る。竹中裕弘氏 転記



千日前刑場址

2019/01/02 11:03:59

千日前刑場址

千日前刑場の歴史は古く、大阪落城の時代にさかのぼる。
徳川幕府は市街整理のひとつとして寺院と墓地の移転廃合を行いました。点在している墓地を千日、小橋村、葭原村、濱村、梅田村へ移したのです。特に千日は刑場も置かれ一般の人を遠ざける場所になりました。

現在では様変わりしてここが墓や刑場があった痕跡は皆無で、三津寺墓と榎地蔵尊のみが往時の面影を残している。
僕が子供のころ此処で大きな火事があり100名以上の人が亡くなったが当時は刑場の祟りだともまことしやかに語られた。



榎地蔵尊 千日前刑場跡

2019/01/02 11:06:15

榎地蔵尊 千日前刑場跡

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唯一この 榎地蔵尊(榎神社)のみが位置を違えず存在している。



三津寺墓 千日前刑場跡

2019/01/02 11:08:24

三津寺墓 千日前刑場跡

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三津寺墓も面影を残す数少ない痕跡となる。



大坂西町奉行所跡

2019/01/02 11:21:56

大坂西町奉行所跡

初は東横堀本町橋にありましたが、享保9年の大火で東町奉行所とともに一時難波別院に移り、のちに本町橋東詰に移った敷地面先は9,600㎡。あり付帯施設として松屋町牢屋も併設されていたのだろう。

市中引き回しの上獄門申し付ける。となれば奉行所の横にあった松屋町牢屋から引き出されて引き回された。



松屋町牢屋跡

2019/01/02 11:23:19

松屋町牢屋跡

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十三のいま昔を歩こうと云うブログに安田八十八氏の書き込みがあるので転記して見ます。
-----------------------------------原文ママ
殆どの斬首刑は与左衛門町(糸屋町2丁目中大江小学校)の牢屋の土壇場で行われていたようです、死体は渡辺村役人が役舟に乗せ東横堀川から難波島まで運び捨てられていました、鳶田の刑場は広くて(南北一町位約110m)あったので火刑(火あぶり)磔刑が主に行われていたようです、大塩の死体は腐らせないように塩詰めにされていました、新塩を鼻、耳、口、肛門に詰め、身体全体を新塩で包み保存していた(摂津役人村文書)以下省略



八重垣大明神

2019/01/02 11:39:41

八重垣大明神

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阪神高速の入り口に奇妙な社がある。
いわく因縁の多い土地柄だけに・・・

フェンスで囲まれた参拝できない社だ、ご他聞にもれず たたり のある社である。
(浮浪者対策かも知れんが・・)

高いフェンスと厳重なカギに守られた異様な空間である。



堀川端刑場址

2019/01/02 11:40:41

堀川端刑場址

元々このあたりは荒野であり、踏み入る者も少なかった事から徳川2代将軍秀忠の時代、この堀川端(扇町界隈の旧称)の荒野に、仕置き場(刑場)が設けられており明治十五年(1882)に、堀川監獄分署(後の堀川監獄)が設立され、政治犯や重犯罪人が投獄される場所となり、「泣く子も黙る」といわれるほど恐れられました。  綱島天神社」のサイト転記

いまは綺麗な公園として整備されていますが、かなりな心霊スポット見たいです。



榎並地蔵尊 (野江刑場址)

2019/01/02 11:58:29

榎並地蔵尊 (野江刑場址)

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元の場所は当地より南の榎並川に掛かっていた水香橋の袂に祀られていたものであったようだ。

この地蔵の京街道を挟んだ向かい側あたりから南へかけて・かつての水路(現在は埋められて道路)との間の場所がかつての野江刑場の跡ではないかと考えられる。



京街道 (野江刑場址)

2019/01/02 12:00:56

京街道 (野江刑場址)

東成郡誌(大正11年刊行)に記載のある 榎並町 第五 名所旧跡 野江仕置場址 を転記する。
原文ママ(旧漢字カナ使いは訂正)
現今北区善源寺町の東端に在り。この跡とも覚しき坪敷百三十坪(古は面積数倍ありき)東は野江井路に連なり西・北・南は京街道に接す、雑草生い茂り足ふみいれべからず。
石碑の苔蒸したるもの二三、土中に埋もれたる、所々に蔭見する。
昔此の地にて重罪者を所刑せし処と云い伝ふ。
  中略 仕置場にて磔せらるたるものの重なるもの左の如し。(現在古老の言に依る)
稲田のおとめ。中河内郡楠根村稲田(稲田大工某の娘)大阪へ奉公に行き主人を殺したるため。
米太の番頭。大阪市東区平野町付近。主人の金貮千七百両とれり。
何れも六十年前なり。
---------------------------------------------
この磔は明治5年に執行された。明治五年は太陽暦が採用された年でまだ西南戦争が起こる前で、かなり世情は混乱していたのではないかと思われるのですが、このように犯罪の刑の執行が粛々と行われているところを見ると治安が安定した国家であったのでしょう。
しかし業務上横領で磔とは厳しい時代ですね。(稲田のおとめは何があったのか?知りたいところですが)



京 大和(古堤)街道への道標

2019/01/02 12:06:09

京 大和(古堤)街道への道標

かつてこの道標は京橋駅の構内あたりにあった。
駅を造るときに移動させたものである。



高麗橋

2019/01/02 12:16:42

高麗橋

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晒場 
「附加刑としての晒や本刑としての晒刑を執行する場所(晒場)も刑場である。
高札場は高麗橋・京橋・天満橋・札ノ辻町・玉造平野口町・日本橋及び天王寺の七箇所にあった。
晒場はその中の日本橋と高麗橋にあり、晒刑はその何れかで執行したが、後期には高麗橋が多かった、と言われる。」



太子地蔵尊のあった址

2019/01/02 12:55:00

太子地蔵尊のあった址

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江戸時代 飛田に墓地が移され、刑場も置かれました。
ここには、「太子地蔵尊」と、「飛田墓地無縁塔」がありましたが、2010年頃に撤去されてしまいまいた。飛田墓地無縁塔とともに跡形もなく消え去りました。



鳶田刑場址あたり

2019/01/02 12:57:06

鳶田刑場址あたり

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このあたりは鳶田墓地に隣接する形で鳶田刑場があったらしい、鳶田の刑場は広くて(南北一町位約110m)あったので火刑(火あぶり)磔刑が主に行われていたようです。
有名な大塩平八郎もここで磔(自害後ですが)に処せられたそうだ。
大塩の乱は大坂の町の五分の一が灰燼に帰し、大変な事件であったので事件後処刑までに(首謀者はすべて死亡していたがわざわざ遺体を保存して磔にした「塩詰死骸引廻上磔」)長い時間が掛かったようだ。
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kasiyawa1.jpg

鳶田(飛田)刑場(西成区太子町一丁目) 
「鳶田(飛田)刑場は、摂州西成郡今宮村鳶田の泉州筋街道に面した処にあり、南北間数凡一町位で供養塔が数基建立されていた。平素は葦の茂った原野であった。また、平日は番人小屋はなく、処刑の時に番人小屋を建て、番人が詰めた。」