左上の四角をクリックすると全画面表示になります。
GPXをダウンロード (右クリックで名前を付けて保存)
開始日時 | 2014/07/13 07:32:42 | 終了日時 | 2014/07/13 13:01:33 |
水平距離 | 81.12km | 沿面距離 | 81.19km |
経過時間 | 5時間28分51秒 | 移動時間 | 2時間41分06秒 |
全体平均速度 | 14.81km/h | 移動平均速度 | 30.24km/h |
最高速度 | 78.74km/h | 昇降量合計 | 2012m |
総上昇量 | 1033m | 総下降量 | 979m |
最高高度 | 625m | 最低高度 | 1m |
2014/07/13 07:32:42
2014/07/13 08:02:22
魔住が窪は、重光地区の藤の棚や地蔵堂のある地域をいい、大森彦七に関する遺跡の中でも代表的な所である。
ここは、伊予温故録に「麻生に在り、大洲日記に言う。大森彦七化物に出逢った所なり、今俗誤って茄子が久保という。又小金坂という所あり、鬼女の出て彦七の背に負われたる所なり。矢取川一に鏡川という。鬼女の形の川水に写り、鬼の姿と見えたるに因り鏡川ともいうなり」とある。
2014/07/13 08:10:17
水不足のとき、重信川からの取水に不利な下五ヶ村(八倉・宮之下・上野・徳丸・出作)は、古樋井手の懸樋のこぼれ水をもらうしか方法がなかった。この水利構造が水論争の種となったので、両者間にそれを防止する協定も作られたが、大旱ばつの時はそれが守られず大騒動となった。矢取川事件(明和水論)。
2014/07/13 08:33:02
この泉は東西約400mのドック型をした流泉式の泉で、重信川の伏流水を取り、これによって、八倉・宮之下・上野・徳丸・出作等の水田用水として利用されている。
2014/07/13 10:06:02
幽谷上人は戦国時代初期の弘冶3年(1557)伊予軍松前町に生れ、浄土宗を修め南予で研鑽したが、後、霊地を求めてこの地に庵住し、山谷を跋渉して超人的な修行を積み、仏道の奥儀を極めて、寛永4年(1627)阿弥陀寺を創定した。
2014/07/13 10:06:02
上人が座禅を組み修行するため自ら建造したもので周囲は石でかこみ、屋根は緑泥片岩の板石でふき、自然の洞穴をかたどったもので、昭和47年に修復した。
2014/07/13 11:12:32
三島神社は慶長8年(1603)松前藩主加藤嘉明の重臣佃十成によって再建された。
神社は久万町菅生宮の前に鎮座している。この建物は間口9.84m、奥行き11.4mの入母屋造りである。
2014/07/13 11:29:22
「伊予温故録」によると、久万山城主大野家の香華院として、慶長年間(1596~1614)に加藤嘉明の家老佃十成が建立したものとなっている。
いずれにしても、現在の山門は江戸時代の度重なる大火にも耐え、類焼をまぬがれたものを現在地へ移転したものと伝えられている。
2014/07/13 12:03:27
2014/07/13 13:01:33