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開始日時 | 2014/10/28 13:43:35 | 終了日時 | 2014/10/28 17:47:50 |
水平距離 | 33.57km | 沿面距離 | 33.59km |
経過時間 | 4時間04分15秒 | 移動時間 | 2時間46分35秒 |
全体平均速度 | 8.25km/h | 移動平均速度 | 12.10km/h |
最高速度 | 41.22km/h | 昇降量合計 | 408m |
総上昇量 | 199m | 総下降量 | 209m |
最高高度 | 105m | 最低高度 | 0m |
2014/10/28 13:43:35
2014/10/28 13:51:25
行道山は、愛媛県伊予市と伊予郡砥部町にまたがる山で、松山平野の南端に位置する。標高は373m。一般に行道山と呼ばれる部分はテレビ電波塔がある一帯であるがここは最高点ではなく、最高点はその南西にある標高403.11mの「水晶ケ森水晶ケ森の位置」である。
2014/10/28 14:32:25
明和8年(1771)、大干ばつのため、松山藩預所の徳丸村・出作村、大洲領八倉村・宮ノ下村・上野村の5ヶ村は、重信川よりの取水をめぐって、上手の麻生村と大水論を起こした。矢取川の河原での乱闘で2人の死者が出て、事件の責任を負った下麻生村の窪田兵衛門が死罪となった。この水論が契機になって、天明元年(1781)に赤坂泉が開削された。
2014/10/28 14:32:25
化生連中とは生死の循環を意味しているのだろうか?
2014/10/28 14:56:45
この世のあらゆる生命あるものの霊を、宿らせ供養するためのものだろうか?
2014/10/28 14:56:45
左手に高さ 3m以上に及ぶ窪田兵右衛門の頌徳碑と、彼の辞世の句を刻んだ自然石の句碑がある。
如月の あわれたずねよ のりの道
この碑は明治24年(1891)、地元の人々が兵右衛門の偉業を顕彰して建てた。
2014/10/28 15:03:15
魔住が窪「地蔵堂」(大森彦七之遺跡)へ向う。
2014/10/28 15:03:25
南北朝時代河野通盛の下で足利尊氏(北朝側)にくみした砥部の武将大森彦七は、建武3年(1336)湊川の戦いで楠木正成を破り、恩賞として松前にも領地を得た。その祝いの猿楽に赴いた大森彦七が途中美女に化けた鬼女に出会ったり、猿楽が行われた金蓮寺で楠木正成らの亡霊に襲われる話は「太平記」などにも記されている。
左後の額、新しく交換されていた。
2014/10/28 15:21:20
大森彦七が、筒井金蓮寺で催される猿楽に行く途中のことである。矢取川にさしかかると美女が川を渡ろうとして難渋していた。それを見た彦七が自ら美女を背負って川を渡っている時、背が急に重くなり、月光に照らされ水面に映った美女は、にわかに鬼女となり、彦七を襲ったと伝えられている。
ここ摩住が窪を行くと矢取川が流れる。
2014/10/28 15:46:25
正徳2年(1712)砥部の大庄屋田中権内らが大森彦七を「忠功の名声至らざるなし」と称えて建てた供養塔も、太平洋戦争当時になると何者かによって3つに叩き割られてしまった(左奥)。この受難の供養塔は、戦後ようやく割られた部分をセメントでつないで修復が図られ、大森彦七の名誉もいくらか挽回されたかに見える。
2014/10/28 15:59:30
大森彦七供養塔の入口付近に標識がある。路傍に傾いでる姿が、田舎の風景を彷彿させる。
2014/10/28 16:51:40
弘法の井戸は、寺の近くに「杖ヶ淵」として残っているが、この豊かな水は時に田畑を押し流す災害につながる水でもあったわけである。
まことに、幸と不幸は裏表のたとえ、水にゆかりの深い西林寺であった。
ここにも納経所に鳴る石、讃岐の磬石(サヌカイト)が呼鈴がわりにつるしてあった。
2014/10/28 16:51:40
秋風や高井のていれぎ三津の鯛 子規
ていれぎは刺身のツマにする水藻。この辺だけの特産。
「高級料理店でないと出んぞな」と客待ちのタクシー運転手が胸を張った。
2014/10/28 16:51:40
寺で売る手ぬぐいにも句が染めてある。
ていれぎや川より低き西林寺
なるほど「石段を下って入る寺はここだけです」と住職が話していた。それにしても「ていれぎ」はよほど自慢らしい。
2014/10/28 16:51:40
2014/10/28 17:47:50