20141026 鎌倉神社・称名寺・常願寺・伊豫稲荷神社

左上の四角をクリックすると全画面表示になります。

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の高さ: px     地図の幅は自動調整されます(固定幅にするにはwidthをピクセルで指定)

タグ:

ASG-10-20141026-14:03

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2014/10/26 14:13:28終了日時2014/10/26 17:32:33
水平距離19.51km沿面距離19.53km
経過時間3時間19分05秒移動時間1時間51分30秒
全体平均速度5.89km/h移動平均速度10.51km/h
最高速度36.97km/h昇降量合計303m
総上昇量153m総下降量150m
最高高度70m最低高度-6m

写真レポート

2014/10/26 14:13:28

ASG-10-20141026-14:03 - START

塩塚古墳

2014/10/26 14:45:23

塩塚古墳

三谷神社

2014/10/26 14:54:33

三谷神社

三十一里半の道標

2014/10/26 15:13:03

三十一里半の道標

 琴平の歴史年表に「天保5年……伊予吾川村に三十一里半の道標建立」の記事が見える。

稱名寺参道

2014/10/26 15:13:53

稱名寺参道

地蔵菩薩

2014/10/26 15:17:43

地蔵菩薩

 地蔵菩薩はもとはインドの大地の財宝をつかさどる神でした。それが中国に入ると十王のリーダーに化身して、閻魔といった地底のイメージになったのです。
 現代では水子地蔵のイメージばかり強調されているようですが、本来は釈迦亡きあと弥勒が登場するまでの仏不在の時代の救い主なのです。

蒲冠者源範頼公鎌倉神社

2014/10/26 15:23:38

蒲冠者源範頼公鎌倉神社

鎌倉神社

2014/10/26 15:33:53

鎌倉神社

鎌倉神社・句碑

2014/10/26 15:33:53

鎌倉神社・句碑

 昭和3年ころ、称名寺住職が、郡中町湊町の岡井寅五郎(当時菜種商で夫人は霽月の異母妹)の葬式で、子規や漱石の友人である村上霽月に出会い、漱石の句碑建立をすすめられ、鎌倉宮の賽銭で、三秋の古い橋の棹石を用いて、表裏二句を刻んだ句碑を、祠のほとりに建てた。

 範頼の墓に謁して二句(文字は霽月が書いた)
   蒲殿のいよいよ悲し枯尾花    漱石
   木枯らしや冠者の墓撲つ松落葉  漱石

鎌倉神社・蒲冠者範頼公墓

2014/10/26 15:37:03

鎌倉神社・蒲冠者範頼公墓

臨江山 稱名寺

2014/10/26 15:46:53

臨江山 稱名寺

称名寺・地蔵菩薩

2014/10/26 15:49:58

称名寺・地蔵菩薩

 地蔵菩薩はもとはインドの大地の財宝をつかさどる神でした。それが中国に入ると十王のリーダーに化身して、閻魔といった地底のイメージになったのです。
 現代では水子地蔵のイメージばかり強調されているようですが、本来は釈迦亡きあと弥勒が登場するまでの仏不在の時代の救い主なのです。

称名寺・大師堂と三鈷の松

2014/10/26 15:53:13

称名寺・大師堂と三鈷の松

 唐の長安(現在の西安)で真言密教の正式な継承者となった弘法大師は、いよいよ法を弘める為日本へ帰るにあたり、「わが密教を教え弘める場所を示せ」と手にした三鈷(密教の教えを示す法具)を日本に向けて投げると、その三鈷は紫雲に乗って飛び、後に高野山の松の木の上で発見された。

称名寺・水琴窟

2014/10/26 15:53:13

称名寺・水琴窟

 今から約200年前造られた伏瓶(伏鉢)洞水門は今日では水琴窟と謂われている。それも永く歴史の中に埋没して幻的存在であったが、平成の今日再び世に出たものである。地中に埋めた甕(壺)に落ちる僅かな水滴の反響―ひびき―を聴いて楽しむものである。

称名寺・山門前 句碑

2014/10/26 16:02:38

称名寺・山門前 句碑

 夕栄の五色が濱をかすみけり  子規

常願寺

2014/10/26 16:20:18

常願寺

常f願寺・弘法大師千百五十年御遠忌記念

2014/10/26 16:29:23

常f願寺・弘法大師千百五十年御遠忌記念

 真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとする。高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認するのである。ただし、大師の諡号を贈った立場の真言宗醍醐派、および醍醐派の系統を一部取り入れている智山派では、ときに「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合がある。

常願寺・地蔵菩薩

2014/10/26 16:29:23

常願寺・地蔵菩薩

伊豫稲荷神社

2014/10/26 16:39:03

伊豫稲荷神社

伊豫稲荷神社

2014/10/26 16:41:28

伊豫稲荷神社

伊豫稲荷神社

2014/10/26 16:41:28

伊豫稲荷神社

 社伝によれば弘仁15年(824)国司の越智宿禰為澄が山城国の伏見稲荷大社より御分霊を勧請し、石田庄(後の山崎庄)の総鎮守としたことに始まるという。
 武門の崇敬篤く、弘安の役の軍功により河野通有が山崎庄を支配するようになると、当社は河野家の祈願所とされた。また、江戸時代には大洲藩・新谷藩の祈願所となった。享和2年(1802)には正一位を賜り、以来、正一位稲荷大明神を称したという。
  当社の別当は谷上山宝珠寺で、社前に僧坊12坊があったというが、寛永8年(1631)当時の神主・星野右京太夫が唯一神道を主張し、宝珠寺との関係を断って僧坊を廃した。

伊豫稲荷神社・阿形

2014/10/26 16:53:13

伊豫稲荷神社・阿形

 古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされる。また、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。明治神宮[1]では、起源は古代オリエント・インドに遡るライオンを象った像で、古代オリエント諸国では、聖なるもの、神や王位の守護神として、ライオンを用いる流行があり、その好例がスフィンクスであるとしている。

伊豫稲荷神社・吽形

2014/10/26 16:53:13

伊豫稲荷神社・吽形

 阿形の説明に同じ。

2014/10/26 17:32:33

ASG-10-20141026-14:03 - GOAL