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開始日時 | 2014/11/20 14:21:35 | 終了日時 | 2014/11/20 17:58:30 |
水平距離 | 36.50km | 沿面距離 | 36.52km |
経過時間 | 3時間36分55秒 | 移動時間 | 2時間41分32秒 |
全体平均速度 | 10.10km/h | 移動平均速度 | 13.56km/h |
最高速度 | 27.74km/h | 昇降量合計 | 275m |
総上昇量 | 136m | 総下降量 | 139m |
最高高度 | 130m | 最低高度 | 9m |
2014/11/20 14:21:35
2014/11/20 15:52:04
2014/11/20 15:57:59
2014/11/20 16:07:59
2014/11/20 16:14:44
柳原泉は 明和7年(1778)田窪・牛渕両村の灌がい用水源として代官普請で試掘しましたが 予想に反して湧水が少量のため 中止になりましたが 旱害に苦しむ両村は難関に屈せず水源の探索に努めました。
試掘開始から16年後の寛政6年(1794)現在地を再掘したところ 待望の湧水が湧き 村民歓びうちに同9年に完成したのが柳原泉です。
その後 文久2年(1862)重信川の大洪水の際 この泉も埋没の惨事にあいましたが 村民の協力により復旧され 現在にいたっています この泉は 付近一帯に群在する地下水源のさきがけとなるものです。
2014/11/20 16:23:44
2014/11/20 16:37:39
今朝見れば きのうぞ去年(こぞ)の かぎりなる
霞(かすみ)こめたり 浮島の原
吉野遺聞和歌抄に「征西将軍の宮懐良和歌」とあり、当社のことを詠まれた和歌とされている。懐良親王は後醍醐天皇の皇子。南北朝時代に南朝方の征西将軍に任ぜられ九州鎮撫に奮闘、その地で没している。延元3年(1338)には伊予に入り忽那島に居たとの記録があり、この和歌もその頃詠まれたものであろう。
2014/11/20 16:37:39
本殿の庭にある三つの大石を磐座(いわくら)という。社殿建築が行われる以前の古代祭祀様式の一種で、神様の御降臨を仰いでお祭りをするための依代(よりしろ)であり御神座である。
当社では、中央に可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、左右に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)をお祭りしてきたとつたえられている。磐座が現存する神社は古社で、全国的にも少ないといわれている。
2014/11/20 17:00:49
南北朝時代には得能氏が崇敬した。満良親王・懐良親王から奉幣があり、文中年間(1372~75)には長慶天皇が武運長久の祈願をさせたという。また、長慶天皇は当地に滞在し、崩御されたという伝承がある。当社の西約200mには長慶天皇の御霊と伝えられる五輪塔が残る。長禄年間(1457~60)には後南朝の河野宮忠義王が滞在したとも伝えられる。
2014/11/20 17:00:49
三島神(大山積命・雷神・ 高おかみの神)は越智益躬が大山祇神社の御分霊を祀り、氏神としたことによるという。寛平年間(889~98)には越智息利が社殿を改築し、水田3丁を寄進した。保延5年(1140)には崇徳院の院宣により、道音寺・香積寺・西光寺・明照寺が別当とされた。
2014/11/20 17:00:49
浮穴郡の一宮であり、『三代実録』貞観9年(867)2月5日条には「伊予国浮嶋神に従五位下を授く」とある。
社伝によれば、浮嶋神(可美葦牙彦舅尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊)を奉斎したのは極めて古く、崇神天皇の御代には天津社に列せられたという。本殿の背後に磐座と伝えられる三つの自然石があり、中央に可美葦牙彦舅尊、左右に伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀ってきたという。また、社地は物部氏の祖・宇麻志麻治命が降誕した浄地であるとも伝えられる。
2014/11/20 17:58:30