20141122 興聖寺・坊っちゃんカラクリ人形・石手寺 

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ASG-10-20141122-14:17

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2014/11/22 14:17:17終了日時2014/11/22 17:33:32
水平距離24.65km沿面距離24.66km
経過時間3時間16分15秒移動時間2時間07分30秒
全体平均速度7.54km/h移動平均速度11.60km/h
最高速度31.93km/h昇降量合計158m
総上昇量77m総下降量81m
最高高度54m最低高度5m

写真レポート

松山中央公園橋

2014/11/22 14:29:37

松山中央公園橋

橋名:      松山中央公園橋
事業主体者:  松山市
施工場所:   松山市保免西4丁目外
形式:     2径間連続PC斜張橋
橋長:       L=90.0m
有効幅員:  W=26.2m
完成年月:  平成9年10月



興聖寺

2014/11/22 14:53:22

興聖寺

    こゝろざし富貴 にあらず老の春  (柳原)極堂   

 碑面には「南山寿」の文字が見える。中国の「詩経」にある語で人の長寿を祝う言葉だという。句碑のある末広町の興聖寺は、四十七士の討ち入りで知られる赤穂浪士ゆかりの寺。松山市駅から歩いて5、6分。近くには、子規堂もある。

木村岡右衛門・大高源吾の墓

2014/11/22 15:02:02

木村岡右衛門・大高源吾の墓

 木村岡右衛門は漢詩に秀いで、吉良家討入の際、兜頭巾の裏に次の漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。
    身寄浮雲滄海東
    久愆恩義世塵中
    看花對月無窮恨
    散作暁天草木風

 大高源吾は茶道と俳句に優れ、切腹の際「ちょっとお筆を拝借」と次の辞世の句を残した。
    梅てのむ茶屋も有べし死での山

宮原久太夫の墓

2014/11/22 15:02:02

宮原久太夫の墓

 木村岡右衛門・大高源吾の介錯人。

昭和39(1964)年に、木村 岡右衛門貞行と大高 現吾忠雄、宮原久太夫頼安の供養と、地元の発展を願い興聖寺史跡顕彰会が発足。

松山藩主蒲生忠知の菩提寺

2014/11/22 15:02:02

松山藩主蒲生忠知の菩提寺

 松山市駅から程近い場所にある興聖寺は忠臣蔵の寺として地元では有名なお寺ですが、松山藩主蒲生忠知の菩提寺でもあり彼の供養碑が墓所の奥側にあります。

興聖寺・第二代松山藩主蒲生忠知公の菩提寺

2014/11/22 15:02:02

興聖寺・第二代松山藩主蒲生忠知公の菩提寺

 第二代松山藩主蒲生忠知公の菩提寺で、赤穂浪士の木村岡右衛門、大高源吾の遺髪を祀った墓と句碑があります。俳諧に長じた大高源吾の句碑には、辞世の句が刻まれています。 『梅でのむ茶屋も有べし死出の山(大高子葉)』

興聖寺・門の左側

2014/11/22 15:11:37

興聖寺・門の左側

 松山城主蒲生忠知公墓所

興聖寺・門の右側

2014/11/22 15:11:37

興聖寺・門の右側

       木村岡右衛門
 赤穂浪士         理髪之碑
        大高源吾

垂幕

2014/11/22 15:28:12

垂幕

祝 ノーベル物理学賞受賞 中村修二教授(大洲市出身)

極堂の句碑

2014/11/22 15:46:37

極堂の句碑

 明治30(1897)年4月3日、松山の松風会例会の席題吟「名所詠みこみ」の句。「ふね伊予によりて」という中七の字余りが、いかにも伊予の松山らしい、ゆったりした風土の味を出しています。
  『ほとゝぎす(ホトトギス)』は、明治30年、松山で極堂が創刊したもの。極堂は終世、子規の顕彰に努めた。また初の愛媛県民賞を受け、松山市名誉市民の第一号となった人。

森盲天外の句碑

2014/11/22 15:46:37

森盲天外の句碑

 伊予とまうす 国あたたかに いで湯わく
  森盲天外  1864-1934(元治元年-昭和9年)
 森盲天外は予土村の生まれ、本名は恒太郎といい、盲目の身で模範村の名の高い予土村長として全国にその名を知られます。後に愛媛県会議員、道後湯之町町長も務めました。若くして正岡子規に師事して「天外」の号を受け、明治28年両眼失明後は自ら「盲天外」と号します。
 明治24年、月刊俳誌「はせを影」を発刊、また青年教化、農村教化にも努めました。なお、著書に『一粒米』(明治41年刊)があります。

「道後レトロ浪漫号」

2014/11/22 15:46:37

「道後レトロ浪漫号」

 道後プリンスホテルの「道後レトロ浪漫」号。

坊っちゃんカラクリ人形

2014/11/22 16:04:12

坊っちゃんカラクリ人形

 このモニュメントは、道後温泉本館建設百周年記念事業の一環として「振鷺閣」を題材に制作されている。
 
 次の楽曲が使用されている。
 ・「この街で」
 ・「伊予万歳」
 ・「坊っちゃんのテーマ」
 ・「子守歌風伊予節」

伊佐爾波神社

2014/11/22 16:15:02

伊佐爾波神社

 享和3年(1803年)から昭和21年(1937年)の算額が残り、江戸時代後期から明治年間のものが多い。

石手寺 衛門三郎

2014/11/22 16:21:22

石手寺 衛門三郎

 昔、久谷の里での話。天長(西暦800年代頭)の頃、河野衛門三郎という豪族がいた。年貢米の取立てが主たる役目の衛門三郎は性来強欲非道で、悪鬼長者とあだ名されて村人に恐れられていた。ある日僧が、衛門三郎の門前に立ち托鉢を行おうとした。しかし、衛門三郎はそれに腹を立て、竹ぼうきで僧の眉間に打ちかかり、僧が鉄鉢で受止めたところ、鉄鉢は、八つに破れて四方に飛び散ってしまった。この僧が、この地を訪れていた、弘法大師であった。
 三郎には八人の子がいました。どういうことか、その翌日から子どもたちは次々と急死。「八子他界は不憫なこと」と、大師は一夜で八塚を築かれ菩提を弔らわれました。八人の愛する子どもをなくした衛門三郎は、今までの数々の行いを悔い改め、高僧にお会いして懺悔し謝罪しようと四国遍路の旅に出た。

義安禅寺

2014/11/22 16:32:02

義安禅寺

 寺伝によれば、天文8年(1539年)に河野景通の子・河野彦四郎義安が建立したといわれる。河野氏の本拠であった湯築城の東約100mに位置する河野氏ゆかりの寺院である。寺院名は建立者に由来する。
 天正13年(1585年)河野氏当主の河野通直は豊臣秀吉の四国征伐の際に、小早川隆景の説得により降伏した。これにより伊予国は小早川隆景の支配下となった。この時、一族、譜代の家臣が当寺に集結し井戸の水を飲み交わして二君に仕えないことを約し自刃して果てたと伝わる。この話は宝永7年(1710年)に編纂された『南膽部州大日本南海道予陽郡郷俚諺集(略称・予陽郡郷俚諺集)』に記されている。この井戸は「誓いの泉」と呼ばれ境内にある。