20141209 国道196号~粟井坂・小川大師堂

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ASG-10-20141209-13:31

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2014/12/09 13:31:42終了日時2014/12/09 17:31:15
水平距離35.68km沿面距離35.70km
経過時間3時間59分33秒移動時間2時間56分28秒
全体平均速度8.94km/h移動平均速度12.14km/h
最高速度25.21km/h昇降量合計171m
総上昇量82m総下降量89m
最高高度29m最低高度-2m

写真レポート

2014/12/09 13:31:42

ASG-10-20141209-13:31 - START

城山公園から見る松山城

2014/12/09 14:13:35

城山公園から見る松山城

松山城お堀の白鳥

2014/12/09 14:23:50

松山城お堀の白鳥

札之辻跡

2014/12/09 14:26:30

札之辻跡

札ノ辻交差点

2014/12/09 14:28:00

札ノ辻交差点

レストラン海鮮北斗

2014/12/09 15:13:00

レストラン海鮮北斗

小川大師堂内の句碑

2014/12/09 15:15:40

小川大師堂内の句碑

しほひがた隣の国へつゝ(続)きけり   子規

釣鐘のうなる許に野分哉         漱石

 小川大師堂内にある。

祈普門示現

2014/12/09 15:15:40

祈普門示現

 第三十八番円福寺。

 観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。

 小川大師堂内にある。

小川大師堂内の句碑

2014/12/09 15:15:40

小川大師堂内の句碑

涼しさや馬も海向く淡井坂  子規

 小川大師堂内にある。

弘法大師千百年記念新四國開眼供養塔

2014/12/09 15:15:40

弘法大師千百年記念新四國開眼供養塔

 小川大師堂内にある。

釈迦

2014/12/09 15:15:40

釈迦

小川大師堂内にある。

木造地蔵菩薩坐像

2014/12/09 15:15:40

木造地蔵菩薩坐像

 この地蔵菩薩は、室町時代の応永2(1395)年に造られ、寛文9(1669)年に修復されたことが像の体内に明記されている(『愛媛県金石史』)。

 小川大師堂内にある。

修行大師

2014/12/09 15:48:15

修行大師

 花へんろ第二番札所。

 小川大師堂内にある。

第三十八番金剛福寺

2014/12/09 15:48:15

第三十八番金剛福寺

 小川大師堂内にある。

粟井坂新道碑

2014/12/09 15:48:15

粟井坂新道碑

 瀬戸内海の風光明媚な海岸に完成した道は、山を越える坂道がなくなり多くの車や人の通行が大変便利になった。この恩恵を受ける私たちは、大森盛籌の功績を顕彰し感謝の気持ちを後世に語り継ぎたい。(小川部落)

 小川大師堂内にある。

水準点

2014/12/09 15:48:15

水準点

 水準点(すいじゅんてん、benchmark)とは、水準測量に用いる際に標高の基準となる点のことである。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
 水準点は海の潮位や河川の水位を知る水準基標又は水準拠標なども意味し、これらの意味が転じてコンピュータにおけるベンチマークという言葉遣いとして使われるようになった。

 小川大師堂内にある。

河野通清公墓所

2014/12/09 15:48:15

河野通清公墓所

 小川大師堂の側道を辿るとある。

南無薬師仏

2014/12/09 15:48:15

南無薬師仏

 平安時代以後の薬師像は「医王」の立場が強調され薬壺を持つのが主流になっていきます。

 小川大師堂の側道にある。

椿関四郎顕彰碑

2014/12/09 15:48:15

椿関四郎顕彰碑

 小川大師堂内にある。

句碑

2014/12/09 15:48:15

句碑

交通安全地蔵

2014/12/09 15:48:15

交通安全地蔵

 小川大師堂内にある。

西山通周五右衛門堂

2014/12/09 16:02:15

西山通周五右衛門堂

 1630年(江戸時代前期)、和気郡の堀江地方では、作物がじゅうぶん実らず、農民は、大変苦しい生活をしていた。心配した西山五右衛門通周は、農民にかわって、何度も年貢米の免除を役所に願い出たが許されなかった。
 そこで、通周は、農民の命を守るために、もみ米をこぎ取らせ、藁を田に集めて焼き、「不作で米が取れないから、稲を焼いてしまいました。」と言って、裁きを待った。役人は、通周を堀江東海岸の波打ち際で磔の刑にした。村人は、お堂を建てて通周をとむらった。このお堂を「五右衛門堂」と呼んでいる。

JR伊予和気駅

2014/12/09 16:20:50

JR伊予和気駅

2014/12/09 17:31:15

ASG-10-20141209-13:31 - GOAL