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開始日時 | 2014/04/17 13:24:43 | 終了日時 | 2014/04/17 17:18:43 |
水平距離 | 26.46km | 沿面距離 | 26.48km |
経過時間 | 3時間54分00秒 | 移動時間 | 2時間14分25秒 |
全体平均速度 | 6.79km/h | 移動平均速度 | 11.82km/h |
最高速度 | 32.75km/h | 昇降量合計 | 95m |
総上昇量 | 54m | 総下降量 | 41m |
最高高度 | 6m | 最低高度 | -19m |
2014/04/17 14:06:48
子規堂は、もと松山市湊町4丁目1番地にあった正岡家の旧居の一部を移して建てたものから始まる。その後、昭和8(1933)年に焼失し昭和10(1935)年に再建したが戦災により又焼失した。現在の子規堂は昭和21(1946)年に子規の妹律子の遺した記録図と友人柳原極堂の記憶に基づき、当時の居宅の構造をそのまま再現したもので旧宅のたたずまいを真によく回想し、かつ考証するに足るものである。
2014/04/17 14:15:13
正宗禅寺は子規の菩提寺である。
愚陀仏庵に漱石と同宿していた子規が明治28年10月7日、今出の村上霽月を訪れる途中、住職で俳人の一宿和尚を誘うため、正宗寺へ立ちより案内を乞うた。
2014/04/17 14:40:23
雄郡神社は県道326号(松山松前伊予線)沿いに建つ。主祭神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)。日本の神話に登場する女神で、アマテラスが岩戸に隠れた時、岩戸の前で踊った女神である。
2014/04/17 14:53:33
善復寺の歴史を紐解くと、大正期の「雄群(おぐり)村誌」に「享保年間において龍円和尚当寺を再興して当山中興の法印となり。本堂はその棟木(むなぎ)を閲するに享保14年己酉(きゆう)年(1729)2月3日起工4月2日落成」と記載された一文を見つけることができる。この一文には享保14年に龍円和尚が寺を再興したことが記されている。
2014/04/17 15:10:43
この鬼子母神堂は魚町(現在の本町5丁目)の大法寺の鬼子母神の分身として和泉、高岡、土居田の3カ所に置かれたもので、和泉はなくなったが高岡と土居田には今も残っている。
2014/04/17 15:25:03
元暦元年(1184)、佐々木四郎高綱が入国し、砥部荏原城主森山・大野一族と戦った時、勝利直前に日が西に傾くのを嘆き八幡神に祈願したところ、夕刻になっても明るく佐々木軍が勝つと日が沈んだという。このことにより「日招八幡神社」と呼ぶようになったという。
2014/04/17 15:42:33
天平時代(729~49)のこと。国内に災害や疫病が多発したため、聖武天皇(在位724~49)は東大寺建立を発願し、また全国に国分寺建立の詔を発したことは、教科書にも載る事実である。
2014/04/17 16:04:53
子規最後の帰郷となった明治28(1895)年10月7日、子規はここを訪れて句稿を残し、漱石、虚子は翌年3月1日に訪れ、神仙体(しんせんたい)俳句を作るなど、文人墨客(ぼっかく)の往来も盛んであった。
2014/04/17 16:04:53
神亀5年(728年)に聖武天皇の勅命により伊予国内の各郷に社殿を建立し大三島より勧請した内の一社であり、国司河野伊予守越智宿弥玉純の建立と云われている。以後、河野通有や加藤嘉明により神領田の寄進や社殿の再建があったという。
2014/04/17 16:20:53
寺伝によれば天平宝宇4年(760)の創立にして、上古は門末寺院十一ヶ寺の本寺であった。当初は東寺宝菩提院の末につらなっていたが、中古天正年間兵乱のために焼亡し、更に正徳5年(1715)大洪水のために本寺末寺ともに流没す。当時の住職元誉法印が本尊の阿弥陀三尊を捜し求めて中津の橋下で発見、寺を再興す。現在地に再建されたのは、10年後の亭保10年(1725)である。境内には伊予かすり創始者、鍵谷カナ女史と俳人村上霽月の墓所がある。山門前には大日堂があり、堂内には大日如来が安置されている。周囲にはミニ八十八ヶ所霊場を設けている。