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開始日時 | 2014/07/31 15:47:47 | 終了日時 | 2014/07/31 18:34:50 |
水平距離 | 22.02km | 沿面距離 | 22.03km |
経過時間 | 2時間47分03秒 | 移動時間 | 1時間56分45秒 |
全体平均速度 | 7.91km/h | 移動平均速度 | 11.32km/h |
最高速度 | 25.87km/h | 昇降量合計 | 75m |
総上昇量 | 37m | 総下降量 | 38m |
最高高度 | 30m | 最低高度 | 11m |
開始日時 | 2014/08/04 13:23:55 | 終了日時 | 2014/08/04 16:43:14 |
水平距離 | 29.97km | 沿面距離 | 29.99km |
経過時間 | 3時間19分19秒 | 移動時間 | 2時間36分35秒 |
全体平均速度 | 9.03km/h | 移動平均速度 | 11.49km/h |
最高速度 | 33.08km/h | 昇降量合計 | 129m |
総上昇量 | 63m | 総下降量 | 66m |
最高高度 | 54m | 最低高度 | 30m |
2014/07/31 15:47:47
2014/07/31 15:59:22
昔、松山と南予を結ぶ道路は、重信川にさしかかると渡し船を利用しなければならなかった。数名の人が権利株を持ち、3人ほどの船頭を雇い運営していた。重信川渡しは、塩屋渡し・北川原渡し・出合渡し・大間渡し・中川原渡しの5ヶ所にあった。
2014/07/31 16:01:42
この北詰には、ちょっとした広場があって、食事が出来る店と正岡子規と水原秋桜子の句碑があったのです。店の代わりに出会荘というビルが建っていました。門と塀で区切られているので、二つの句碑も、少し移動したようです。
「札の辻から一里十四丁」の石碑は句碑の側にありました。出会い大橋は昭和52年に完成したのですが、工事のため、句碑は河川敷内になるので、協議の末、現在地に移したということです。が、再度の移転があったということになります。
2014/07/31 16:01:42
若鮎の二手になりて上りけり
「出合渡」と題された正岡子規の句である。出合橋の北側、出合橋北交差点の角にこの句碑が立っている。
2014/07/31 16:22:02
四叉路の南西隅に地蔵がある。ここには目通り幹回り180cmのセンダンの木があり、ここでおたたさんが一休みした所だと言われる。今なお残る二つの切り株が当時を偲ばせる。
2014/07/31 16:38:32
荘園に関する地名も松山に存在します。別府、保免、斉院などです。柳田国男によれば、別府は「別符」の意味で、「符」は、朝廷へ納める租税が免除されたことを示す国司の約束状のことです。今治などにある「別名」などの地名も同様の意味をもちます。
2014/07/31 16:46:22
柳の影が川面(宮前川)に写る。昔は三本あったのだろうか。今は二本の柳が、当時の様子を今なお伝えている。
2014/07/31 16:55:07
2014/07/31 17:00:52
2014/07/31 17:02:32
この「きせんのりば」の標柱は、明治4年(1872)頃、「はしけ」で沖の汽船までの運送を始めた久保田廻漕店が設置したもので、もともとは浜辺に臨む今の三津三丁目4付近に建てられていた。当時、その周辺はきれいな遠浅の砂浜であったという。
2014/07/31 17:08:27
十一人一人になりて秋の暮れ 子規
防予汽船 松山市三津
(柳井向けフェリー乗り場近く)
2014/07/31 17:08:27
2014/07/31 17:20:27
この城は、建武年間(1334-1336)に河野通盛が道後湯築城を築いたときに、海の守りとして築城したと言われている。
江戸時代の地誌『予陽郡郷俚諺集』に、「湊山城、同所。河野伊予守通春逝去。又、戦場に於いて討死ともいふ」とある。
2014/07/31 17:31:02
寛永12年(1635年)、松平定行が桑名から松山に封ぜられたときに、御船手400艘を配置した。その際に専用水として掘られたのがこの井戸。
当時の、北浜町・南松前町・北松前町・江の口が交差した四つ辻に位置したことから、 辻井戸と名付けられました。
2014/07/31 17:51:57
2014/07/31 18:21:32
ビルのそばにある小さな広場には、貯水用に使ったのでしょうか大きい鉄の羽釜とか、白い象の模型とかが置いてありました。
昔、街道筋にあった「右松山道、左汽車場道」の道しるべも放置されたように、置いてありました。
2014/07/31 18:34:50
2014/08/04 13:23:55
2014/08/04 13:40:00
当山の縁起について詳しく書かれた書跡や古記録はないが、ただ伊予旧記によると、遠く歴史を遡ること1300有余年の昔、人皇第36代孝徳天皇の大化2年(646)、名聖道慈律師が伊予の国に来られて余戸の郷に一寺を建立し、月光山法憧院善喜寺とし、自ら開基となって世道、人心の浄化につとめ、或は天下泰平、五穀豊穣、諸人快楽の祈請をなされ、広く人法の為御尽粋されたと伝えられている。
2014/08/04 13:51:15
塩屋海岸(松前)から厳島神社(三津)まで、塩売街道がつづく。塩売橋は、おたたさんが休憩した所だと言われ、好天のときは東に石鎚の山並みが展望できる。
2014/08/04 14:26:09
2014/08/04 14:31:49
大原其戎モニュメントと並び立つ。
2014/08/04 14:34:39
1812-1889 幕末-明治時代の俳人。
文化9年5月18日生まれ。万延元年京都にでて桜井梅室にまなぶ。二条家から宗匠の免許をうけ2代四時園を名のる。明治13年俳誌「真砂の志良辺(しらべ)」を創刊,主宰。門人に正岡子規。明治22年3月31日死去。78歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。通称は熊太郎,沢右衛門。
2014/08/04 15:04:09
河野伊予守道春公
道春公は室町時代後期に河野予州家の武将として大活躍した英傑でもある。要害地 湊山城の城主として伊予水軍を統帥し、応仁の乱など多くの戦いに出陣して四海に勇名を轟かせた。
2014/08/04 15:12:00
新しい天地へ――山頭火は、昭和14年10月1日、広島県宇品から船に乗った。
ひよいと四国へ晴れきつてゐる
山頭火は最晩年の一年余を過ごす松山の高浜港へ降り立ったのであった。
2014/08/04 15:20:49
2014/08/04 15:32:35
松山側から撮影。
2014/08/04 16:43:14