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開始日時 | 2014/09/28 13:53:26 | 終了日時 | 2014/09/28 18:40:46 |
水平距離 | 37.28km | 沿面距離 | 37.32km |
経過時間 | 4時間47分20秒 | 移動時間 | 3時間35分05秒 |
全体平均速度 | 7.79km/h | 移動平均速度 | 10.41km/h |
最高速度 | 31.23km/h | 昇降量合計 | 699m |
総上昇量 | 350m | 総下降量 | 349m |
最高高度 | 337m | 最低高度 | -1m |
2014/09/28 13:53:26
2014/09/28 14:04:46
2014/09/28 14:34:01
2014/09/28 14:45:41
このあたりは昔、旱魃が起こり、たびたび水をめぐる争いが起こっていた。明和8年(1771)に大旱魃が起こり、堰を切った重信川下手の5カか村と上手の麻生村とが、矢取川の河原で大乱闘となった。この事件の責任を一身に負い死罪となったうちの一人が、下麻生村の組頭・窪田兵右衛門で、義民として伝えられている。
2014/09/28 14:59:01
2014/09/28 15:43:51
旅人のうた登り行く若葉かな
句碑の下に、県道207号が走っている。これは歩き遍路が使う遍路道で三坂峠に向かう。「旅人のうた」はお遍路さんの御詠歌ではないだろうか。
伊予鉄バスが、ここ丹波まで運行している。(関谷→中之坂→宮方→丹波)
2014/09/28 15:57:41
2014/09/28 15:57:41
『一遍聖絵』では「窪寺」が2回記述されており、年代は弘長8年(1271)と正応元年(1288)、場所は予州窪(寺)と特定出来る。丹波国の山内入道が窪寺住持となり、同地は今日入道に因んで丹波と呼称されている。早くから一遍、聖戒の影響で時宗(時衆)寺院化したのではないか。江戸時代には窪寺の寺格は失せ「窪の寺」なる小寺になったのではあるまいか。
二度目の訪問で正岡子規の句碑に到達。同じ敷地に、この「一遍上人窪寺御修行乃旧蹟」があった。予想だにしてなかったので、この石碑に出会ったときの感動は一入である。まさに偶然の為せる業といえる。
2014/09/28 16:02:31
2014/09/28 16:23:26
2014/09/28 16:47:26
2014/09/28 16:56:51
智真はここ窪寺で自分が今までにたどった浄土教の思想とは全く違った密教の宗派に触れた。それが窪寺を中心とする熊野修験道だった。古川坊・正八幡宮・古社その他の小さな祠がそれであり、それらの山岳修行者は岩屋寺の洞穴に籠り、岸壁をよじ登って心身を鍛え、その身はそのまま大日如来と一体になるというのである。(石井由彦『一遍の道 遊行上人の生涯』より引用)
2014/09/28 17:11:11
2014/09/28 17:16:16
「窪寺閑室」のレリーフ。『一遍聖絵』の「 窪寺閑室」に描かれている。
文永8年秋頃、伊予の窪寺というところに閑室を構え、交わりを断って、一人経行し、万事を投げ捨てて、専ら称名して三年過ごした。この別行結願の後、速やかに万事を投げ捨て、身命を法界に尽し、衆生を利益しようと思い立った。
2014/09/28 17:17:16
「御霊木 一遍上人の欅」下に曼珠沙華が咲く。
2014/09/28 17:22:41
前に来たとき、曼珠沙華の花は咲いていなかった。そのとき、頭に描いた構図で撮影してみた。
2014/09/28 17:35:06
垂直な回転軸の周りに3ないし4個の半球殻又は円錐殻の風杯と呼ばれる羽を有する垂直軸風車型の感部を有するものである。風杯に風が当たると、凸面よりも凹面の方が空気抵抗が大きいために、凹面が押される方向に軸が回転する。この回転を歯車式の機構や発電機、フォトインタラプタを用いたカウンタなどで検出し、数値や電気信号に変換して表示・出力することによって測定値を得る。特に機械式の機構によって回転数を積算し、風程(測定時間内における空気の移動距離)を表示する方式のものを発明者のロビンソン(イギリス人)にちなんでロビンソン風速計と称していた。
2014/09/28 18:40:46