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開始日時 | 2014/10/10 14:30:24 | 終了日時 | 2014/10/10 18:44:54 |
水平距離 | 34.88km | 沿面距離 | 34.89km |
経過時間 | 4時間14分30秒 | 移動時間 | 2時間49分40秒 |
全体平均速度 | 8.23km/h | 移動平均速度 | 12.34km/h |
最高速度 | 34.65km/h | 昇降量合計 | 130m |
総上昇量 | 62m | 総下降量 | 68m |
最高高度 | 35m | 最低高度 | 17m |
2014/10/10 14:30:24
2014/10/10 14:52:24
『松前界隈はええとこぞなもし』の著者である山野芳幸氏から、「塩屋海岸近くの四国ガス敷地に設置されている球形タンク付近(突き当りを右折)で塩を焼いていた」という古老談を紹介していただいた。
古の写真に、このような松並木の風景がみられる。
2014/10/10 14:55:44
2014/10/10 15:35:04
洗地川に掛けられている。好天の日には東に石鎚山を望むことができる。おそらく、おたたさんはこの風景を眺め、しばしの休憩を得たのだろう。
2014/10/10 15:45:56
ここには目通り幹回り180cmのセンダンの木があり、ここでおたたさんが一休みした所だという。切り株が二つ残り往時を偲ぶことができる。
2014/10/10 15:58:19
金比羅参りにでる人びとが利用した橋であろう。
2014/10/10 16:05:14
荘園に関する地名も松山に存在します。別府、保免、斉院などです。柳田国男によれば、別府は「別符」の意味で、「符」は、朝廷へ納める租税が免除されたことを示す国司の約束状のことです。今治などにある「別名」などの地名も同様の意味をもちます。
2014/10/10 16:11:14
柳の影が川面(宮前川)に映る。昔は三本あったのだろうか……。今は二本の柳が、当時の様子を今なお伝えている。
2014/10/10 16:25:29
2014/10/10 16:33:09
明治28年10月12日(土)二番町の料亭「花廼舍」において漱石ら松風会会員17名によって送別会が開かれた。酒宴の中で句の贈答が行われ漱石は「御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花」を贈り子規も惜別の句「十一人一人になりて秋の暮」を作り答えた。
2014/10/10 16:57:54
道春公は室町時代後期に河野予州家の武将として大活躍した英傑である。要害地湊山城主として伊予水軍を統帥し、応仁の乱など多くの戦いに出陣して四海に勇名を轟かせた。公は常に天長地久、国土太平と家門繁栄、子孫相続を祈願し、文明14年(1482)旧7月14日当湊山で逝去する。
2014/10/10 17:02:29
秋山真之|秋山好古
2014/10/10 17:02:29
日清戦争では騎兵第一大隊長、後に騎兵学校長となり、明治陸軍の騎兵科を「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、騎兵の父と仰がれた。日露戦争では騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵と奉天会戦等で戦い、敵の退路をおさえる陸戦最後のダメ押しに大功があった。
2014/10/10 17:15:09
松山藩士秋山久敬の5男として市内歩行町に生まれる。好古は実兄。
日露戦争で連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅し、戦局の大勢を決した。なお、この時掲げたZ旗の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」の文は、真之の作である。
2014/10/10 17:38:19
三津駅は1895(明治21)年の開業時には三津浜駅といい、松山の海の玄関であった三津浜港の連絡駅の役割を果たしていた。
2014/10/10 18:44:54