20140425 宝厳寺

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ASG-15-20140425-14:14

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2014/04/25 14:14:08終了日時2014/04/25 17:19:01
水平距離22.73km沿面距離22.75km
経過時間3時間04分53秒移動時間2時間19分30秒
全体平均速度7.38km/h移動平均速度9.78km/h
最高速度41.45km/h昇降量合計192m
総上昇量101m総下降量91m
最高高度101m最低高度24m

写真レポート

末広橋

2014/04/25 14:45:08

末広橋

  松山城の初代城主・加藤嘉明公が松山城築城の際に、重臣・足立重信に命じて行った河川工事によって出来たのが石手川である。以来、松山城の外堀の役目を果たした。
  大正3年6月21日、大正天皇御即位御大典記念事業として石手川公園を設置し、新立橋から下流の下流の末広橋までをその区域とした。
  昭和23年9月、石手川緑地と改称し、昭和37年から都市公園事業として整備を進めてきた結果、現在では、石手岩堰の吊り橋から市坪橋迄の延長約6km、左右両岸の面積約28haに広がっている。

興正寺

2014/04/25 14:51:33

興正寺

  松山市末広町にあり、市指定の伊予松山藩第2代目藩主、蒲生忠知の供養碑がある。
  松山初代藩主、加藤嘉明の会津40万石で移封に伴い、出羽上ノ山城主から24万石で伊予松山城主になった蒲生忠知は、在城わずか7年で寛永11年(1634年)参勤交代の時京都で病死し、世継ぎがなく名門が断絶し、安永7年(1778年)蒲生の子孫が供養碑を建立した。
  供養碑と並んで、赤穂義士の大高源吾と木村岡衛門の墓がある。

宮原久兵太夫の墓(木村岡衛門・大高源吾の墓)

2014/04/25 14:57:48

宮原久兵太夫の墓(木村岡衛門・大高源吾の墓)

  宮原久太夫は20人扶持と軽輩ではあったが、武士道に厚く剣の腕もあり、義士受け取りの徒歩頭の中にもその名前が伝えられている。
  宮原は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。



辞世の句(木村岡衛門・大高源吾)

2014/04/25 14:57:48

辞世の句(木村岡衛門・大高源吾)

  両名は赤穂浪士四十七士の中でも文化・文人として知られる。
  木村岡右衛門は漢詩に秀で、吉良家討入の際、兜頭巾の裏に漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。
      身寄浮雲滄海東    久愆恩義世塵中
      看花對月無窮恨    散作暁天草木風
  大高源吾は茶道と俳句に優れ、切腹の際「ちょっとお筆を拝借」と次の辞世の句を残した。
      梅てのむ茶屋も有べし死出の山

正岡子規生い立ちの家跡

2014/04/25 15:04:33

正岡子規生い立ちの家跡

  湊町の大原観山宅から中の川に出れば、「俳句の里巡り・城下コース」の28番「正岡子規御母堂令妹邸跡」、27番「正岡子規生い立ちの家跡」が並んでいる。

湯神社

2014/04/25 15:44:28

湯神社

  祭神は、道後温泉を開いた大己貴命と少彦名命の二神である。当社は、延喜式内社で、社伝によれば、景行天皇が皇后八坂入姫と共に行幸の際に鷺谷の大禅寺の前に創建したと伝えられている。その後舒明天皇行幸に際し勅命により社殿を新築した。

老舗旅館  ふなや

2014/04/25 15:45:03

老舗旅館  ふなや

  明治28年 春、松山中学に赴任した漱石。その秋、病を得て療養のため松山に戻った子規。ふたりは共に暮らしはじめることになる。
  たびたび松山界隈を散策し道後温泉を愛したふたりは花月亭(現ふなや詠風庭)にも訪れている。美しい風景を見ながら、俳句を詠み、近代文学の両輪となるふたりはここでなにを話したのだろうか……。

ネオン坂

2014/04/25 15:49:58

ネオン坂

  「温泉街ではもともと、旅館ごとに湯女(ゆな)と称する女性が控えていたが、明治に入って町の東側の斜面がひらかれ、『松ヶ枝遊廓』として一郭をなすことになった。坂道の左右に二十数軒の妓楼が軒を連ねるようになり、戦後はいわゆる赤線に移行した」(『消えた赤線跡放浪記』より)
  ネオン坂を上り詰めると宝厳寺(一遍上人生誕地)である。

宝厳寺

2014/04/25 15:58:03

宝厳寺

  2013年8月10日、火災により本堂と庫裏が全焼し、所蔵されていた国指定重要文化財である木造一遍上人立像が焼失した。参拝者からの連絡があった時点で既に煙が充満していて手の施しようがなく、焼け跡から木像の残骸は発見されなかったものの、状況から焼失したと判断された。

一遍上人立像

2014/04/25 15:58:33

一遍上人立像

  一遍は、鎌倉時代の僧で遊行上人といわれ、時宗を開祖した高僧である。「南無阿弥陀仏」を専らとして、宗教的感興にまかせて念仏踊りを勧め、農漁民など各層に広く支持を受けて、革新仏教を確立した。正応2(1289)年に兵庫和田岬の観音堂で51歳の生涯を閉じるまで衆生済度の旅を続けたのである。
  上人立像は、寄木造で像高113.9cm。;案内板の枠縁に残る火事の焦げ跡が生生しい。