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開始日時 | 2014/04/19 13:46:40 | 終了日時 | 2014/04/19 18:34:53 |
水平距離 | 46.19km | 沿面距離 | 46.26km |
経過時間 | 4時間48分13秒 | 移動時間 | 4時間04分23秒 |
全体平均速度 | 9.63km/h | 移動平均速度 | 11.36km/h |
最高速度 | 31.64km/h | 昇降量合計 | 435m |
総上昇量 | 229m | 総下降量 | 206m |
最高高度 | 178m | 最低高度 | -9m |
2014/04/19 14:35:34
神前郷松前村(現在の愛媛県伊予郡松前町)金蓮寺へ向かう途中、重光の部落を流れる矢取川で楠木正成の怨霊の化身「鬼女」に出くわしたという伝説がある(『太平記』)。
2014/04/19 15:33:04
関ヶ原合戦の裏で伊予国でおこなわれた戦いを「刈谷口の合戦」(地元では「刈谷畑の合戦」ともいう)、あるいは毛利軍が竹原に逃げ帰ったことから「竹原崩れ」と呼ぶのだが、毛利氏にとっては、これが徳川家康から本領安堵の約束を反故にされる一因となり、能島島村上氏は大事な当主を失い、河野氏遺臣らにとってはお家再興の望みを断たれてしまうという、それぞれに惨憺たる結果をもたらした。
2014/04/19 15:47:49
南北朝時代、住吉の合戦で、南朝の忠臣・楠木正成の嫡男である楠木正行と戦った山名・細川両将軍が率いる北朝軍が敗れた。敗軍の中には播磨の太守・赤松円心の子、赤松良範の率いる多くの武士が戦死した。良範は将兵の遺骨を納め塚を築き、播磨塚と名付けて部下の冥福を祈ったといわれる。
2014/04/19 15:55:19
街道は伊予鉄の線路を渡りなお東へ進み、旧国道11号(県道334号松山・川内線)に出る。東へ1kmあまり行くと、少し上り坂になっている右側の森の中に小さな生目神社があり、街道沿いに金毘羅道標が立っている。「金毘羅大門より二八里」の大門から下部は土中に埋まっている。その手前の道端に忘れられたような石造物が2基並んでいる。「播磨」の名前が読み取れる。このあたりからの台地が播磨塚である。
2014/04/19 16:38:59
1899年(明治32年)10月4日開業。
2014/04/19 16:44:39
天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀る。
2014/04/19 17:41:14
「重信橋」から3kmほど川に沿って上流に向かうと、「上重信橋」がある。1959年(昭和34年)に完成したという現在の橋だが、改修工事が行われたのか、橋の名前をしるした石の欄干が真新しい。すぐ傍らには松山自動車道が走っているが、川のほとりは草花も咲き別天地のようなのどかさ。ここから、南東に見えるのは「塩ヶ森」方面か、豊かな緑が広がっている。