左上の四角をクリックすると全画面表示になります。
GPXをダウンロード (右クリックで名前を付けて保存)
開始日時 | 2014/05/13 10:36:05 | 終了日時 | 2014/05/13 15:35:44 |
水平距離 | 27.63km | 沿面距離 | 27.71km |
経過時間 | 4時間59分39秒 | 移動時間 | 2時間29分14秒 |
全体平均速度 | 5.55km/h | 移動平均速度 | 11.14km/h |
最高速度 | 19.95km/h | 昇降量合計 | 187m |
総上昇量 | 61m | 総下降量 | 126m |
最高高度 | 26m | 最低高度 | -57m |
2014/05/13 10:36:05
2014/05/13 11:03:04
当山の縁起について詳しく書かれた書籍や古記録はないが、ただ伊予旧記によると、遠く歴史を遡ること1,300年の昔、人皇第36代孝徳天皇大化2年(646)、名聖師が伊予の国に来られて余戸の郷に一寺を建立し、法憧院善貴寺とし、自ら開基となって世道、人心の?つとめ、或は天下泰平、五穀豊穣、諸人快楽の祈請?れ、広く人法の為御尽粋されたと伝えられている。
2014/05/13 11:13:54
四叉路の南西隅に地蔵がある。ここには目通り幹回り180cmのセンダンの木があり、ここでおたたさんが一休みした所だと言われる。今なお残る二つの切り株が当時を偲ばせる。
2014/05/13 11:19:19
「金」は金毘羅さん、「三」は三島神社、「石」は石鎚山を意味する。これ以外に、「氏」があるが、これは氏神さんのこと。そういったものを大切にして家内安全や組内の安全を願った。金比羅参り、伊勢参りなどの人が利用した道であろう。
2014/05/13 11:23:19
金比羅参りにでる人びとが利用した橋であろう。
2014/05/13 11:37:44
柳の影が川面(宮前川)に写る。昔は三本あったのだろうか。二本の柳が、当時の様子を今なお伝えている。
2014/05/13 11:41:24
明和8年(1771)伊予国和気郡塩屋町(現在の松山市三津2丁目)灘屋喜太八の8男として生まれた。松山藩のお抱え力士で、現役時代の体格は身長189cm、体重146kgあった。
大阪へ出て大阪相撲の陣幕長兵衛の弟子となり陣幕島之輔の四股名で活躍し、その後江戸へ出て竜門鯉之助に改め、寛政7年(1795)東大関になった。同12年(1800)から四代目押尾川巻右衛門と名乗り、江戸相撲をにぎわした。
2014/05/13 11:45:54
慶長5年(1600)9月18日「伊予の関ヶ原の合戦」といわれる「苅屋畑の戦い」は、東軍方の加藤勢と西軍方の毛利勢が古三津を主戦場として戦った。
この大激戦で戦死した武将や名もなき武士たちの霊を慰め平和な郷土の構築願って、旧宮前町2丁目に地蔵尊が創建された。(享保元年7月24日)その後現在地に移された。
2014/05/13 11:48:44
おたたさんが目指した神社である。昔、ここで市が開かれていた。
2014/05/13 11:49:04
紗空楽都閑さくらつか(桜塚) (正面)
木のもとにしるも膾なますもさくら哉 (松尾)芭蕉(左)
はつさくら華はなの世の中よかりけり (栗田)樗堂(右)
文化十二年乙亥三月 (裏)
2014/05/13 12:25:34
江戸時代(各大名家がその藩領で行なった政治から藩政時代ともいう)の1635(寛永12)年に3代伊予松山藩主・松平定行(さだゆき=松平(久松)家初代藩主)が水軍を配したときに、船手(藩の御用船の操船・管理を任務とする兵士)の専用水として造られた。
2014/05/13 12:49:24
三津浜港は、鎌倉時代から、伊予水軍の拠点であったが、慶長8年(1603)、松山城に移った加藤嘉明が水軍の拠点とし、寛永年間には、松山藩松平初代藩主定行が、御船手組や町奉行を置き、参勤交代の御用船の本拠としてから、物や魚の集散する松山藩の外港となった。
港は海底が浅いため、、大きな汽船は沖合いに停泊していた。船着場から沖の汽船まで「はしけ」(和船)に乗せて運んでいた。夏目漱石も正岡子規も、ここから出発し、ここに上陸したのである。
2014/05/13 12:53:59
十一人一人になりて秋の暮れ 子規
防予汽船 松山市三津
(柳井向けフェリー乗り場近く)
2014/05/13 12:58:39
この城は、建武年間(1334-1336)に河野通盛が道後湯築城を築いたときに、海の守りとして築城したと言われている。
江戸時代の地誌『予陽郡郷俚諺集』に、「湊山城、同所。河野伊予守通春逝去。又、戦場に於いて討死ともいふ」とある。
2014/05/13 13:01:29
三津浜の人びとはこの渡しを「洲崎の渡し」あるいは「三津の渡し」と言った。また、港山の人びとは「古深里の渡し」あるいは「港山の渡し」と言った。左の山は港山城の古跡である。山麓には観月庵があり、小林一茶等が句会をした場所として知られる。
2014/05/13 13:14:24
松山市港町に「洗心庵跡」の石柱が 建っている。伊予鉄港山駅から三津の渡しへ向う途中にある。 前 面に「洗心庵跡」、側面に安政7年(1975)2月7日 小林一茶 句会の地」と刻印 されている。ブ ログをみると、2枚の掲示板があり、1枚に 「小林一茶と洗心庵」の説明、後の 1枚に小林一茶の似顔 絵(模写)がある。後部壁の設置の上部に設置されていた が、今は取り除かれている。
小林一茶は寛政7年(1775) に栗田樗堂を 2回訪ねている。「寛政7年」と書かれているので 、1回目の訪問 のとき、ここで句会をしたのであろう。
2014/05/13 13:23:59
道春公は室町時代後期に河野予州家の武将として大活躍した英傑でもある。要害地 湊山城の城主として伊予水軍を統帥し、応仁の乱など多くの戦いに出陣して四海に勇名を轟かせた。
2014/05/13 13:29:04
観月山と呼ばれている山麓には茶室等の数多くの建造物があり、それらを総称して観月庵といわれている。
2014/05/13 13:39:59
明治22年(1888)、松山-三津間に県下初の軽便鉄道が敷設された。車両はドイツから輸入された。3年後には高浜まで路線が延長され、三津浜界隈は松山の玄関として大いに栄え、夏目漱石によって紹介された坊っちゃん列車が走った。
2014/05/13 14:22:34
江戸時代、東海道の起点(出発点)が日本橋だったように松山から旅に出る起点は、札の辻であった。
起点を示す石柱と大きい松はお堀の西北のかどにあったが、いつのまにか老松は切られ、石柱も行方不明になった。
写真の「里程」に、昔の街道の、札の辻からの距離が書かれている。
2014/05/13 14:27:14
松山城のお堀で飼育されているコブハクチョウにひな5羽が生まれ、親に見守られて泳ぐかわいらしい姿を見せている。松山市によると、お堀では1967年から白鳥が飼われており、ひなが生まれたのは2004年に4羽が誕生して以来10年ぶり。
2014/05/13 14:56:59
坊っちゃん列車で有名な路面電車が活躍する伊予鉄道には、郊外電車(鉄道)線と市内(路面)電車(軌道)線が平面交差する場所が2ヶ所ある。そのひとつが大手町駅。もう一つが、古町駅。
旅客営業をしている鉄道線と軌道線が直角に平面交差するのは全国で大手町1か所だけである。
2014/05/13 15:35:44