落語野崎詣りの道を往く。(野崎観音の謎をめぐるポタリング)

左上の四角をクリックすると全画面表示になります。

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の高さ: px     地図の幅は自動調整されます(固定幅にするにはwidthをピクセルで指定)

タグ:

Holux2015/11/29_08:13

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2015/11/29 08:19:19終了日時2015/11/29 13:25:06
水平距離56.00km沿面距離56.31km
経過時間5時間05分47秒移動時間3時間51分28秒
全体平均速度11.05km/h移動平均速度14.60km/h
最高速度47.75km/h昇降量合計1437m
総上昇量710m総下降量727m
最高高度115m最低高度-33m

写真レポート

スタート地点の住吉大社

2015/11/29 08:24:58

スタート地点の住吉大社

阪堺電気軌道株式会社

2015/11/29 08:26:37

阪堺電気軌道株式会社

住吉大社駅前で古いタイプの二台が行きかっていた。

レトロな車体と、派手なボデー、青い大空が美しい。

大川(旧淀川)八軒家浜

2015/11/29 09:00:21

大川(旧淀川)八軒家浜

ここから野崎観音へ向かう船が出ていたそうだ。

住道辺りまでは船で行って底から歩いてお参りへと向かったのだろう。
また歩きで参詣する人たちは古堤街道を進んだ、船と街道はほぼ並走していたので、落語の「野崎参り」では船から歩きの人々をからかう場面が挿話となっている。

京橋の古い道標

2015/11/29 09:09:26

京橋の古い道標

京阪モールの向かいに大きな道標があります。
右 大和 なら のざき
左 京みち

右 大坂
文政九年丙戌年九月吉日 
この大きな道標、元は片町橋西詰めにあったものが移設されたのだそうです。
野崎参りが賑わっていた証拠でしょうね?

古堤街道

2015/11/29 09:11:59

古堤街道

古堤(ふるつつみ)街道は中垣内(なかがいと)越とも呼ばれます。
野崎参りに道としても使われていました。
大阪城北側(現片町1丁目)付近から住道までは寝屋川沿いに通っていた、その名が示すとおり堤の「うを利用した街道だったので、川が埋め立てられた現在でも高低差があってかつての堤が確認できる。

三郷橋稲荷神社

2015/11/29 09:18:56

三郷橋稲荷神社

大正六年(1917年)5月7日今福村(現在の今福西1丁目)「鯰江川」(現在は埋め立てられて道路)
の三郷閘門(さんごうこうもん)の樋工事(ひこうじ)のとき、当地の川底から、楠木の
大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟(くり舟)が掘り出されました。
要約掲示板

大阪冬の陣で、佐竹義宣、上杉景勝が、木村重成、後藤基次と戦った、激戦地だった。

旧野崎道の跡(石碑)

2015/11/29 09:21:32

旧野崎道の跡(石碑)

関連リンク

京阪電鉄京橋駅付近で、京街道から分岐する古堤(ふるづつみ)街道(生駒市に至る)は、野崎道ともいわれた。これは大東市野崎の慈眼(じげん)寺(通称野崎観音)への参詣道として元禄期(17世紀末)から明治末期頃まで賑わったことによる。参詣はこの堤道を歩く者や、寝屋川を屋形船で行く人たちもおり双方から遊山気分でののしり合い、口論する独特の風景が見聞され、それは落語にも仕立てられている。

寝屋川

2015/11/29 09:23:57

寝屋川

寝屋川は天井川で堤防が高い位置にある。

諸福あたり

2015/11/29 09:45:56

諸福あたり

現在の大東市の一部は赤井、氷野、御領、太子田、新田、東諸福、西諸福の7つの地区(旧村、大字)で形成されていました。
諸福辺りには街道沿いの家並が残る。

この辺りは、水害で苦しんだ町でもある。

大神宮灯篭

2015/11/29 09:46:34

大神宮灯篭

大神宮(お伊勢さん)灯篭があるので、伊勢参りに利用されえた街道でもあったのだろう。

住道

2015/11/29 09:55:33

住道

地名「住道」は、寝屋川と恩知川が合流する場所、つまり「角(すみ)」にあり、そこに祠や船着場があったことから「角の堂浜」と呼ばれていた。そのあと、船着場がなきなったこともあり「浜」がとれて「すみのどう」になった。
川の合流点には住吉さんから勧進された祠がある。

西村橋(寝屋川)道標

2015/11/29 10:02:25

西村橋(寝屋川)道標

橋の袂にある古い道標。
(右のざ起観音道 左大坂道 すぐ星田妙見山道 天保八年・1837)

当時の 「すぐ」 は現在の「まっすぐ」の意味にあたる。

三箇城跡

2015/11/29 10:07:40

三箇城跡

三箇にキリスト経が伝わったのは永禄五(1562)年、三好長慶の家臣三箇殿が飯盛城で洗礼を受けた時に始まる。永禄八年には京の政変から逃れて三箇に来たビレラやフロイスが数ケ月滞在し、三箇のキリスト教は隆盛をきわめた。その間フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告している。その後信長時代はますます栄えたが、次の秀吉が天正15(1587)年6月19日にキリスト教を禁止してからは急速に衰えた。当時の遺物が全く残っていないのは秀吉の居城に近いためだろうか。
大東市パンフレット

観音浜の由来

2015/11/29 10:18:20

観音浜の由来

昔の野崎まいりのコースは、大坂からの野崎まいりには舟路と平行して堤防を行く陸路があった。
舟は大坂の八軒家浜から大川をのぼり寝屋川に入り、徳庵・諸福を通って角堂浜(石切、生駒聖天へはここで降りる。)で一休み。ここから舟は北におれ、やがて西村橋付近に着く。ここにのざき道の道しるべがある。一説には、乗りかえて観音井路を東に進み、観音浜で舟を降り、現四条農協の端を通り、まず専應寺さんにお参りし、それから野崎観音にお参りしたともいわれている。江戸時代後半に出された「河内名所図会」には菜の花や桜の咲く頃、野崎まいりの往来のにぎやかさや参詣者の浮かれた様子が描かれている。

野崎観音山門

2015/11/29 10:27:50

野崎観音山門

野崎観音(福聚山慈眼寺)は、近松門左衛門の「女殺油地獄」、上方落語の「野崎詣り」、東海林太郎の「野崎小唄」などの作品の舞台となり、全国的にも知られる寺です。

この野崎観音は隠れキリシタンの寺あったとの説があるのです。

山門脇の灯篭

2015/11/29 10:28:29

山門脇の灯篭

野崎キリスト教会の牧師、神田宏大さんは、その著書「野崎観音の謎」で、野崎観音慈眼寺は、隠れキリシタンの寺だったと説明しています。

いくつかの附合する事象が記されているが、山門脇にあるこの灯篭もその一つで、なぜか長崎の平戸の人が寄進している。

野崎観音本堂

2015/11/29 10:33:01

野崎観音本堂

キリシタン禁令が出た後に河内地方のキリンタンを弾圧し信者を処刑した場所が、野崎観音の北にあり、この〈野崎観音〉が、実は殉教の死を遂げたキリシタンたちを偲び、彼らの信仰をたたえるために、そして迫害下で潜伏している河内のキリシタンたちを励まし、 彼らの信仰を守る目的で再建された「隠れキリシタンの寺」であった…。
とするのが、野崎観音の謎と言う本に記されていた。

野崎観音釣鐘堂

2015/11/29 10:35:01

野崎観音釣鐘堂

本堂から真北へ少しい入ったところにある、八幡山 で多くのキリシタンが処刑されたらしいのです。
本堂に手を合わせることが、殉教した人たちを弔う意味があった・・?
この釣鐘はその殉教者への鎮魂の意味があったのでしょうか?

野崎観音釣鐘裏のクルス(十字架)

2015/11/29 10:35:42

野崎観音釣鐘裏のクルス(十字架)

のざき観音」にある釣鐘の内部には十字の傷が鋳込まれている。
近年事故があるまでは、昔からこの鐘は、誰がいつ突いても良かった。
この鐘の音が殉教した人々への鎮魂の意味があったのかもわからない。

三箇城跡を望む。

2015/11/29 10:37:01

三箇城跡を望む。

はるかに三箇城跡が望める。
三箇城(JR野崎駅のすぐ南辺り)の城下には、3千人のキリシタンがいたとされる、その三箇城下では、毎年春にキリストの復活を祝い、城の西にあった深野池に飾り船60隻を浮かべて盛大な水上パレード(復活祭)をしていたともフロイスはそ書簡で伝えている。

5月頭の無縁経法要(「有縁無縁すべてのもの[1]」に対し、感謝の読経を捧げる行事)は「野崎詣り(のざきまいり)」の通称で知られ、江戸時代より続く。
野崎詣りはこの水パレードの名残でもあるのかも知れない。

野崎城跡

2015/11/29 10:49:57

野崎城跡

今から460年ほど昔のこと。

飯盛山に三好長慶の城「飯盛城(飯盛山城)」が在ったころ。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの残した『日本史』に、「飯盛城で三好長慶配下七十三人の武士が集団で洗礼を受けた」と記録されている。

野崎城は、その飯盛山城の隣にあり支城であったのでしょう。

南条神社

2015/11/29 11:03:30

南条神社

三箇頼照(??1595年)が城主だった三箇城(JR野崎駅のすぐ南辺り)の城下には、3千人のキリシタンがいたとされています。

河内地方には最盛期(禁教令がでるまで)推定で5000-6000人ものキリシタンが存在したらしい。

南条神社扁額

2015/11/29 11:03:30

南条神社扁額

鳥居に掲げられた牛頭天王宮と書かれた扁額には、ハート型の穴があり、意味するところはキリストとの強烈な一体感の象徴でもあるらしい。

キリシタン灯篭

2015/11/29 11:17:34

キリシタン灯篭

1587年 秀吉は 伴天連追放令を出した。 

1612年 徳川幕府は 直轄地でのキリスト教の信仰を禁止した。 1613年 禁教令を全国に広めた。 キリシタンは 隠れキリシタンとなり、 密かに 燈籠に慈母観音像に似せた 十字架、マリア像、 キリスト像を刻み、また 慈母観音像を 聖母マリアに見立てて信仰した。

キリシタン灯篭

2015/11/29 11:17:45

キリシタン灯篭

住宅地の中にひっそりと小さな祠がキリシタン灯篭が残されている野々宮神社なのであるが、その両脇にキリシタン灯篭は建っている。
かつて三箇大聖堂があった場所で、禁教令で出た後に大聖堂が廃棄され見せしめのための処刑が行われた。残った隠れキリシタンたちが礼拝を偽装するために建てた社であるらしい。

野崎観音の謎より

かつてこの辺りにキリシタン信仰があったのかも知れないと思いつつ河内街道を南下した。

東大阪市加納のおかげ灯篭

2015/11/29 11:55:07

東大阪市加納のおかげ灯篭

おかげ灯篭は江戸時代に盛んに行われた伊勢神宮参宮の記念物でほぼ60年毎に遷宮が行われる年の参宮は『おかげ年』といわれた。

加納の明治期道標

2015/11/29 11:55:57

加納の明治期道標

正面「大峯三十三度 右生駒山道」、東面「左り大坂八尾平野道」、西面「左り西京 八はた すみの堂」(明治12年)

八尾常光寺

2015/11/29 12:25:27

八尾常光寺

古来常光寺は、聖武天皇の勅願により僧行基が全国に築いた25苗壇の一寺であります。また弘仁時代には、参議小野篁が地蔵菩薩の尊容を当寺の本尊として奉安したことから、毎年、地蔵盆に念仏踊りが開催されるようになったと思われます。

腹養丸

2015/11/29 12:29:47

腹養丸

常光寺のある八尾ファミリ0ロードに古い町家があった。
明治二十二年二月廿六日発行の「河内国商工便覧」に、大阪府下河内国若江郡八尾西郷町七十七番地 売薬業腹養丸製造所 佐野 辨七 とあり当時は肝臓の薬として売られ相当繁盛だったらしい。
格子戸が懐かしい。

八尾の寺内町を通る。

2015/11/29 12:34:02

八尾の寺内町を通る。

久宝寺は、戦国時代に寺内町として整備された、450年以上の歴史を持つまちです。
蓮如上人は、文明2年(1470年)の河内布教の際、「帰する者市の如し」といわれるほど帰衣する人が多かったので、この地に西証寺を建立しました。
町の入り口にある古い道標。

八尾寺内町

2015/11/29 12:36:50

八尾寺内町

御坊顕証寺を中心に寺内町が形成されたのは天文10年(1541年)ごろである。長瀬川(旧大和川本流)沿いの当地は、その後開発された八尾寺内町(現本町辺り)と共に、中世以降この地域の中核都市として栄えた。大和川付替え(1704年)後は、地域の中心が八尾寺内町に移ったが、当地は、旧大和川の川筋で盛んになった木綿等農産物の集積商業地として発展した。江戸から明治にかけての町家や、寺内町形成時の碁盤目状の街路骨格も良く残ったまちなみとなっている。。

平野の街並み

2015/11/29 12:47:59

平野の街並み

大阪市の南東部の端に位置する平野は江戸から明治、大正期などの建物を残す歴史ある町である。江戸時代大和川のつけ替えによって、隆盛した河内木綿の集散地として繁栄した。

住吉福祉会館

2015/11/29 13:17:07

住吉福祉会館

住吉街道沿いにあるする古い町家

馬つなぎが残る珍しい建屋、私の愛馬ならぬ愛ちゃりをつないで見ました。

住吉大社東門とそうそく石

2015/11/29 13:19:10

住吉大社東門とそうそく石

関連リンク

住吉大社東門から伸びる道は磯歯津路と呼ばれた。
磯歯津路日本最古級に道で雄略8年(西暦464年)には存在したらしい、外国使節がこの街道を東進し、奈良に向かったものと考えられています。

また東門前ある蝋燭状の石は蝋燭石(ろうそくいし)と呼ばれていますが、馬をつなぐためのものか、鳥居の跡か、よくわかっていないんです。

住吉高灯篭

2015/11/29 13:25:06

住吉高灯篭

 わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなどで当地へ移築された。当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。