中国大返しをライドル(その2)

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2020-11-15 06-50

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/11/15 06:50:15終了日時2020/11/15 14:24:10
水平距離93.77km沿面距離94.08km
経過時間7時間33分55秒移動時間6時間39分32秒
全体平均速度12.44km/h移動平均速度14.08km/h
最高速度38.68km/h昇降量合計1804m
総上昇量910m総下降量894m
最高高度59m最低高度-21m

レポート概要

中国大返しその2

中国大返しその2では秀吉の参謀であった黒田官兵衛の支配地であった姫路を通過して、東播地域を進みます、姫路城は、秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田孝高の居城であったが、天正5年(1577年)の秀吉の播磨着陣の際に孝高より秀吉に献上され、播磨を再び平定した後に改めて城が築かれ、城下町の整備が成された城であった、そういう意味で秀吉にとって中国筋では最も安心できる城であっただろう。

黒田家にとって実質上の家祖である黒田重隆の活躍した土地や彼が仕えた小寺家の居城 御着城跡 を通過する時は思い出深いものがあったでしょう。
また播州三木城攻めで彼らが壊滅させた地域の行軍は黒田官兵衛と秀吉にとって感慨深い物があったでしょうか?

明石まで進軍した秀吉にとって最大の関心事は高山右近と中川清秀の行動であったでしよう、予定決戦場は山崎辺りになるだろうとの観測は出来ていたでしょうから、右近と清秀の同行次第で予定戦場と事後の計算が異なるので気をもんでいた事でしょうね。

晩秋の播州路を秀吉軍の行軍呂をトレースしながらはしります。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 によると・・

姫路を出発したのが6月9日であったことについては、それぞれの史料において一致している。9日朝、秀吉は浅野長吉(後の浅野長政)を留守居役として姫路に留め、残り全軍を率いて姫路城を進発した。この日は明石を経て、夜半には兵庫港(神戸市兵庫区)近くに野営した。また、別働隊を組織して明石海峡より淡路島東岸に進軍させ、明智方にまわる可能性のある菅達長(菅平右衛門)の守る洲本城(兵庫県洲本市)を攻撃した。菅氏は毛利氏に与力していたので、水軍による海上からの襲撃を警戒したものであった。洲本城は9日のうちに落城した。

秀吉軍は10日朝に明石を出発し、同日の夜には兵庫まで進んでいた。10日夜は兵庫で充分に休息し、翌6月11日朝に出発。摂津尼崎へ到着したのは、その日の夕刻であったろうと考えられる。尼崎東方には淀川が流れ、その対岸は大坂である。秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、当時、尼崎東郊にあったとされる栖賢寺(廃寺)で自身の髻(もとどり)を切ったという逸話が残っている。秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝および有岡城(兵庫県伊丹市)の城主池田恒興らに尼崎へ着陣したことを書面で伝えた。

秀吉は備中高松から姫路までの移動の迅速さに比べれば、姫路からの移動は、慎重さを伴い、着実な行軍に重点が置かれている。姫路までは、毛利方の追撃を免れるため何よりもスピードが重視されたのに対し、姫路からは光秀の放った伏兵などを警戒しながらの行軍であり、同時に同盟者を募り、情報戦を繰り広げながらの行軍だったのである。

織田信孝・丹羽長秀、池田恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。

写真レポート

姫路城

2020/11/15 07:02:26

姫路城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。

黒田官兵衛の祖父にあたる黒田重隆が備前長船福岡から戦乱避けるため、姫路に出てきて、目薬の販売で成功して家業を立てた地が姫路である。

ここまでくれば一安心だっただろう。

姫路城堀の紅葉

2020/11/15 07:03:46

姫路城堀の紅葉

御着城跡

2020/11/15 07:24:07

御着城跡

御着城(ごちゃくじょう)は、兵庫県姫路市御国野町御着にあった城。別名、茶臼山城、天川城。城内に山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの平城だった。赤松氏の一族小寺氏の居城で、永正16年(1519年)に小寺政隆が築城したと言われる。天正7年(1579年)に羽柴秀吉に攻められ落城、城割が行われ廃城となった。

NHKの大河ドラマ黒田官兵衛で小寺氏を片岡鶴太郎さんが好演されていました、どっち付かずで、能力は無い、典型的なダメ殿様である。

小寺家は後に黒田家に仕え幕末まで家名を保った。

黒田家廟所

2020/11/15 07:25:58

黒田家廟所

ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)《官兵衛のちの如水》の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。
 黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、1580(天正8)年秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。
 ここの墓所は、1802(享和2)年に資材を九州から運んできて造られました。廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石碑から内部は、昭和56年に姫路市指定史跡となっています。

現地掲示板

六騎塚

2020/11/15 07:37:17

六騎塚

六騎塚は、南北朝時代の延元元(1336)年、南朝方の忠臣として名高い児島高徳(たかのり)の父、範長(のりなが)ら主従6人が、足利軍との戦いで敗れ、自害した地にあたるとされる。

延元元(1336)年5月、足利尊氏・直義が九州から攻め上った時、新田義貞の弟・脇屋義助は、足利直義に敗れて、播磨へ引き退きました。同じく、敗れた児島備後守範長とその子・高徳ら27騎は、脇屋義助の軍に合流しようと、坂越の浦にやって来ました。児島高徳は、ケガをしていたので、近所のお寺で休むことにし、その他は那波の浦をそっと進んで行きました。
 播磨の守護・赤松円心の配下だった那波の城主宇彌(うや)三郎左衛門重氏は、50騎を率いて追いかけました。伊保庄(今の兵庫県高砂市伊保)で追い付き、そこから、阿彌陀宿(今の兵庫県高砂市阿彌陀町)までの間に、18回も戦ひを交えました。児島範長ら26騎はだいたい討れて、辻堂に駆け込んだ時には、範長ら6騎になっていました。今は最後と、主従6騎は、この辻堂で自害しました。

生石神社一の鳥居

2020/11/15 07:54:46

生石神社一の鳥居

高砂市神爪に参道のない鳥居があります。これは生石神社の「一の鳥居」と呼ばれています。この一の鳥居は延宝8年(1680)に庄屋神吉久太夫が奉納したものです。鳥居を奉納した由来は、ある時、久太夫が城崎温泉で姫路藩主に会ったとき、酒に酔って無礼な口をきいたことから殿様の怒りをかい、一家断絶の危機に陥りました。酔いのさめた久太夫はすぐに村へ帰り、氏神の生石神社に参詣してこの難を免れたそうです。そこで感謝の意を表すため、神爪の地に鳥居を建てたといわれています。
 また、この鳥居の隣には、山片蟠桃が結婚を記念して贈ったものといわれている燈篭があります。

高砂市HP転記

加古川を越える

2020/11/15 08:05:18

加古川を越える

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

本流(幹川)流路延長96km、流域面積1,730km2。集水域が広く、支流数が多い。兵庫県に河口を持つ河川水系の中では、本流流路延長・流域面積ともに最大である。

中国大返しの時期はちょうど梅雨時だったので、川越えがさぞかし大変であっただろう。

加古川城跡

2020/11/15 08:16:00

加古川城跡

関連リンク

加古川評定で有名な城跡です。内容は永くなるので↑を参照。

教信寺

2020/11/15 08:56:45

教信寺

教信寺は天台宗の寺で、ここで没したといわれる教信という高僧の廟跡に建つ。周辺は古代山陽道の加古の駅といわれた地である。開山堂に納められている教信の頭部像には応仁の乱直前の康正2(1456)年という修保の年代が残り、『日本極楽往生記』には教信のなきがらのうち顔だけが損なわれていなかったという伝承が伝わる。また教信の廟墓は、境内にある鎌倉末期の五輪石塔(県指定文化財)である。鎌倉時代に浄土真宗を興した親鸞(しんらん)や、時宗を興した一遍(いっぺん)にも敬慕された。現代に続く野口念仏の起源は、一遍の弟子により始められた念仏踊りである。
 現在も教信寺の前には山陽道が通っている。

野口城跡

2020/11/15 08:59:39

野口城跡

野口城は「播州一ノ名城」(『別所長治記』)として羽柴(豊臣)秀吉が播磨攻めの重要拠点とみなした城郭であった。城主長井長重は別所氏の与力として、天正六年(1578)四月三日から始まった秀吉方の大軍を一手に引き受けて奮戦した。

教信寺の北東にある小さな社がその跡とされる。

西国街道

2020/11/15 09:30:58

西国街道

道は現代の感覚からは細くくねりながら続く。

邑美駅家(おうみのうまや)

2020/11/15 09:39:01

邑美駅家(おうみのうまや)

平成22~23年にわたって調査したところ、築地塀跡が、一辺80mの方形区画の「駅家」であることがわかりました。
古代山陽道沿いで古瓦の出土ということ、そして、古代山陽道上に「駅家」の位置を当てはめていくと、丁度ここが「駅家」にふさわしい場所と考えられ、従来から言い伝えられていた廃寺跡ではなく「駅家」跡と確認したということです。

ただ、この「長坂寺遺跡」は、『延喜式』『和名類聚抄』『続日本記』等の書物に「駅家」としては一切記録されていません。早くに廃止されてしまったようです。

船上城跡

2020/11/15 10:10:27

船上城跡

船上城は、明石川の河口西岸に築かれた平城です。

現在は、本丸跡と伝えられている微高地が残されているのみで、城下町の大部分は宅地となっています。

羽柴秀吉は天下統一を進めるため、四国攻め直後の天正13(1585)年家臣の所領替えをおこない、高槻の高山右近を明石に封じました。右近は枝吉城(神戸市西区枝吉)に入り、本格的に船上城の築城に着手しました。

城の西側には城下町を整備し、南側には堀を経て海へとつながる港を建設したようです。右近は約2年間にわたり、明石を治めました。

船上城跡

2020/11/15 10:14:00

船上城跡

畑の先の小さな社が本丸跡とされる。

秀吉の時代には、船上城は存在せずその前身の林の城が存在したが場所が何処かはわかっていない。

織田家長屋門

2020/11/15 10:20:37

織田家長屋門

この建物は元和5年(1619)、明石城が完成した為廃城となった船上城の城門を移築したものと伝えられています。止め金などの金物は室町時代後期の様式を踏襲した江戸時代初期のもので時代の古さを感じさせます。木造平屋建、入母屋、本瓦葺、長屋門形式で、格式の高い家老級の武士のみが許されました。織田家は織田信長を輩出した織田一族の後裔にあたり、代々明石藩の家老を務めました。織田家長屋門は昭和45年」に明石市指定文化財に指定されています。

明石城

2020/11/15 10:25:14

明石城

元和3年(1617)、小笠原忠真が大坂の陣の功績により松本城(長野県松本市)から10万石で入封し明石藩を立藩します。当初は船上城に入城しましたが、忠真は徳川家康の外孫に当たる譜代大名として重要視され2代将軍徳川秀忠の命により明石城の築城が行われ幕府からは銀1千貫が与えられました。城は明石の岡に築かれた平山城で山頂付近の本丸の4隅には3重3階の櫓を配し、その他の郭には2重櫓6基、平櫓10基、城門は27箇所にも及び本丸を中心に東の丸、二の丸、稲荷曲輪、帯曲輪、北の曲輪、山里曲輪、三の丸、屋敷曲輪からなる大城郭となりました。元和6年(1620)に大凡完成し西国の外様大名に睨みを効かせる上でも重要視され小笠原以後も戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家、越前松平家有力譜代大名が藩主を歴任しています。

播磨 摂津 の国境

2020/11/15 11:06:50

播磨 摂津 の国境

現在の須磨区と垂水区の境が、かつては摂津と播磨の国境であつた。

敦盛塚

2020/11/15 11:09:46

敦盛塚

平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もあります。敦盛は、一の谷の合戦で源氏の武将の熊谷直実に討たれ16歳で命を落としました。

西国街道案内

2020/11/15 11:29:18

西国街道案内

「蓮池」の名前からわかるように、この公園と隣接する小学校の敷地には、かつてその名も「蓮池」という池がありました。蓮池の歴史は非常に古く、奈良時代にまで遡るとも言われています。言い伝えでは、行基がため池のためにこの地に池を作り、完成の際に蓮の花を投げ入れたそうです。後に、池にはたくさんの蓮の花が咲くようになり、「蓮の池」と呼ばれるようになったとのこと。

今は埋め立てられて公園になっている、道に面した所に西国街道の掲示板がある。

鬼平コロッケ

2020/11/15 11:39:56

鬼平コロッケ

個人的に好きなもので、昼飯代わりに寄り道。

柳原惣門跡の碑

2020/11/15 12:04:55

柳原惣門跡の碑

西国街道は、近世になってからは、西から来れば、須磨・長田方面から現在のJR兵庫駅の北を通り、西柳原町の柳原蛭子神社と福海寺にはさまれる位置あたりで兵庫の町にはいる。

西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と東の湊口には惣門が設けられていた。

柳原惣門が最初に設置された時期は、兵庫城の築城に伴う外郭の土塁(外輪堤・都賀堤)の構築時である天正八年(1580)頃に、その関門の一つとして設置された可能性が高い。

城は、現在の中ノ島あたりに主郭を置き、周囲にこの外郭の土塁と堀を設け、内側は郭内として兵庫津のまち全体を城下町とする縄張りとなっていた。

即ち、兵庫津の外郭は総曲線(総構)と考えられ、その曲輪の門として惣門と称されたのではないかと推測される。

この門は、明治八年外輪堤(都賀堤)とあわせて撤去された可能性が高い。

なお、平成十三年度に実施した柳原惣門調査会による調査と、平成十四年度に実施した埋蔵文化財調査(兵庫津遺跡第二十九次調査)の発掘結果を参考として推測復元図を作成した。

平成十五年十二月吉日 神戸市 岡方協議会

札場の辻跡(西国街道)

2020/11/15 12:09:16

札場の辻跡(西国街道)

江戸時代、西国街道は兵庫のまちの東の入り口である湊口惣門をくぐって、兵庫津に入っていました。

それから湊町、本町を経て南仲町の辻に出ます。

ここを右折して、神明町、北逆瀬川町、東柳原町を経て西柳原町へ出、西の入り口である柳原惣門を抜けて、須磨、明石へ向かいました。

南仲町の辻は、兵庫の中心地に当たり、ここに大きな高札場(幕府の布達等を掲示する場所)があったので、俗に

「札の辻」とも「札場の辻」とも呼ばれていました。

兵庫の高札場は、ここと東西の惣門と、来迎寺(築島寺)前との四ヶ所にありましたが、ここが兵庫の中心であったことから、南仲町のものが有名になっています。

明治元年、幕府の高札は廃しされましたが、新政府に引き継がれ太政官お名前で掲示されて、慶応四年まで設置されていました。

神戸市  岡方協議会  よみがえる兵庫津連絡協議会

兵庫城跡

2020/11/15 12:14:33

兵庫城跡

ある説によると兵庫城には毛利攻めの為の物資を保管する倉庫代わりだったとの研究がある。
秀吉と云う人は兵站の確保に非常な才能があった様子。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

兵庫城は、湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役目を果たし、前面は港を持つ防御の拠点となった「海城」として整備したものと考えられている。「(一五八一)に花熊城の石材などの一部を用いて天守閣を備えた城を築いた」とあり、天守が備わっていた可能性を指摘している[2]。

兵庫城の入り口柳原総門は兵庫の町の北部、扇の要と言える場所にあり、柳原総門を包み込むように、福海寺が配置され枡形を構成している。

『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』によると絵図の中央に堀で囲まれた「御屋敷」があり、本丸跡ではないかと考えられ140m2の広さがあった。堀の幅は3mで、野面積みの石垣と土塁で防備していたと推定されていたが、2012年8月の遺構発掘で場所によって9-18mの幅があったと確認された。城の北側には城下町が形成されており、御同筋には多くの社寺が配置され寺町となっていた。兵庫津の全体として南北2.7km、東西700mからなる城塞都市であった。

兵庫県里程元標

2020/11/15 12:29:18

兵庫県里程元標

里程元標(りていげんぴょう)とは、明治時代初期の里程調査のために定められた道路元標です。
道路元標は、道路の起終点を示す標識です。



「里程元標について」
兵庫県里程元標は、元相生橋の西詰に位置にあっが、昭和6年10月、国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取に取り除かれ保存されていたものであり、往時を偲ぶ縁(よすが)として、当地に移転復活  昭和35年5月吉日

現地掲示板要約

西国橋

2020/11/15 13:04:57

西国橋

御影の石屋川には西国橋が架かっており、橋を渡って左折すると御影公会堂が見え、手前の公園沿いに徳川道の起点となる。

徳川道とは、幕末の生麦事件をきっかけに、大名行列と外国人の衝突を避けるために作られた西国往還付替え道で、御影から摩耶山を越え小部峠、藍那、白川を通り明石大蔵谷へつづく32kの山越えの道である。

ところがすぐに明治維新となり、新政府から西宮の警備を命じられた備前藩がせっかく作った徳川道を通らず、神戸の三宮神社付近で隊列を横切ったフランス水兵とトラブルになり、近くに居た列強の領事館を巻き込んで生田川の河原で撃ち合いとなったという神戸事件が発生した。

くび地蔵

2020/11/15 13:15:03

くび地蔵

このあたりはもともと花松地蔵という石仏があり、首から上の病気が治るという評判で人々に崇められていました。大正6年に地元の方々によって首だけのお地蔵様が建立され、もとからあった花松地蔵に納めて花松首地蔵と名付けられました。

掲示板

この前の狭道が西国街道である、かつての街道はせいぜい幅が2m程度である。

西宮戎社

2020/11/15 13:39:53

西宮戎社

西宮神社は、山陽道と中国道の分岐点である西宮にある。商売繁盛の「えべっさん」の総本山として有名で、祭神は蛭子(ひるこ)命である。1872(明治5)年に広田神社から分離独立した。室町時代には漁業・商売の神として、福徳信仰の一種として栄えた。江戸時代には西宮の傀儡子(くぐつし)が人形を使用して全国に広めた。境内には指定文化財が多く、クスやアベマキなどの暖帯林の社叢(しゃそう・県指定文化財)もある。元国宝の本殿は1945(昭和20)年に焼失し、1961年に復元された。

武庫川を渡る

2020/11/15 14:01:19

武庫川を渡る

此処も渡河に苦労しただろう。

尼崎市内の古い道標

2020/11/15 14:09:20

尼崎市内の古い道標

尼崎市西本町8の道標

尼崎市西本町8-356、四辻の南東部に西を正面にして建つ

尼崎寺町

2020/11/15 14:14:32

尼崎寺町

尼崎市の寺町は元和3年(1617)に戸田氏鉄が現在の北城内・南城内に尼崎城築城を命ぜられ、それにともない城下町形成の一環として寺院ばかりを集めて作った町で、城地に当たるために移転した本興寺には同年12月付の棟札がのこされています。寺町には城地に当たる寺院のほか、中世以来町場にあった寺院、周辺にあった寺院や藩主ゆかりの寺院などが集められ形成されました。寺町は城下町の北西隅、武家屋敷の北側に当たり、町場から分離して寺院の力を弱めるとともに、巨大な建物群である寺院を配置して城に対する防備の役割をもたす目的があったとも考えられています。

尼崎城

2020/11/15 14:18:43

尼崎城

1617年(元和3年)今の大津から譜代大名戸田氏鉄(とだうじかね)が5万石の尼崎藩主として入部してきました。入部から3ヵ月後の1617年10月、尼崎に新城を築くよう幕府に命令が伝えられ、京都大阪の守りを固める役割が、三河衆の一人築城の名人戸田氏に託されました。
城内の総面積約13万平方メートルの広さに、4重の天守閣を持つお城が築かせたのも、外様大名の多い西国や山陽道を守るため大阪の西を固める支城としての重要さが認められたからです。
新城の建築と共に進められたのが城下町、寺町の整備でした。城を中心に東西に町場が整備され、東は今の大物から、西は貴布禰神社のあたりまでが城下町です。(資料:尼崎市)

近年個人の寄付で城が再現されていますが場所はことなります。

大物神社(大物城跡付近)

2020/11/15 14:22:10

大物神社(大物城跡付近)

大物城は古い尼崎城(尼崎古城)であるとされる。

秀吉軍はこのあたりにあった大物湊から神崎川をさかのぼる北摂への最短ルートである津門ノ中道を
進んでいった。

個人的には具足や兵糧は川船に積み替えて摂津富田辺りまで運んだのだろうと想像する。