中国大返しをライドル(その3)

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2020-11-03 11:41:48

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/11/03 07:52:04終了日時2020/11/03 11:41:34
水平距離45.09km沿面距離45.11km
経過時間3時間49分30秒移動時間2時間52分38秒
全体平均速度11.79km/h移動平均速度15.54km/h
最高速度48.23km/h昇降量合計355m
総上昇量185m総下降量170m
最高高度81m最低高度0m

レポート概要

中国大返しその3 (大物城~山崎の合戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用加筆

兵庫城で兵站の補充を済ませた秀吉軍は山陽道を西へと進んだ、大物城(尼崎城/大物湊)に到着した秀吉は亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、当時、尼崎東郊にあったとされる栖賢寺(廃寺)で自身の髻(もとどり)を切ったという逸話が残っている。
秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝および有岡城(兵庫県伊丹市)の城主池田恒興らに尼崎へ着陣したことを書面で伝えた。

本能寺で織田信長を弑した明智光秀ですが、あてにしていた細川氏に背かれた上に、なかなか味方してくれる大名がいなく苦慮しているうちに、羽柴秀吉が中国大返しで、京に迫ってくると言う情報が6月10日に届きます。

織田信孝・丹羽長秀、池田恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。6月12日、秀吉軍は尼崎から西国街道をそのまま進み富田(大阪府高槻市)に着陣したが、秀吉の宣伝は功を奏し、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じた[19]。中国方面軍司令官である秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、それまで去就をためらっていた諸勢力が一気に秀吉方についたのであり、このことが山崎の戦いでの秀吉の大勝利につながった。

明智光秀はただちに、急いで淀城と勝竜寺城の修復を開始させ、男山に布陣していた兵を撤収させました。
羽柴秀吉勢は6月11日には尼崎城に入り、12日には現在の高槻市あたりで、山崎で戦う事を想定した軍議を開いています。
この時、羽柴秀吉は総大将に丹羽長秀や織田信孝を推しますが、両者から望まれて羽柴秀吉が事実上の盟主となり、名目上の総大将は織田信孝と決定しました。

羽柴勢は羽柴秀吉を筆頭に黒田官兵衛・石田三成・蜂須賀正勝・堀秀政・中村一氏・堀尾吉晴・羽柴秀長・神子田正治・蜂屋頼隆ら約20000、そして合流した織田信孝、丹羽長秀、高山右近、木村重茲、中川清秀、池田恒興・池田元助、加藤光泰ら約7000の合計27000。(36000~40000説もあり)

迎え撃つ明智勢は斎藤利三・柴田勝定が2000、阿閉貞征・溝尾茂朝(明智茂朝)が3000、松田政近・並河易家が2000、伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕が2000、津田正時が2000、明智光秀・藤田行政など5000の合計16000とされています。

山崎の合戦は6月13日の夕方16:00頃、雨が降りしきる中、戦いが始まりました。
天王山の山裾を横切って高山右近の横に陣取ろうと移動していた中川清秀に対して、斎藤利三の右側にいた伊勢貞興が襲い掛かり、斎藤利三も攻撃に加わる形で開戦したとされます。

中川清秀と高山右近は窮地に陥りますが、堀秀政が後詰として到着。
そして、黒田官兵衛・丹羽秀長・神子田正治から前方へと進軍し、天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家らと交戦状態となりました。
最初は一進一退の攻防となりますが、約1時間後、淀川沿いを北上した池田恒興・池田元助の父子と加藤光泰らが、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲します。

津田信春の部隊は壊滅して残兵が逃げ出すと、丹羽長秀・織田信孝も右翼から一斉に押し出して、明智光秀本隊の側面を突きました。
これを受けて中川清秀・高山右近も斎藤歳三・伊勢貞興を押し返し、明智勢は総崩れとなります。
御牧兼顕(御牧景重とも)は、防戦する間に退却をと明智光秀に使者を送ると、羽柴勢に突っ込んで討死。
そのお蔭もあり、明智光秀は後方の勝竜寺城に退却しますが、主力の斎藤利三は戦線離脱し、松田政近、伊勢貞興らは殿(しんがり)を引き受けて討死しました。

この戦いで戦死者は、双方等も約3000と言われており、死者数においては互角ですので、羽柴勢としてもそれなりの被害を受けてます。
また、雨天や日没と言う事もあり、羽柴勢も積極的な追撃ができませんでした。

なお、明智勢としても、勝竜寺城では生き残った兵をすべて収容するのも難しく、平城であったことからも、逃亡する兵が相次ぎ、約700にまで減っていたと言います。

その為、明智光秀は僅かな供だけを従えて、勝竜寺城を密かに脱出し、坂本城を目指して落ち延びました。

そして、その途中、小栗栖の藪(現在の明智藪)にて、土民の落ち武者狩りに遭い、そこで竹槍に刺されて絶命したとも、力尽きて家臣の介錯により自刃したとも伝わるのです。
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中国大返しその3 (大物城~山崎の合戦)では大物城から摂津富田を経て山崎の合戦跡までの道をライドってみた。
尼崎から吹田にかけては津門の中道と云われる北摂への最短ルートを行軍したらしい。
結局 光秀 という人は何のために生きたのか?と問われた時に 前時代の秩序の破壊者であった 信長 を消し去る為に存在したのか?と考えてしまいます。また 光秀 のおかげで家康は随分得をしたとも思える、信長が存在していたら「歴史にIFは無いけれど」徳川幕府の開幕は絶対に無かっただろう、光秀の配下であった斎藤 利三の娘である春日の局は徳川家に異例の厚遇を受けている点も面白いことです。

写真レポート

大物橋跡(だいもつばしあと) 尼崎市東本町4 北浜公園

2020/11/03 07:52:05

大物橋跡(だいもつばしあと) 尼崎市東本町4 北浜公園

大物(だいもつ)
尼崎城下の一つ、大物町は平安時代以来繁栄した町場です。 現在地付近の江戸時歳の風景を描写した「摂津名所図会」には、大物橋の北に大物社若宮(現在の大物主神社)が描かれ、遠くに大物と接する長洲の長洲天神【現在の長洲天満宮)が見えます。 大物橋にかかる水路は大物川の一部で、庄下川の分流でした。橋の南側一帯には城下町建設前に尼崎の中心であった大覚寺(現在の寺町へ移転)の寺域がありました。現在地は、この大物川を埋め立てて緑途とし、「歴史の散歩道」として公園整備された所です。 大物の地名由来には、諸説ありますが、平安時代に港町として栄えていた尼崎の材木集散地がこの地にあり、この巨材を「大物」と呼ばれていたことから、いつしかこの地を大物と呼ぶようになったという説が有力です。 大物浜から、平安時代末源義經が兄の頼朝の追討を逃れるため、船出した史実が、のちに謡曲「船弁慶」や歌舞伎の世界で庶民の胸に荒々しき大物浦のイメージを与えることになりました。
                                       尼崎市教育委員会

大物主神社

2020/11/03 07:58:53

大物主神社

 淀川の支流神崎川の河口部に位置し、平安時代末期から鎌倉時代にかけて港町として賑わった。西日本各地から運ばれた材木の集積地として栄え、材木の特に大きなものを指す「大物」が地名の由来ともいう。
 材木のみならず、各地の荘園から都へ送られる年貢米や都で売買される特産品など、様様な物資が集まり、水運業者・商人・漁師・職人・勧進僧・遊女など、あらゆる階層の人びとが出入りする一大物流拠点だった。
尼崎の語源は「海が幸」といわれます。海の恵み豊かで、風光明媚な場所だったそうです。陸上海上とも、都への交通の玄関口だった尼崎ですが、海岸線は時代とともに南下しています。社殿によれば、海に至る河口に三角州が点在し、その州のひとつに大物主命の社が祭りの場として建てられたのが起源とされますが、年代は不詳です。

秀吉の時代もこのあたりは大物城があり、大物湊が存在したはずなので、ここで休息をしつつ備前片上から船積みした荷物等を集めて尚且つ作戦を練っていたことでしょう。

大物くずれの戦跡碑

2020/11/03 08:00:24

大物くずれの戦跡碑

戦国時代、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立がありました。細川政元の養子高国と同じく養子の澄元・晴元父子が対立し尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531)の両者決戦では、高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込む程の大敗となりました。追撃は激しく高国は大物の広徳寺で自刃しました。この戦いを「大物くずれの戦い」とよんで語り伝えられてきました。


いぞれにせよ秀吉が中国大返しをした頃にはこのあたりは城もあったし、湊もバリバリに機能していたのだろう、備前片上から船積みされた具足等はこの大物湊から陸揚げされたのかもしれない。

中国街道の道標

2020/11/03 08:05:34

中国街道の道標

中国街道の分枝点にある道標


西面)
右 尼崎 大坂 (道)
(南面)
右 大坂 京
        道
左 伊丹 有馬
(東面)
文化五年戊辰三月吉日
(北面)
左 尼崎 西宮

神崎金比羅さんの石灯籠

2020/11/03 08:15:22

神崎金比羅さんの石灯籠

金比羅大権現は、讃岐国(香川県)の金刀比羅宮に祀られた海上守護神で、早くから船乗りの信仰を集めていました。神崎の津は、都と西海とを行き来する船と人々でにぎわっていました。この石灯籠は、航海の安全を祈念し、灯台の役割をもつものです。願主岸田屋治兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く人々から寄付が集められ、文化元年(1804)頃建て替えられたものです。

戦国期に此処に渡しがあったか否かは不明だが、神崎川は川幅もあり当時も渡しはあっただろう。

津門ノ中道

2020/11/03 08:27:15

津門ノ中道

拡幅整備されているとは言え、微妙な曲がりや凹凸から旧道らしさを感じ取れます。

尼崎から以外に早く吹田の街へ進む事が出来る。

吹田到着

2020/11/03 08:44:00

吹田到着

吹田のアサヒビール工場あたり。

津門ノ中道は川沿いに村落を結ぶ生活道路だったんでしょう、道も狭く湿地帯の中を進む道であり、この時期(旧暦6月太陽暦では7月の梅雨後半です)酷い道だったはずですが、雑兵から騎馬武者まで、褒賞目当てに必死で走った事でしょう。

小路道標

2020/11/03 08:51:46

小路道標

亀岡街道から佐井寺観音参拝道が分岐する地点に立てられた一石五輪塔道標。江戸時代。

茨木城門

2020/11/03 09:22:37

茨木城門

茨木城は現在の茨木小学校 北西あたりに本丸があったと伝えられるようだが、住宅街のため大規模な発掘調査が出来ず詳細は不明のようす、現在は駐車場になっている

門の右側には「茨木城櫓門について」という説明板が掲げられている、片桐氏の菩提寺である慈光院(大和郡山市)に移築された櫓門を原寸大復元したものとのこと。

片桐氏は江戸期以降の話でこの当時の実質的な城守は中川清秀であった。

摂津 本照寺

2020/11/03 09:40:44

摂津 本照寺

普門寺を訪ねたついでに、昔は普門寺城といわれた広大なエリアを訪ねました。既にこのブログでアップしたことがある本照寺(ほんしょうじ)は浄土真宗本願寺派の仏教寺院で、富田御坊(とんだごぼう)ともいわれています。

本照寺は室町時代以前は普門寺のいわゆる塔頭(たっちゅう)だったと聞きました。また秀吉の中国大返しのときに普門寺で落ち合った秀吉の軍が山崎の戦い前夜にここに本陣を張ったといわれています。

高槻城跡

2020/11/03 09:54:39

高槻城跡

高槻城の歴史は古く、平安時代中期の正暦年間(990~994)に近藤忠範が館を築い槻の木高校脇に建つ高槻城址の碑たのが始まり。南北朝の動乱期には駿河国入江荘の地頭・入江氏が足利尊氏の命により高槻城に入り、室町時代から戦国時代初期にかけてこの地方一帯を支配していた。
 永禄12年(1569)足利義昭を奉じて上洛した織田信長は謀略を用いて入江氏を滅ぼし、和田惟政(これまさ)を高槻城主とした。和田惟政はキリシタン宣教師を保護し、ルイス・フロイスを信長に謁見させるなど、宣教師たちからはキリスト教の父とも呼ばれた。
 和田惟政は元亀2年(1571)白井河原の合戦で池田城主池田勝正に敗れて戦死。その子和田惟長が後城跡公園を継いだが、天正元年(1573)高山右近父子に城を追われ、高山飛騨守、次いでその子の高山右近が高槻城主となった。
 キリシタン大名として有名な高山右近は城内に教会を建て、宣教師を招くなどキリスト教の布教に力を注いだが、豊臣秀吉の天下となった天正13年(1585)高山右近は明石に移封。キリシタン禁令はこの2年後である。
 その後、高槻城は豊臣氏の直轄地となるが、元和元年(1615)の大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、高槻城主は内藤氏・土岐氏・松平氏・岡部氏とめまぐるしく代わり、慶安2年(1649)永井直清が3万6千石で入封。以後、高槻城は永井氏13代で明治維新を迎える。

摂津 山城 国境

2020/11/03 10:26:58

摂津 山城 国境

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山崎宿(やまざきしゅく)は、山陽道西国街道の摂津国と山城国の境に位置した宿場町。堺と同様の自治都市で、山崎の戦い時には明智側、豊臣側双方から市街での戦闘を避けるよう協定がなされていた。

山陽道のみならず丹波街道の起点でもあり、古くは淀川対岸まで山崎橋がかかり、外国使節などが到着する港があったとされる。また、嵯峨天皇はこの地に離宮を設け、貞観3年6月7日(861年7月18日)にその施設が山城国の施設として転用されることになり、国府が山崎に移転した(『日本三代実録』)。

現在、関大明神社や離宮八幡宮、山崎駅(鉄道のそれとは無関係)の遺構などが残る。

離宮八幡宮

2020/11/03 10:27:57

離宮八幡宮

離宮八幡宮は油の独占で栄えます。平安時代の後期(貞観年間)となり、津として栄えたこの地の人々の中に、荏胡麻(えごま)の油絞りの道具を考え出した者(離宮八幡宮の神官貞観年間、時の神官が神示を受けたとされる)「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の製油を始めました。

当初はこの道具を使って作られた荏胡麻油は、対岸の石清水八幡宮の灯明用の油として神社仏閣の燈明用油として奉納されていましたが、次第に全国にこの業が広まり、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜りました。

そうして、油座として離宮八幡宮は幕府・朝廷の保護の下、大山崎油座として油の専売特許を持ち栄えていきます。安土桃山~江戸時代には、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え栄華を極めたそうです。

宝積寺 仁王門

2020/11/03 10:39:15

宝積寺 仁王門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。

宝積寺三重塔

2020/11/03 10:41:28

宝積寺三重塔

宝積寺三重塔(重要文化財、桃山時代 慶長九年 1604年建立、本瓦葺、高さ19.5m)

「秀吉一夜造りの塔」とも呼ばれ、山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したという逸話が残っている

宝積寺

2020/11/03 10:43:22

宝積寺

天正10年(1582年)、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれた。直後秀吉により天王山に建設された「山崎城」にも取り込まれ、このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた。

宝積寺

2020/11/03 10:44:07

宝積寺

訪問日は紅葉が始まっていた。

山崎町東黒門

2020/11/03 11:17:02

山崎町東黒門

ここには古くより幹線道路として使われた西国街道が通っており、街道に沿って宿屋などが立ち並んでいた。そして西の端に西黒門、東の端に東黒門を設け、集落の治安維持をはかった。
戦国時代末期、羽柴秀吉と明智光秀が戦った「山崎の合戦」の際には、秀吉軍の先鋒としてやってきた高山右近の軍と明智軍が、この東黒門を巡って戦いが始まったとも言われている。

山崎合戦古戦場跡

2020/11/03 11:25:24

山崎合戦古戦場跡

南北に流れる円明寺川(現・小泉川)を挟んで西側に秀吉軍約3万6千、東側に光秀軍約1万5千が対峙した。ちょうど石碑の辺りで両軍が激しく衝突したとみられるが、戦闘が始まると光秀軍は戦力に勝る秀吉軍に次第に押され、わずか1時間半ほどで秀吉軍の勝利に終わったという。

画像後ろの山は天王山。

山崎合戦古戦場跡

2020/11/03 11:26:25

山崎合戦古戦場跡

円明寺川(現・小泉川)

2020/11/03 11:27:39

円明寺川(現・小泉川)

円明寺川(現・小泉川)を挟んで西側に秀吉軍約3万6千、東側に光秀軍約1万5千が対峙した。ちょうど石碑の辺りで両軍が激しく衝突したとみられるが、戦闘が始まると光秀軍は戦力に勝る秀吉軍に次第に押され、わずか1時間半ほどで秀吉軍の勝利に終わったという。
光秀はこの後、一旦は勝竜寺城に逃げ帰るが戦略的に不利と見て坂本城を目指した。

境野1号墳(明智光秀本陣跡)

2020/11/03 11:33:04

境野1号墳(明智光秀本陣跡)

境野1号墳は、古墳時代前期後半の前方後円墳です。
ここは、山崎合戦の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられています。

「太閤記」の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、
同地周辺の地形を考慮すると、当古墳城が本陣に利用されたものと考えられます。
古墳のある場所は標高25.2メートルを測り、周辺と比べるとひときわ高く、
天王山や西国街道方向に視界がひらけます。
羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握してしきするのに
うってつけの場所が本古墳であったと言えるでしょう。

勝龍寺城跡

2020/11/03 11:41:16

勝龍寺城跡

関連リンク

勝龍寺城は安土城に先行する織豊系城郭の最古級の城。
京都と大阪の間に位置することから、織田信長の命を受けた藤孝が、元亀2年(1571)に京都防衛の軍事拠点として大規模に改修しました。安土城に先行する織豊系城郭の最古級の城で「瓦・石垣・天守」という当時の最新技術で築かれています。

明智光秀の娘、玉(後のガラシャ)は、天正6年(1578)、藤孝の嫡男、細川忠興に嫁ぎ勝龍寺城に輿入れした。
ガラシャが幸せな新婚時代を過ごした勝龍寺城。

山崎合戦の際には、敗れた光秀が坂本城を目指してこの城から敗走したと伝わります、この勝龍寺城で光秀は最期の夜を過ごしました。
この後の光秀の行方は?? リンク↑ https://map.cyclekikou.net/report.php?id=5289