世界文化遺産??? 河内地方のキリシタン関連遺産を巡る。

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現在の軌跡: 16 10 2022 10:07(001)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2022/11/05 07:48:26終了日時2022/11/05 13:56:41
水平距離57.33km沿面距離57.57km
経過時間6時間08分15秒移動時間4時間33分43秒
全体平均速度9.38km/h移動平均速度12.48km/h
最高速度56.37km/h昇降量合計924m
総上昇量396m総下降量528m
最高高度253m最低高度11m

レポート概要

先日暇な日曜日に撮りためしているTVビデオを視聴していたら、かなり前の再放送で ブラタモリ の長崎の 長崎 隠れキリシタン 世界遺産を再放送していた。

僕は落語が好きで、野崎参りの道を バイクでたどるツーレポを挙げたときに 「野崎観音の謎」という本にであって その突拍子もない内容に驚いて少しレポートを書いたのですが、その時に書ききれなかった事が思いおこされました。

僕の推測では、ザビエルがキリスト教を伝えた後に始めに信仰が広まり定着していったのは、河内地方だったのでは無いかと思っています、それは最古のキリシタン墓碑「田原レイマン墓碑」と二番目に古い墓碑「満所キリシタン墓碑」が共に河内地方で発見されている事を証左としています。

ただ、弾圧後河内地方に「北摂をのぞく」キリシタン信仰が残らなかった理由に、
河内地方は天領の割合が多くて九州の外様大名と比較して租税の割合が軽く生活が過酷では無かったのでは無いか?と・・

九州地区は外様大名が多く外様は天領に比較して租税の割合が多く生活が過酷で、過酷であればこそ信仰の深耕がふかまり明治期まで残存出来たのでは無いか?と妄想しています。

河内地方に天領が少なく外様が多くあれば、キリシタン信仰も継続され、明治以降一気に信仰が花開き世界遺産になれたかも・・・

まあ妄想以外の何物でもありませんせんが、そんな妄想一杯の 「河内キリシタン遺構」を自転車で巡ってみました。

写真レポート

白庭台駅にて輪行

2022/11/05 08:02:46

白庭台駅にて輪行

久しぶりに輪行にて白庭台駅にて組み立てを開始して、河内キリシタンの遺産跡を巡る。

田原礼幡キリシタン墓碑

2022/11/05 08:20:28

田原礼幡キリシタン墓碑

四條畷市ホームページ文化財、遺跡より転記

戦国時代に飯盛城で活躍した三好長慶の家臣には、キリスト教の洗礼を受けた人が多く、長慶の死後も河内地方ではキリスト教が栄えました。

四條畷市教育委員会による田原城主の菩提寺である千光寺跡の発掘調査でキリシタン墓碑が見つかりました。

千光寺は田原城の北方400mのところにあり、田原城は三好長慶の飯盛城の東方を守る役割をしていました。

 千光寺は、明治維新のとき廃寺となったため、以後その正確な位置はわからなくなっていました。

1994年に地域の開発計画にともなって、千光寺推定地を含め約四千平方メートルが発掘調査されました。

その結果、歴代の田原城主およびその一族の墓群、さらに千光寺の建物、庭、池、塀、出入口などの存在の痕跡が、きわめて明瞭に浮かび上がってきました。

田原礼幡キリシタン墓碑

2022/11/05 08:20:52

田原礼幡キリシタン墓碑

002年2月14日に千光寺の土塀の内側の土中から、鮮やかな十字架を刻んだ見事なキリシタン墓碑が出土しました。墓碑は、土中にやや傾いた状態で発見されました。墓碑の下部には、台石に固定するための突起がありましたが、それに適合する台石もなく、また副葬品も遺骨も無く、一枚の墓碑だけ寺の庭の片隅に、孤立して、とても良い保存状態で発見されました。

四條畷市ホームページ文化財、遺跡より転記

田原礼幡キリシタン墓碑

2022/11/05 08:20:57

田原礼幡キリシタン墓碑

本体の長さは突起部分を含めて43.5cm最大幅は26cm、碑面には、上部にH字形を台座にして十字架が刻まれ、中央に「礼幡」、右に「天正九年辛巳」、左に「八月七日」と刻まれていました。

墓碑に刻まれた没年「天正九年」1581年は日本キリシタン墓碑では最古の墓碑になります。

従来発見されたキリシタン墓碑のうちで最古のものされていたのが八尾市西郷墓地で発見された「IHS 天正十年壬午五月二十六日満所 MANTIO」と刻まれた墓碑ですので、四條畷田原で発掘された墓碑が最古のキリシタン墓碑となります。

四條畷市ホームページ文化財、遺跡より転記

日本最古のキリシタン墓碑

2022/11/05 18:22:32

日本最古のキリシタン墓碑

キリシタン墓碑が展示されている四條畷市立歴史民俗資料館です。※2022/1/5日までは別の第37回特別展の為見れません。

上の?マークは十字架と、イエズスをあらわす略号「IHS」の真ん中のHだとか。当時のマークを見るとIHSのHの上に十字架マークが描かれているものがあり、その中央部のみを抽出したものかもしれないとの事。下部には天正九年と書かれている。本能寺の変(天正十年)の前年、1581年のキリシタン墓碑は日本最古という。
日本で二番目は後述する八尾市内の西郷墓地で昭和8年に出土した満所切支丹墓碑になる。

清滝峠より大阪を望む

2022/11/05 08:47:56

清滝峠より大阪を望む

清滝峠(きよたきとうげ)は、大阪府四條畷市に位置し、生駒山地を越える峠。標高247m。古代から往来のあった由緒ある[要出典]峠。当時の峠は少し離れた地点で、そこには1336年建立の五輪塔が立つ。付近の飯盛山には飯盛山城が築かれ、南北朝時代の古戦場である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

砂のキリシタン教会

2022/11/05 09:01:13

砂のキリシタン教会

元々は在地の土豪・結城左衛門尉忠正の居城(築城時期は不明)があった。
結城忠正は1563年に高山友照(高山右近の父)・清原枝賢らとキリスト教の洗礼を受け、畿内で活動するキリシタンの有力な庇護者として「結城殿」と称された。

居城近くにキリシタン寺院(教会)を建設。
教会を中心とした砂の地は「砂の寺内」と呼ばれていた、1577年、結城弥平次(結城忠正の甥)によって砂の教会は破壊され、同地の東に位置する岡山に新しく教会が建てられた。
同じ頃、結城氏の本拠も岡山に移ったものと思われる。

信徒3,500人が集まったと耶蘇会史通信使史料に記される。

砂・岡山のキリシタン

2022/11/05 09:01:13

砂・岡山のキリシタン

砂・岡山に3500人の信徒があり、教会十字架が建って盛況だった事など当地領主だった結城氏の名とともに耶蘇会通信文の中に伝えられる。

現地掲示板

砂・岡山のキリシタン

2022/11/05 09:01:35

砂・岡山のキリシタン

元和3年(1617)4月に創建。創建以前はキリシタンの寺院ということで当寺の耶蘇会士通信文の中に伝えられています。
砂、岡山の キリシタン 異国の文にのる
岡山地区から砂地区へと歩いてきます。砂地区には、光円寺と妙法寺の2つのお寺がありますが、砂の旧村の南側にある妙法寺、その門の左横にこの立て札があります。時は、織田豊臣と政権が台頭する少し前、砂・岡山地区には多くのキリシタンがいました。飯盛山の城主である三好長慶は彼らの信仰を理解し、畿内での布教活動などを許していたからです。ところが、豊臣政権以降には弾圧されてしまったのです。この地域付近にキリシタンの処刑場があったと言われ、彼らの霊を弔うために、昔8月12日(お盆の前日)に一夜限りの夜店が並び賑わっていました。

四条畷市HP記事転記

四条畷岡山城主、結城左衛門尉

2022/11/05 09:10:33

四条畷岡山城主、結城左衛門尉

岡山城主結城左衛門尉は若くして死んでしまったようで(毒殺された)結城左衛門尉の死後、その息子、結城ジョアンが岡山城主として家督を相続しました。

結城ジョアンは岡山の砂に、最も美しい教会堂を建て岡山をキリシタンの城下として栄えさせました。ジョアンは、若江、八尾城主の池田丹後守の娘マルタを妻に迎えたとされる。

忍陵神社はその岡山城の比定地にあたる。

野崎観音

2022/11/05 09:54:29

野崎観音

野崎キリスト教会の牧師、神田宏大(故人)さんは、その著書「野崎観音の謎」で、野崎観音慈眼寺は、隠れキリシタンの寺だったと説明して、「野竿観音の謎」と云う作品を出版されています。

曰く、野崎観音のある山の尾根の北に八幡山と言われる山があり、その場所に於いて秀吉~家康に於ける為政者達がキリシタン弾圧の磔刑を行った・・野崎観音はその殉教者の鎮魂の為とまだ潜むキリシタンたちへのエールの為の施設として仏教施設として偽装された礼拝所であるとの趣旨の著作である。

野崎観音は大阪夏の陣が終わった1616年に建てられた。
野崎観音の最も大切な青巌(せいがん)和尚は、フロイスの記録にも載っている人物であるのに氏素性だけではなく没年もわからない。

野崎観音 灯篭

2022/11/05 10:00:57

野崎観音 灯篭

野崎観音南門への石段最上部には、安永6年(1777年)肥前国平戸住紙谷和三郎と書かれた1対の石灯籠があります。

南門向かって左右にありますが、右は日焼けしていて確認しにくいです、この石灯籠は、肥前国平戸の隠れキリシタン達が、河内の隠れキリシタンにエールを送る意味で寄進した可能性があると神田神父はその著書の中で訴えておられる、確かに大阪の一地方のお寺に長崎からというのは何か?謎をかんじる。

野崎観音 南條神社

2022/11/05 10:02:05

野崎観音 南條神社

南條神社由緒

 祭神 牛頭天王・素戔嗚命
 例大祭   十月二十日  二十一日
 月並祭   毎月 一日  十 五日
 当社は、宝塔神社に対して北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ、野崎地区の氏神として厚く信仰される。明治五年から野崎「宝塔神社に一時合祀されたが、同十三年には、野崎村村社として復活し現在に至る。
 牛頭大王は仏教における神将として怨霊や病魔を打ち祓う。 素盞嗚命は姉の天照大神に岩戸隠れ神話を生ませる程の荒ぶる神であり、 病魔を退散させる神威ありとして尊崇される 。 このため平安期以降の神仏習合理論により牛頭天王と同一視されるようになった。
 京都・八坂神社に代表されるように牛頭天王をお祀りする神社は古く 、当社も北條村に対し南條村を称した江戸時代以前に南條(野崎)村の鎮守として 牛頭天王社と呼ばれていたのであろう。
 石鳥居に「元禄」の銘が刺されていることからこの時期「十七世紀末」に社域が整備されたと推定される。
 また、本殿前にある一対の木製狛犬(向かって左側の狛犬の頭には角があり、 一角獣と呼ばれる。狛犬に角があるもの程時代は古いと言われている。)は、 極彩色が施され、現在、剥離しているが桃山時代の雰囲気を漂わせている。 なお、その台座の裏書に「延享元年(1744)子年子九月十九日 天王宮野崎村」とある。
平成九年九月吉日
南條神社氏子中    現地掲示板転記

野崎観音 南條神社 扁額

2022/11/05 10:02:28

野崎観音 南條神社 扁額

南條神社氏子中野崎観音の境内には、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る南条神社があり、牛頭天王を祭神とする祇園社は、隠れキリシタンの信仰の対象となっていた例が全国に多数あるとも、また南條神社の鳥居に掲げられた牛頭天王宮と書かれた扁額には、ハート型の穴が6つあいていますが、これはキリシタンの心臓を表現したものではないかとも神田牧師は主張されている。

野崎観音 南條神社 扁額

2022/11/05 10:02:47

野崎観音 南條神社 扁額

関連リンク

ハートマークの起源ですが、少なくとも古代ローマ帝国(前27年 ~ 395年)の時代には、「ハートマーク = 愛情表現」として使われていたようです。

そして、ハートマークとキリスト教の関係ですが、フランスの修道女が「キリストに遭遇し、心臓を見せられた」というお話がフランス全土に広がり、「心臓が愛と信仰を示すもの」として幅広い認知を得て、ハートが聖心のシンボルとなったそうです?

ちなみに、日本にハートマークが入ってきたのは、16世紀頃のキリスト教の伝来によるものと言われ、フランシスコ・ザビエルの肖像画においても、ハートマークが描かれていますので「さもありなん」です。
ちなみにザビエルの肖像画は大阪府の茨木市の山奥の隠れキリシタンの東家の屋根裏から見つかっています、河内キリシタンと発生が同じ高山右近の領地であった茨木市でザビエルの肖像画が発見された事には意味があるのでしょうね?

野崎観音本堂

2022/11/05 10:03:47

野崎観音本堂

前述の神田牧師は、慈眼寺本尊の観音像は、竜を踏見つけるデザイン性があり、実は聖母マリア像で、その足元に蛇を踏みつけるモチーフがキリスト教圏では普通に見られる事から、聖母マリアが蛇を踏みつける像の暗喩した物だとの見解を示されている。

野崎観音本堂

2022/11/05 10:04:12

野崎観音本堂

母マリアが龍を踏む構図は、マカオの聖パウロ学院(1603年)のレリーフに今も見ることができるので、野崎観音はマリア像である可能性は大きいと神田牧師は示唆されていました。

野崎観音 鐘撞堂

2022/11/05 10:06:04

野崎観音 鐘撞堂

関連リンク

釣鐘堂の真北200メートル程入った地点が八幡山の磔刑が行われた。

詳しく調べられている人がブログを公開していますので リンク しておきます。

野崎観音 鐘撞堂

2022/11/05 10:06:04

野崎観音 鐘撞堂

寺の鐘は、誰がいつ撞(つ)いてもかまわないようになっている。十字架を刻んだことを知っている人は、あそこから打たれる鐘の音を聞きながら、慰め励まされていたのであろう。

野崎観音 梵鐘内部

2022/11/05 10:07:13

野崎観音 梵鐘内部

写真は、鐘を下から撮ったものですが、鐘の内側に陽刻された十字架がはっきりと写っています。

野崎観音見晴らし台

2022/11/05 10:09:31

野崎観音見晴らし台

関連リンク

八幡山は、多くの人たちが処刑された場所で、ここで処刑された 無縁仏を弔うために 「 無縁経法要 」 が営まれ、そのための 「 無縁経まいり 」 が “ 野崎まいり ” で、野崎観音は、八幡山に向かって拝めるように 建立されています。

野崎キリスト教会の牧師、神田宏大(故人)さんの著書「野崎観音の謎」にはそんな歴史舞台には登場する事のない・運命に抗うことも無く静かに死んで行った名もなき人々・歴史に消されて行った人々への鎮魂の抒情詩が営々と語られている。

「野崎観音の謎」はそういう人々へ送られた「あなた方の事を忘れてはいませんよとの」レクイエムである事でしょう。

三箇城跡推定地

2022/11/05 10:50:49

三箇城跡推定地

所在地:大阪府大東市三箇5丁目2-3
別名:なし
築城年:不明
築城主:不明
主な城主:三箇伯耆守頼照
廃城年:不明
遺構:城跡碑、由緒

三箇城は飯盛山城の西の守りを固める支城で、三箇伯耆守頼照の居城として知られています。頼照はキリスト教の洗礼を受け、サンチョと称したキリシタン武将で、畿内一の規模と伝わる教会が建てられていました。1565年(永禄8年)には京の政変から逃れて、ビレラやルイス・フロイスが数ケ月滞在したこともあり、フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告しています。1582年(天正10年)の「本能寺の変」で三箇氏は明智光秀に与したため滅亡しました。その後は白井氏の城となりましたが、1587年(天正15年)の羽柴秀吉による禁教令(バテレン追放令)で教会とともに廃城となりました。当時は深野池に浮かぶ島に築かれていましたが、現在は三箇菅原神社の鳥居脇に「三箇城址」と書かれた城址碑が建てられています。

菅原神社(三箇)

2022/11/05 10:51:08

菅原神社(三箇)

菅原神社(三箇)
祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九日・二十日。社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんも、お稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。住道地区の氏神で、延宝七年(1679)「三箇村検地帳」には「氏神天満宮」と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸、桁行一間二尺の社殿をもち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭りには西の口、江の口南、江の口北、大箇(だいが)、下野、押廻からの地車(ダンジリ)計六台が引き出され社頭に並んだ。この宮入の順番は、十八日くじ引きで決められる。また当地は十六世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇(さんが)城のあったところとされている。  
城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説あって断定し難い。なお、水月院跡には「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」の辞世句を記す墓石も見いだされる。  平成5年12月  大東市教育委員会

水月院跡墓碑

2022/11/05 10:52:50

水月院跡墓碑

三箇菅原神社社の横には廃寺になっている水月院跡があります。
水月院跡の地には累代の僧の墓が残されていて、当院七世 四〇軒乃墓 の横側に

「 城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん 」

と刻まれているが砂岩性の墓碑は剥落が始まっていて早期の保存が望まれる。

深野八幡宮

2022/11/05 11:03:26

深野八幡宮

住宅地の中の幼稚園の北面ににひっそりと小さな祠とキリシタン灯篭が残されている。野々宮神社なのであるが、その両脇にキリシタン灯篭は建っている。
かつて三箇大聖堂があった場所で、禁教令で出た後に大聖堂が廃棄され見せしめのための処刑が行われた。残った隠れキリシタンたちが礼拝を偽装するために建てた社であるらしい。

野崎観音の謎より引用転載

キリシタン灯篭

2022/11/05 11:03:26

キリシタン灯篭

1587年 秀吉は 伴天連追放令を出した。 

1612年 徳川幕府は 直轄地でのキリスト教の信仰を禁止した。 1613年 禁教令を全国に広めた。 キリシタンは 隠れキリシタンとなり、 密かに 燈籠に慈母観音像に似せた 十字架、マリア像、 キリスト像を刻み、また 慈母観音像を 聖母マリアに見立てて信仰した。

キリシタン灯篭は半分土に埋まって前にある幼稚園の子供達の歓声を聞いているようでもあった。

八尾のキリシタン 満所キリシタン墓碑

2022/11/05 18:22:03

八尾のキリシタン 満所キリシタン墓碑

八尾のキリシタン
この墓石は、昭和8年9月5日に西郷墓地から発見され、重要美術品に指定されました。現在、四条畷市田原から出土した田原レイマン墓碑が天正9年銘ですので、日本で2番目に古いキリシタン墓碑となります。中央にHISの文字と十字架が描かれ、その下に「満所」「MANTIO」、左右には「天正十年壬午年」「五月二十六日」と陰刻されています。
 このマンショについて、発見当時から誰なのかが話題となっており、今もさまざまに言われています。さあ、誰でしょうか?
フロイスの書簡には池田教正と夫人及び息子がヴァリニャーニを迎えたとありますが、この息子の消息がよくわかりません。或いは教正の息子がマンショかも知れませんね。ただの推測ですが。(小谷)

八尾歴史民俗博物館HP記事転記

八尾城跡

2022/11/05 12:34:01

八尾城跡

八尾城は、南北朝期の八尾の土豪八尾別当顕幸の築城と伝えられています。顕幸が南朝方に帰して後は、北朝方に占拠され、その河内における重要な拠点となります。

延元2年(1337年)、南朝方の高木遠盛らは八尾城の奪還をはかり、合戦となりますが、その折の猛攻撃で、城内の堂社・仏閣・矢倉・役所などがことごとく焼失しました。八尾城はその後も、南北朝期・室町時代を通じて、幾多の合戦の舞台や陣地となります。

イエズス会日本年報によると、戦国時代末期、八尾城は信長配下のキリシタン武将池田丹後守教正の居城であり、城下には、数多くのキリシタンが住んでいたということです。その後、教正は秀吉により美濃に移封され、城は廃城となります。

八尾市立図書館HP記事転記

八尾市内の西郷墓地

2022/11/05 12:40:34

八尾市内の西郷墓地

西郷墓地は八尾の古い町域の西の外れにあたる古くからある墓地。

墓地の入口の六地蔵は古風である。その右端の一体は、温和な表情、丁寧な彫りで、均整がとれた地蔵である。像の左右に銘文がある。□□岳大菩薩妙□□尼菩提 天正三亥年宗清禅定□菩提深寛大法妙菩薩 二月三日 天正3年(1575)の造立である。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室・八尾市郷土文化研究会、1998年)より抜粋

ここから昭和8年満所キリシタン墓碑が発見された。

河内地方にかつてキリシタン信仰と信徒が多く住んでいたことは疑いが無いと言えるだろう・・