左上の四角をクリックすると全画面表示になります。
GPXをダウンロード (右クリックで名前を付けて保存)
開始日時 | 2020/09/19 07:22:16 | 終了日時 | 2020/09/19 12:20:57 |
水平距離 | 54.35km | 沿面距離 | 54.49km |
経過時間 | 4時間58分41秒 | 移動時間 | 4時間20分43秒 |
全体平均速度 | 10.95km/h | 移動平均速度 | 12.48km/h |
最高速度 | 35.00km/h | 昇降量合計 | 852m |
総上昇量 | 398m | 総下降量 | 454m |
最高高度 | 267m | 最低高度 | 7m |
2020/09/19 05:50:09
久ぶりに 輪行してみました。
自宅から亀山まで輪行して、光秀終焉の地山科からまた輪行で帰るプランで出達した。
2020/09/19 07:23:13
亀岡駅も7-8年ぶりに再訪問、亀岡街道を南下して以来。
亀岡は京の都と老ノ坂峠をはさんで至近の距離にあり、日本海に通じる山陰道、播磨国への篠山街道、池田に抜ける摂丹街道がここで分岐する。
戦国時代の信長期には明智光秀が、秀吉期には太閤の近親大名が、そして、江戸期には徳川譜代の大名がこの地を治めた。
古代より畿内、京との関係の中で特殊な立地条件をもった町だった。
2020/09/19 07:25:41
明智光秀公像の制作は、亀岡市内在住の彫刻家であるとーじ・まサトシ(田路雅敏)さんの手によるもので、本徳寺所蔵の肖像画を基にデザインされ、戦国武将としての猛々しさよりも智将・文化人としての光秀公を表現したものになっています。また、像の足元には、亀岡市特有の「朝霧」が配置されています。
亀岡市HP転記
この城から一万数千の兵を率いて本能寺に向かった訳だが・・どんな気持ちで行軍したのだろうか?
絶望感からか?己が主人(光秀)が天下人になれると期待を胸にしていたのか?
今となっては判らない。
2020/09/19 07:37:16
亀岡は古い町が残っていて、旧山陰道沿いには漆喰塗りの古い町家が残る。
2020/09/19 07:54:35
亀岡の街を離れて老ノ坂に向かう旧山陰道にはかつての街道の雰囲気が濃厚に残っていて、この大きな樹の下あたりには、茶屋か何かがあったのかもしれない。
2020/09/19 07:58:50
趣のある街道を京都へ向かうと、本能寺の変の際に、軍勢を二手分けて 行軍したと伝わる
からと峠(からと越)と 老ノ坂へと向かう街道の 分枝点が現れる。
2020/09/19 08:08:27
老ノ坂峠へ向かう旧街道は今はほとんど使われる事が無いのでしょう。
誰とも出会わず静寂のなか鳥の声だけが響いていた、朝日が道を照らし美しい。
2020/09/19 08:09:17
使われる事が少なく、アスファルト舗装には苔が生えている。
さして勾配のきつい坂ではないのですが、タイヤがスリップするので押して上がらなければ危ない道になっている。
2020/09/19 08:15:33
旧老ノ坂峠『従是東山城国』の石碑。
この碑が山城と丹波の境、つまり京都の西端を表しています、かつては多くの人が行き交った街道で道秀の軍勢もこの峠を下ったのです。
アスファルト道はこの先の首塚大明神で途絶えて、その先は地道なっています。
2020/09/19 08:17:19
首塚大明神はかつて京て゛悪事を働いたとされる伝説の鬼・酒呑童子の首級を祀っています。
酒呑童子は、その本拠地て゛ある大江山において、摂津源氏の棟梁源頼光とその四天王の渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武に討伐されたと言われています。
頼光一行は童子の首級を携えて京都へと凱旋する途中、老ノ坂にて休憩をとりました。
この折、道端の子安地蔵か゛、童子の首は不浄た゛から、京に持ち込むへ゛きて゛はないと一行に告け゛たのた゛とか討伐した証拠を持ち帰りたい頼光たちは、忠告に逆らって首級を運ほ゛うとしたのて゛すが、首級は急に持ち上け゛ることか゛て゛きなくなり、怪力の坂田金時にすら動かすことか゛て゛きなかったそうて゛す。 そこて゛、当地に首を埋めて、首塚を作った。
不気味な感じの社の横に東に向かう地道と南に向かう地道がある、その南に向かう道を進むと良いが、道は荒れている、自転車で来るところでは無い。
2020/09/19 08:21:40
ご覧の通り路があれている。
自転車担いで登山道路的道を下る。
いくつかのチェーン止めを突破して京都霊園の東側の道路に出る。
そのまま下ると旧山陰道になる。
かつて歴史に何度も登場する歴史的峠(老ノ坂)は今では、忘れられた道となっている。
2020/09/19 08:54:03
老ノ坂を下り京都市内に入ると、さすが京都だけ在って趣の良い町家がワンサカある。
此処は桂川の近くにあたり、西国街道へ道を取る場合に随分外れた地点にあたるので、当時の将兵は訝しんだと思うのだが、どうやら将兵へは親方様の前で馬揃を披露すると云う事にしてあったそうである。
2020/09/19 09:02:56
本能寺の変の際の行軍ルートには所説あり
信長公記には 老ノ坂→追分→桂川→本能寺 となり。
川角太閤記には 柴野(篠)⇒老の坂⇒谷の堂・峯の堂⇒沓掛⇒桂川⇒本能寺とあり。
豊鑑には 大江の坂(老ノ坂)⇒本能寺
明智軍記 保津⇒水尾⇒嵯峨野⇒衣笠山麓地蔵院
能条(野条)⇒大江坂⇒桂 ⇒本能寺
⇒王子⇒唐櫃越⇒松尾ノ山田村⇒本陣
とあるが、いずれにせよ桂川を渡った後は本能寺を取り囲む形で将兵を数手に分けて進軍したのだろう。
2020/09/19 09:33:36
応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。
その後、天文5年(1536)天文法乱によって焼失。天文14年(1545)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此地に移転、壮大なる堂宇の再興をみた。然るに天正10年(1582)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正17年(1589)、この地に再建せんとし上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙つと。
因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「?」と書くのが慣わしである。現地掲示板大本山 本能寺
2020/09/19 09:55:41
羅城門は794年(延暦13)に建設した平安京の正門です。
朱雀大路(現:旧千本通り)がまっすぐ北に走り、左右には東寺と西寺が位置していました。
この門の前から西国街道が始まっている、光秀の軍勢もこの前を通って天王山へ向かったのだろう。
2020/09/19 10:02:07
西国街道は古から主要な街道であった。
今でも古い町家が多く残る、この街道を西に走ったのだろう。
2020/09/19 10:09:49
再度の 桂川渡河 将兵たちは何を思い渡ったのか?
2020/09/19 10:30:47
現在の西国街道いい感じの家並が残る、黒漆喰の壁に白漆喰の虫籠窓が美しい。
散策するのには良い街道である。
2020/09/19 10:42:07
勝龍寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても知られる。天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。
光秀にとっては思い出深い城であるが、本能寺の変の際に明智光秀方が占拠し拠点とした。
変から数日後の山崎の戦いで敗走した光秀は、勝龍寺城に帰城するも、敵である羽柴秀吉軍の追撃を受け城を放棄、勝龍寺城から本来の拠点である近江国坂本城へ逃走する途中で落ち武者狩いあり落命した。
翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。
2020/09/19 11:51:06
明智光秀が最期を遂げた場所が「明智藪」と呼ばれる地。京都市伏見区小栗栖の住宅街のはずれに今もその場所があり、案内板がある。
住宅地の中を走る。
2020/09/19 11:51:35
明智藪(あけちやぶ)
近江坂本城主、明智光秀は一五八二年(天正十年)六月二日早朝中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。
この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
平成三年二月吉日
京都洛東ライオンズクラブ建立
現地掲示板
2020/09/19 11:53:20
明智光秀の最後の場所はこの辺りの藪だったのだろうか?
天正十年六月十三日落ち武者狩りに腹を刺され最期と悟った「光秀」は家臣「溝尾茂朝」に介錯させ
首を守護を表す「毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」に包んで「知恩院」に届けてくれと言い残したという。
かつては鬱蒼とした竹藪だったのだろうが、現在は墓所か宅地にでもするのか?切り開かれていて往時の面影はみじんもない。
2020/09/19 12:03:49
天正10(1582)年6月2日,明智光秀(1528~82)は,本能寺で織田信長を討ち取った(本能寺の変)。その後,中国地方から引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉(1536~98)らと13日に山崎で戦ったが敗れた(山崎の戦い)。光秀は近江坂本に戻ろうとしたが,小栗栖で土民から襲撃され,明智藪で自刃したという。その際,首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって隠されたというが,持ち去られたともいい,首を埋葬したと伝える塚が,東山区三条通白川橋下るに所在している。一方,胴はここに埋められたと伝えられる。この石標は,この地に明智光秀の遺体(胴体)が埋葬されたと伝えられることを示している。
現地掲示板
光秀は信長を弑した後に、何を見ていたのでしょうか?