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開始日時 | 2022/08/06 05:36:19 | 終了日時 | 2022/08/06 11:38:33 |
水平距離 | 79.51km | 沿面距離 | 79.63km |
経過時間 | 6時間02分14秒 | 移動時間 | 4時間42分18秒 |
全体平均速度 | 13.19km/h | 移動平均速度 | 16.86km/h |
最高速度 | 42.60km/h | 昇降量合計 | 571m |
総上昇量 | 285m | 総下降量 | 286m |
最高高度 | 31m | 最低高度 | 0m |
2022/08/06 06:20:38
黒門町架道橋は、大阪環状線の高架化工事が行われた1932年3月29日に竣工した、全長36.12mの鋼製橋梁です。
古い鋼製橋梁の特徴であるリベット留めの支柱に支えられています。
戦時中に機銃掃射を受けた跡がのこります。
2022/08/06 06:22:19
橋梁の柱の部分には大きな機銃の貫通跡が残っています、めくれ方をみるに、おそらく西側から東側へと弾丸が突き抜けたのでしょう。
橋の下に避難していた人を超低空から狙ったのではないでしょうか?
2022/08/06 06:58:30
千人つかはもともと、城北公園後方の淀川堤防中腹にあったそうです。
1945年6月7日第3回大阪大空襲で大阪を攻撃したB29は砲兵工廠に落とす予定の爆弾を都島区を中心とした大阪市北東部に投下して、城北公園や淀川河川敷に避難した人をP51の機銃掃射が襲い、悲劇となりました。
この場所で亡くなった1000人以上の遺体を荼毘にしたとつたわる。
2022/08/06 07:09:53
戦時中は物資の輸送で使われていました。
大阪大空襲では、米軍が輸送路を断つために何度も爆弾を投下しましが直撃は免れて、現在はJRおおさか東線の車両が走っています。
2022/08/06 07:18:40
一九四五年六月七日・六月十三日・六月二十六日、
東淀川区は米軍による空襲にみまわれた。
特に六月七日の空襲は激烈をきわめ、一トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。
米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し、
浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約五十メートルにわたり残された。
この弾痕は空襲に倒れ、傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として、
私達に語りかけている。 現地掲示板より
2022/08/06 07:19:11
2022/08/06 07:29:37
昭和20年6月7日11:09~12:28の間、
B29爆撃機とP51戦闘機547機が大阪市の北エリアに、
機銃掃射による攻撃と焼夷弾など2594トンもの爆弾を投下しました。
第三次大阪大空襲です。
北エリアは火の海と化しました。
旧長柄橋の下には、逃げ場を失った人々が退避して来ましたが、そこに直撃弾があびせられ、
400人もの尊い命が奪われました。
慰霊の観音像が弾痕の残る橋脚片とともに安置されている。
2022/08/06 07:51:17
終戦前日の昭和20年8月14日13:16~14:01の間、大阪砲兵工廠を中心に、
大阪市東区・城東区でB29爆撃機145機から707トンもの爆弾が投下されました。
第8次大阪大空襲です。
大阪砲兵工廠への空襲で、1トン爆弾が京橋駅に落下。
当時城東線ホームを突き破り、多くの乗客が避難していた片町線ホームに落ちたのです。
被爆犠牲者は判明しているだけで210名とされています。
ただ実際には、500~600名が犠牲になったとも言われています。
2022/08/06 07:51:51
大阪大空襲
京橋駅爆撃被災者慰霊碑
太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された慰霊碑である。
納経塔
戦後、被爆犠牲者を弔う法要が毎年8月慰霊碑の前で鴫野・妙見閣寺によって行われているが、37回忌を機に写経による供養をと、遺族及び当時駅での体験者、大阪大空襲の体験を語る会々員他多数の市民からの基金、協力を得て建立した納経塔である。
掲示板要約
2022/08/06 07:58:09
明治維新後、大阪は軍都となりました、大坂城の東側に広大な土地があった事、徳川家の持ち物であった事、江戸期を通じて西の諸大名に対しての軍事拠点であった事、等の諸条件が揃っていた事
が理由でした。
太平洋戦争時はこちらの建物で、兵器の研究開発および化学実験が行われたとされています。
戦後は国の庁舎、大阪大学工学部の校舎、自衛隊の庁舎として使用されました。
現在は放置状態で立入禁止となっています。
建物の老朽化により、現状のままで使用するのは無理らしいのですが、戦争の記憶を残す意味からも保存してほしいものです。
2022/08/06 08:05:19
石垣の表面に残る傷は、第二次世界大戦末期の空襲による被害の痕跡です。機銃掃射(きじゅうそうしゃ)によって付いたものと推定されています。
1945年(昭和20年)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度の大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となりました。
2022/08/06 08:16:07
嘗ては大阪陸軍兵器支廠があり、兵器や兵器材料の保管および修理などを行っていました。
門柱と塀は当時のまま残存しています。
戦後、兵器支廠の倉庫などは取り壊されて、現在は大阪城公園城内詰所となっています。
2022/08/06 08:23:33
明治時代、露天の射撃場だった場所に、昭和7年、コンクリートで出来た長いトンネル式の射撃場が竣工され在阪陸軍歩兵部隊の実弾射撃訓練場として使われていました。
今は駐車場となっています。
2022/08/06 08:29:10
2022/08/06 09:42:22
陸軍大正飛行場(現在の八尾空港)に配備された戦闘機を格納し、敵の攻撃から守るために建造された。
30基あまり造られたという掩体壕のうち、唯一破壊を免れた1基が山麓の畑の中にぽつんと残されている。
2022/08/06 10:22:18
もとは北側の市道交差点にありましたが、道路拡幅に伴い、通行に危険なため、平成17(2005)年5月にとりのぞかれることとなり、二本の門柱のうち西側の一部が、保存されることになりました。この門柱には、「通用門」と彫られた大理石がはめこまれています。大阪航空廠は、昭和15(1940)年に、軍事用の飛行機の組み立てや修理・整備などを行う施設として、建設されました。現在の八尾空港は、太平洋戦争中は、大正飛行場とよばれる軍事用の飛行場でした。その西側の八尾市西木の本から大阪市平野区長吉の一帯が大阪航空廠で、約二千人の人々が働いていました。その中には軍人や技師だけでなく、近くの村から集められた人々や、大正校区の生徒・児童たちも働いていたといわれています。戦争中の人々のくらしを後世に伝える、八尾市内の数少ない遺産の一つとして貴重です。平成17年6月八尾市教育委員会 文化財課【出典:『ステンレス製説明板』(八尾市教育委員会、2005年)】
現地掲示板転記
2022/08/06 10:26:44
旧帝国陸軍大正飛行場(現・八尾空港)跡の空き地に今も当時の格納庫の基台遺構が一対現存しています。
大阪市営地下鉄八尾南駅の北西、八尾空港の西に当たる広い空き地に、夏草に埋もれるように佇んでいた。
2022/08/06 11:02:38
終戦間近の昭和20年(1945年)8月6日広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。その11日前の7月26日午前9時26分大阪市東住吉区田辺2-3(現在の田辺小学校北側)に大きな爆弾が投下されました、大阪市が作った「昭和20年大阪市戦災概観」という資料には死者7人、重軽傷者73人、焼失倒壊戸数485戸、罹災者1645人とその爆弾による被害が記録されています。
実はこれは模擬原爆という特別な爆弾でした。模擬原爆というのは長崎に落とされたプルトニウム原爆(ファットマン)と同じ型、大きさ、重さで、中身がTNT火薬の約5トンの爆弾です。ずんぐりした型で黄色い色彩からパンプキンと呼ばれました。
大阪市HP記事転記
米軍は終戦近い7月20日から日本各地への空襲に紛れて模擬原爆を49発も投下しました。模擬原子爆弾による被害は死者400名、負傷者1200名を越えると記録されています。
2022/08/06 11:32:11
この防空壕は、加賀谷さんが周辺の方々も含めて避難できるように昭和20年8月14日に完成させた防空壕です。
終戦の前日に完成したため、実際に使用されたことはないそうです。