大和田街道 尼崎街道 勝間街道 ポタ。

左上の四角をクリックすると全画面表示になります。

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の高さ: px     地図の幅は自動調整されます(固定幅にするにはwidthをピクセルで指定)

タグ:

現在の軌跡: 04 03 2023 07:28

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2023/03/04 07:28:42終了日時2023/03/04 12:38:47
水平距離51.07km沿面距離51.07km
経過時間5時間10分05秒移動時間4時間05分49秒
全体平均速度9.88km/h移動平均速度12.34km/h
最高速度29.43km/h昇降量合計88m
総上昇量44m総下降量44m
最高高度5m最低高度-2m

レポート概要

近世に整備された街道をポタってみた。
詳しい内容は下記にしましますので、興味のある人は読んでみてね。

戦前まではメインストリートであった街道で、江戸期の神社やレトロチックな建物や戦後は工業地帯になったので、工場萌え的な風景が楽しめる路でした。


大和田街道
『西淀川区史』*1によれば「大和田街道は明治41年12月に竣工した西成大橋が、大正15年淀川大橋の竣工に伴い撤去されるまでの街道名称で、当時の国道2号線であり、阪神間を直結する最重要路線であった。街道の起点は難波橋北詰(北区)で、西成大橋を渡り、新淀川右岸堤防道から姫島郵便局・遍満寺前を通り大島橋を渡る。ここから大和田に入り西折斜行して新千船橋から出来島に入り千北橋を渡る。そして佃を横断して左門殿(さもんど)川南堤に至り、辰巳橋から終点の大物(尼崎市)に達する経路であった」そうです。『大阪市の旧街道と坂道』*2では街道ルートが昭和59年現在の大阪市地形図(5000分の1)上に実線と点線をもって示され、また文章でもさらにくわしく起終点並びに経路と街道の変遷が説明されています。それによれば大和田街道は梅田街道とも大阪街道とも別称され、原型は『大日本帝国陸地測量部製作仮製地形図』*3に見える大阪道であると紹介されています。そして『大阪府誌 4編』*4に「梅田街道」の名称が表示され、また『西成郡史』*5には表示は「仮定県道梅田街道」とあり、それぞれ当時の経路の状況が記されています。また『大阪の街道と道標』*6では街道沿いのお寺や神社などに保存されている昔の道標が具体的な道筋とあわせて紹介されています。さらに『大和田郷土史会報11号』*7によると「平成7年から9年に掛けて、姫島1丁目の淀川堤防下から出来島1丁目千北橋南詰までの、要所要所に「大和田街道」の標石が立てられました」とのことです。最後に「ついでながら、国道2号線が敷設せられ、淀川大橋が架設竣工するまでは、大和田街道は尼崎に入り中国道街道に合流し、西宮を経て山陽道として下関に達する幹線道路であり、大和田街道沿いの西淀川区内の人は、それゆえにこの旧街道を一名、阪神街道とも呼んでいた」そうです。
※大阪市立図書館HP記事転記

尼崎街道
「本街道は大阪市西區川口町に於ける安治川海口路線より岐かれ、北區安治川北通、西野田上ノ町、四貫島町及び西成郡傳法村、川北村等の諸町村を過ぎ同郡千船村大字佃なる梅田街道に合して終る。此の延長一里廿貮町四十一間、幅員約壹間半を有して全線新開の田野を貫通し、其の途中中津川、神崎川の派流數多の小川を横斷するを以つて道路?堤上にして、朝日、備前、百福、中島、森巣、西島、城島等の諸橋あり線路は都べて平夷なれども堤塘の迂回せる所、道路、亦、屈曲し、其の前後は多少の阪路たるを免れず。」
※大阪府地誌転記

勝間街道
勝間(こつま)街道は、江戸時代に栄えた、難波から木津を経て粉浜中在家で紀州街道と合流する、南北に走る街道です。広義では、当時の道頓堀を西へ橋を渡り鉄眼寺・木津の大黒社を経て願泉寺西を住吉に至るものですが、一般に願泉寺南の法華茶屋から南へ下る筋が勝間街道と呼ばれていました。西成区玉出町は大正4年まで勝間(こつま)村と呼ばれており、村を貫くこの街道は、江戸時代には紀州街道の側道として往来が盛んでした。昭和15年に勝間街道に添うように国道26号線ができたため、昔のにぎわいはなくなり街道の名も語り草となりつつありますが、今も街道筋には昔の面影を残す地蔵堂があります。
地図では、『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』*1のp.179、125、126によると、現在のJR環状線今宮駅の東南から住吉区東粉浜一丁目と二丁目堺の交差点までを結んでいます。『日本歴史地名大系 28-[1]大阪府の地名 1』*2の付図「大阪市街図」にも、木津村から粉浜中在家に至る勝間街道らしきものがみとめられますが、街道名は明示されていません。『西成郡史-全-』*3付図にも、勝間街道に該当すると思われる道が記載されていますが、街道名は明示されていません。

写真レポート

紀州街道 安立町あたり

2023/03/04 07:37:11

紀州街道 安立町あたり

住吉大社から、長い長い一本道が続く場所、それが紀州街道です。
大阪市内の高麗橋付近から和歌山城まで続く紀州街道は、八代将軍吉宗が整備を命じ参勤交代路として利用されたとされる道です。

かつての街道の特徴は まっすぐ にはできていない事です、少しくねくねしながら道が出来ています。

住吉大社

2023/03/04 07:43:35

住吉大社

「住吉大社」は大阪の総鎮守であり、地元では「すみよっさん」と親しまれています。
その歴史は約1800年と言われており、約700年前に建立された伊勢神宮よりも古くに建立された神社です。

太古 遣隋使船、遣唐使船等が航海の安全を祈って住吉津(すみのえのつ)から出航と言われており、境内には航海の安全を願って巨大な常夜燈がいくつも寄進されています。

天下茶屋跡

2023/03/04 07:52:21

天下茶屋跡

天下茶屋は豊臣秀吉が堺や住吉への途中立ち寄り、茶の湯を楽しんたところで、その名も殿下茶屋がなまったものという。この茶屋には名水のほまれ高い泉があり、秀吉はこれに「恵の水」と名づけた。その跡は芽木(めぎ)家とともに邸内に保存されていたが、戦災で焼失した。
 なお、道(紀州街道)をへだてた東側に紹鴎森天満宮があるが、ここは千利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう)が隠棲したところである。

大阪市HP転記

星野リゾート OMO7大阪

2023/03/04 08:01:04

星野リゾート OMO7大阪

西成のドヤ街を抜けてJRの高架をくぐると見えてくる。

大阪人には理解しずらい場所に 白亜の殿堂 のように建つ。

生駒ビルデイング

2023/03/04 08:19:47

生駒ビルデイング

関連リンク

宗兵蔵氏の設計によるもので、屋上の時計塔や振り子のデザインが施された出窓や丸窓、入り口2ヶ所とショーウィンドウ5ヶ所の計7ヶ所に据えられた鷲の彫刻などが目を引く。入口正面のイタリア産大理石を使った階段やステンドグラス、スクラッチタイル(手掻きの縦縞模様のタイル)の壁面などにも歴史が漂う。営業時間内であれば、見学も可能。国の登録有形文化財に指定されている。

高麗橋里程元標

2023/03/04 08:23:15

高麗橋里程元標

江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。

大阪市HP転記

大和田街道

2023/03/04 08:41:39

大和田街道

大和田街道は明治41年12月に竣工した西成大橋が、大正15年淀川大橋の竣工に伴い撤去されるまでの街道名称で、当時の国道2号線であり、阪神間を直結する最重要路線であった。街道の起点は難波橋北詰(北区)で、西成大橋を渡り、新淀川右岸堤防道から姫島郵便局・遍満寺前を通り大島橋を渡る。ここから大和田に入り西折斜行して新千船橋から出来島に入り千北橋を渡る。そして佃を横断して左門殿(さもんど)川南堤に至り、辰巳橋から終点の大物(尼崎市)に達する経路であった。
西淀川区誌転記

福島聖天通商店街

2023/03/04 08:44:09

福島聖天通商店街

この通りは大和田街道・梅田街道と呼ばれる交通の要所で大坂から尼崎方面への街道でした。
西天満-堂島-梅田-出入橋-浦江聖天-海老江-大和田-佃(江戸に移った佃ですよ)-尼崎大物町この浦江聖天がある場所がこの福島。聖天通りの北側に了徳院というお寺があり、そこに今でも聖天様が祀られています。
菅原道真公、水野南北などゆかりの場所として繁盛してまいりました。このような歴史を背景に文化の香り漂う地域の輪を広げていきたいと思っています。
また、杜若(かきつばた)の名所だったようで、かの芭蕉も訪れて一句残しています。
福島聖天通商店街HP転記

福島聖天通商店街

2023/03/04 08:44:19

福島聖天通商店街

聖天通商店街は全長300m程度の直線的な商店街です。飲食店から整骨院まで多種多様な店舗が軒を連ね、地元の人から買い物客まで幅広いお客さんに親しまれています。
福島聖天通商店街HP転記

レトロチックです。

福島聖天

2023/03/04 08:45:39

福島聖天

由緒について;大阪夏の陣・冬の陣を描いた図に了徳院の名が見える。江戸時代以前の建立である。 当地は所謂八十島の地域であり、往古は海中、後に海岸となり、浦江の地名だったので古くは浦江聖天と呼ばれていた。今や本尊扱いの聖天尊(十一面観音菩薩)は海の中から漁師の網にかかり、上がってきたものと「しおり」にはある。 真言宗東寺派の寺院である。開山年代は不詳だが、中興開基の宥意上人が元文元年(1736)に高野山より来山し、堂宇を完成した。大阪大空襲で山門以外は焼けてしまったが、戦後近隣の協力もあり、再建されてきたもの。本尊は准胝観音であるが、江戸時代中期からの北の新地の発展と共に”聖天さん”として親しまれてきた。准胝観音 は心の働きを清浄にする仏で、また安産、子授けの功徳もあり、水神ともされる。歓喜天は大聖歓喜双身天王と云われる。インドの智恵の神・学問の神ガーネシャであるが、後に延命・敬愛・福徳・除災の神として信仰されるようになった。

大和田街道

2023/03/04 08:51:20

大和田街道

この街道は 北区西天満一丁目を起点とし 福島区 西淀川区を経由して尼崎に通じる明治期の物質流通道路であった
起点から西進し 堂島 梅田 出入橋を経由し かきつばたで有名な浦江の聖天の南を通り 珍しい神事が残る海老江の八坂神社のかたわら 国道2号沿いを北に進み 淀川を渡る 姫島神社を右にみて 大和田を通り 佃漁民ゆかりの地の佃を経由して 尼崎市大物町に至る 街道は 古くから阪神間を直結する重要路線の一つとして 西国往来の人や 尼崎 西宮 兵庫の商人など行き来する人が多かった
平成13年 大阪市

海老江八坂神社

2023/03/04 08:54:36

海老江八坂神社

当社の年中行事の神事に、頭屋(とうや)行事があり、大阪府選択の無形の民俗資料に指定されている。12月15日の日没後、特定の男子氏子で構成される司祭組織の宮座の者が頭屋に集まり、12か月の収穫を表わす供物をつくり、神前に献じる祭事である。これは古くからの祭事を、厳格に伝承する貴重な例である。
大阪市HP転記

淀川を渡る。

2023/03/04 08:59:47

淀川を渡る。

関連リンク

かつての淀川は現在の川より狭かった。

大和田街道 姫島

2023/03/04 09:05:02

大和田街道 姫島

淀川を渡り 古い町家を道は進む。

奥山家住宅主屋

2023/03/04 09:06:51

奥山家住宅主屋

関連リンク

姫嶋神社

2023/03/04 09:10:03

姫嶋神社

関連リンク

可愛らしい御朱印が人気です。

判官松の碑・新千船橋親柱

2023/03/04 09:27:30

判官松の碑・新千船橋親柱

新千船橋の親柱があります。
大和田川の新千船橋に架かっていた鉄橋は、初代心斎橋の鉄橋。
1928年、新千船橋として転用され、1971年に撤去。
現在、鶴見緑地西橋に再移設。

大和田の船溜まり

2023/03/04 09:32:04

大和田の船溜まり

戦国期このあたりには 大和田城が築かれていました。
古いころ期には
大坂本願寺より大和田に出城を構え、下間しもつま某を入置。軍兵を出し郷民を悩乱す。天正三年三月荒木村重大和田城へ押寄、攻崩追打して総構天満迄打破」とあります。大和田城は海に面した海城で、毛利水軍からの防衛で築かれたと考えられています。
船溜まりはそのころからここにあったのかも知れない。

佃

2023/03/04 09:35:35

関連リンク

江戸時代になると、佃の漁民は毎年11月より翌年3月まで江戸に行き、将軍家に白魚の献上をするようになった。漁民は江戸との往復が大変だとして、江戸在住を願い出た。幕府はそれを受け、江戸鉄砲洲の百間(約180m)四方の干潟を漁民に与え、1645年に佃村と大和田村の計34人が江戸に移住した。江戸の土地は故郷の名前をとって佃島と名付けられ、現在の東京都中央区佃となっている。

ウィキペディアより一部転記。

ユニチカ記念館

2023/03/04 09:42:33

ユニチカ記念館

関連リンク

着船橋跡

2023/03/04 09:49:04

着船橋跡

関連リンク

大物主神社

2023/03/04 09:52:31

大物主神社

関連リンク

汁醤油発祥之地

2023/03/04 09:53:06

汁醤油発祥之地

関連リンク

阪神電鉄旧尼崎発電所

2023/03/04 09:56:35

阪神電鉄旧尼崎発電所

関連リンク

尼崎城 現在

2023/03/04 09:58:36

尼崎城 現在

関連リンク

五社神社

2023/03/04 10:10:51

五社神社

関連リンク

尼崎街道は最も海よりを進む街道です。

中島 住吉神社

2023/03/04 10:16:23

中島 住吉神社

関連リンク

新淀川 かつての尼崎街道の跡

2023/03/04 10:23:01

新淀川 かつての尼崎街道の跡

対岸の水門辺りに向かってかつての尼崎街道は伸びていた。

こちら側 大阪市内 の尼崎街道

2023/03/04 10:33:34

こちら側 大阪市内 の尼崎街道

明治期の新淀川開削は一体を大きく変貌させました。
北西島、南酉島、北酉島といった地域が川底に沈みましたし、数多くの旧河川が埋め立てられています。

西念寺

2023/03/04 10:35:51

西念寺

「大化元年(645年)天竺南山道宥律師の教伝により、法道仙人が仏法伝導道場を建立されたのがはじまりという。
中世には摂津伝法の船寺として信仰を集め広大な寺領を持ち、摂・河・泉・三国の四大本山の一つとして栄えたという」

西念寺の前に道標がある、土編の 大坂 となっているので江戸期の物である。

尼崎街道

2023/03/04 10:37:21

尼崎街道

古い町家がわずかに残り街道風景を醸している。
この辺りは阪神電車伝法駅が最寄りになります。

澪標住吉神社

2023/03/04 10:41:12

澪標住吉神社

社伝によれば、延暦23年(804年)遣唐使の航路安全を祈願して祭壇を造り、一行の帰路を迎えるため澪標を立てたのがはじまりという。当地が伝法口として賑わうとともに、土地の守護神・海上交通安全の神として社殿境内も改まり、今もその面影を留めている。

此花区HP転記

鴉宮

2023/03/04 10:43:28

鴉宮

建保3年(1215年)海運に従事していた人たちが、港の繁栄を願い土地の鎮守神として伝母頭(もりす)神社を創建したのがはじまりという。秀吉が出兵の際に3本足の鴉が先導、海路平安であったところから本宮鴉宮と改められたと伝えられる。
此花区HP転記

初代大坂船奉行所跡

2023/03/04 10:49:34

初代大坂船奉行所跡

元和6(1620)年、幕府は四貫島村に船奉行所を設けた。西国諸国から大坂に向かう船は、伝法川から逆川を経て大坂市中へ向かったため、幕府は諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向をここで監視した。平成23(2011)年に、六軒家川に架かる朝日橋のたもとに、「初代大坂船奉行所跡」の碑が建立された。

 貞享元(1684)年、河村瑞賢が安治川を開削。舟運の便が改まり、大坂へは直接、安治川へ出入りするようになったことで、伝法川を経由するものが減少した。幕府は貞享2(1685)年、四貫島と木津川口にあった船番所を廃止、新たに九条村本田の北端に、「川口船手奉行所」を置いた。
此花区
HP転記

安治川口

2023/03/04 11:28:47

安治川口

宮本輝の小説「泥の河」に出てくる 親子が暮らす小舟は このあたりにあったんだろう。

かつては安治川橋が掛かっていた、このあたりで 尼崎街道は終点となる。

雑喉場魚市場跡

2023/03/04 11:35:51

雑喉場魚市場跡

堂島米市場・雑喉場魚市場・天満青物市場は大坂の三大市場と呼ばれ、「天下の台所」を支え、その名に相応しい賑わいであったといわれ、江戸時代に出版された『浪華の賑ひ』や『摂津名所図会』からも、窺い知ることが出来る。

大和田街道 尼崎街道 はそれらの市場からの幹線道路であったわけだ。

勝間街道

2023/03/04 11:56:16

勝間街道

江戸時代に栄えた、難波から木津を経て粉浜中在家で紀州街道と合流する。

紀州街道は参勤交代の路でもあり不自由な点もあったんだろう、こちらの道を使うことが増えた様子。

勝間街道

2023/03/04 11:57:19

勝間街道

国道が開かれるまで、昭和初期 産業用道路とし活躍した。

古い長屋や商店街が多くあり、レトロチックなたたずまいが今に残る。

勝間街道

2023/03/04 12:07:46

勝間街道

こような個性的な店は大阪でもデープな西成に来ないと見れない。

勝間街道 終点

2023/03/04 12:13:38

勝間街道 終点

勝間街道は中在家 住吉大社の北   で紀州街道と合流して終わる。

2023/03/04 12:26:34

住吉公園 梅

かつての住吉大社の表参道は大阪湾を渡ってきた海神たちが通った道で汐掛道と呼ばれる海から続く一直線の道でした。

今では公園になり 花が楽しめる 市民の憩いの場 になっています。