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開始日時 | 2022/08/15 05:56:38 | 終了日時 | 2022/08/15 12:57:57 |
水平距離 | 87.38km | 沿面距離 | 87.49km |
経過時間 | 7時間01分19秒 | 移動時間 | 5時間07分26秒 |
全体平均速度 | 12.46km/h | 移動平均速度 | 16.96km/h |
最高速度 | 36.29km/h | 昇降量合計 | 672m |
総上昇量 | 336m | 総下降量 | 336m |
最高高度 | 87m | 最低高度 | 0m |
2022/08/15 06:20:30
坐摩(ざま)神社の末社として、坐摩大神(いかすりのおおかみ)を祭神としているほか、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)、白髭大神(しらひげおおかみ)も祀っています。
大祭として、元旦祭、春祭、夏祭、秋祭があり、特に7月21日、22日の夏祭は布団太鼓の巡行がにぎやかに行われています。神社前公園には大阪大空襲(昭和 20年3月13日)による犠牲者の供養塔が昭和52年(1977年)に建てられ、再び戦争をしないとの願いと平和への祈りが込められています。昭和60年(1985年)には、無縁仏の供養のため五輪塔が建てられました。
祭神 坐摩大神(いかすりのおおかみ)猿田彦大神(さるたひこおおかみ)
大阪市HP転記
2022/08/15 06:29:21
当社の具体的な創建時期は不詳となるが、かつて、狐に荷物を盗まれてばかりしまう源三という堺の魚屋がおり、その源三が紅染の手拭いを祠前に供え、「これ以上、狐に荷物を取られない様に」と祈願したことから「赤手拭稲荷」と言われているという。
祭神
豊受大神(とようけのおおかみ)
天宇受売神/天鈿女神(あめのうずめ)
大山津見命/大山祇神/大山積神(おおやまつみ)
猿田彦神(さるたひこのかみ)
宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみたま)
2022/08/15 06:56:56
神津神社は明治42年(1909年)に、旧神津村の小島(こしま)、木川、野中、新在家(しんざいけ)、堀上(ほりがみ)、今里、堀の七ヶ村の氏神を小島村(現在の十三東)の村社八幡神社を中央適当地として合わせてお祭りしたものです。
小島村の八幡神社は、今より四百数十年前の天正年間(1573~1592年)に祀(まつ)られていたことや、江戸時代に四度の再建がなされたことが、昭和4年の改築に際して現れた棟札(むなふだ-木の札に神名などを記し、建物の安全を願い屋根裏などにお祀りしたもの)より分かっています。しかし、詳しいことは不明で、恐らく水害や戦災(昭和20年3月の空襲により境内建物のほとんどは消失)などにより古い記録等が失われたものと思われます。
祭神
応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
猿田彦神(さるたひこのかみ)
2022/08/15 08:13:07
創立・沿革;不 詳
御祭神;猿田彦神
現在は豊川との地名になっていますが、古い地図には道祖本との地名で地図の年代によっては西道祖本との字名があるくらいなので、村の結界地点であったのでしょう。
道祖神とは、辻や村の境目などに建立して、村の外からやってくる悪霊を防ぎ、交通・移動の安全を守るも神さまなので、村はずれあたるこの場所に祀られたのではないか?
2022/08/15 08:50:48
道祖神社(塞神(さいのかみ)神社)と境内社に水(すい)神社がありますよ?!道祖神社は沢良宜郷が解体されたあと、浜村の鎮守社として創建されたとのこと。
野良猫が社の留守番をしていた。
2022/08/15 08:51:18
2022/08/15 09:45:59
当神社の創建時の記録は現存しておりませんが醍醐天皇の御代延長五年(九二七年)に選定された延喜式神明帳には河内国讃良郡鎮座と記載されており古くから当地域の産土神として崇拝されてきました。
国中と云う名の如くこの地域の中心として所謂る四神相応の御鎮座地として最適な処であった事が今日でも明白であります。
祭神
國常立尊、天照皇大神
猿田彦大神 (大正六年二月(一九一八年)逢阪村鎮座大上宮神社より遷座)
菅原道真公 (境内若宮社が寛永年間(一八五〇年頃)に倒壊したことにより合祀)
2022/08/15 09:46:47
2022/08/15 11:08:28
社の創建年代は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南三丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉
祀したのを始めとし、その後元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。
祭神
本社 三柱
稲倉魂大神(うがのみたまのおおかみ)
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
天鈿女大神(あめのうずめのおおかみ)
摂社 天津社(現在は本殿に合祀)
月讀大神(つきよみのおおかみ)
稚日女大神(わかひるめのおおかみ)
軻過突智大神(かぐつちのおおかみ)
下照姫大神(したてるひめのおおかみ)
摂社 笠縫神社
天勇蘇命(あめのそそのみこと)
天津麻占曽曽命(あまつまうらそそのみこと)
天津赤麻良命(あまつあかまらのみこと)
笠縫氏祖(かさぬいしのそ)
末社 御食津神社(榎稲荷神社)
豊受大神(とようけのおおかみ)
御食津大神(みけつおおかみ)
2022/08/15 11:11:05
深江稲荷神社は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。
慶長8(1603)年 豊臣秀頼が片桐市正、加藤左馬介に命じ、社殿が改築されましたが、慶長19(1614)年に兵火により消失、その後、宝暦10(1760)年に本殿及び絵馬堂を再興し、寛政8(1796)年に本殿・拝殿に修理を加え、同時に石鳥居が再建されました。
文化14(1817)年9月本殿・拝殿に修理を加え、明治25(1892)年11月拝殿を改築し、幣殿が新築されました。また、明治5(1872)年に村社に列せられました。
昭和47(1972)年、大阪府教育委員会から大阪府史跡「摂津笠縫邑」に指定され、平成3(1991)年、神社本庁より神社振興対策のモデル神社に指定されました。平成5(1993)年に本殿・拝殿・社務所等が改築されました。
掲示板転記
2022/08/15 11:46:37
山阪明神または田辺神社とも、言われていました。
田辺氏は元来、西国から移動した渡来系氏族で、現在の柏原市に拠点を持ち大いに栄えた一族であり、その分家がこの地に移住して自らの祖先神を祀ったとされます。
地名の田辺も田辺氏に由来するとされています。
2022/08/15 11:50:32
祭神
荒川稲荷神社 宇賀御魂神
八日戎社
伊勢神宮遥拝所
素釜三賽荒神
楠社 楠大明神
土公社 猿田彦
2022/08/15 12:21:04
船玉神社(ふなたまじんじゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉の住吉大社の境内にある神社。参拝すれば、住吉大社とは別に御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 住吉郡「船玉神社」に比定される式内社(小社)。
天鳥船命(あめのとりふねのみこと)・猿田彦命(さるたひこのかみ)を祀る。天鳥船命は天上との交通、すなわち大空の船の守護神であり、猿田彦命は天孫降臨の際に先導を果たした神。
2022/08/15 12:20:39
祭神
天鳥船命
猿田彦命
2022/08/15 12:39:38
徳川家康より鉄張の大筒を作ることを命ぜられた理右衛門は、銃身約3メー トル、口径約39センチメートル、砲弾重量約 5.66キロの国内初の鉄製大筒を製造して献上している。1614年、大坂冬の陣に際して、徳川家康から500挺の鉄砲を急いでつくるように命じられ、それに応えた功績により近隣の高須の地を賜り高須の地には、1681年に芝辻家により高須神社が創建されている。
掲示板
2022/08/15 12:40:21
祭神
保食命 配祀 猿田彦命、大宮姫命、大物主命
2022/08/15 12:50:35
堺市三宝西一帯総氏神田守神社の御神容は、皇祖天照皇大神を始め、生野魂大神、八幡大神、春日大神、住吉大神、猿田彦大神、豊受比売大神等七柱を御本殿に、合祀他に摂社として若松稲荷大神を祀り、末社として厳嶋社、茅淳宮社、籠守宮社、波除不動尊社を祀り、今を去る凡そ約三百年前、即ち延享2年(1745)8月御鎮座されましてより此の地開発の祖神として、公武庶民の崇敬篤く、弘化4年12月氏子崇敬者の莫大なる浄財を以って神域社殿結構壮麗に御造営され、由緒正しく又皆様方の最も親み深き神社であります。その後此の地方度々水害の災を受けるに依り大和川堤防築造拡張工事に伴い、昭和37年10月御社殿を現在の所に移転改築御遷座申し上げ今日に至る。
田守神社のチシャノキ
指定天然記念物
堺市指定保存樹木第1号
神社HP転記
2022/08/15 12:53:26
田守神社境内には、大小の小判型若しくは丸石15個が、江戸時代から明治時代もかけて並べております。かつての村人達が、力自慢をして持ち上げた記念に奉納したのが力石と云われております。なぜ、力自慢をしたかというと、三宝地区は、大和川付け替え後、上流から運び出されてきた土砂で洲ができ、排水路の開削と土盛りの重労働の繰り返しで川の機能を保っていました。台風や高潮が来れば、砂洲が何度も何度もできます。それをまた取り除く作業の繰り返しですが、その安全と高潮の災害を避ける思いから「波除明神」を奉って、一心に祈願する一方、重労働を支える力を競争したイベントに力石を用いた歴史があります。
神社HP転記