泉州の巡礼道を走る。中高野街道 西高野街道 探訪

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2022-08-13 05-41

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2022/08/13 05:41:30終了日時2022/08/13 09:31:28
水平距離54.82km沿面距離57.05km
経過時間3時間49分58秒移動時間3時間14分25秒
全体平均速度14.88km/h移動平均速度17.51km/h
最高速度95.70km/h昇降量合計1453m
総上昇量659m総下降量794m
最高高度164m最低高度-6m

レポート概要

日本の巡礼は、平安時代の中頃から始まったと言われます。
当時、観音信仰が盛んだったので、西国33観音の霊場が生まれました、当初の巡礼者は宿などが整備されていない時代で有ったので貴族階級等の特権階級の人しか行けななかったでしょう。
一般の人たち(ブルジョワ階層ですが)の巡礼は室町時代あたりから盛んとなり、庶民(やじさん きたさん )に広がったのは江戸時代からです。

江戸時代は政府が庶民をやかましく縛り付けていた時代でしたが、寺社参り(巡礼)のみは許されていましたので、人々は巡礼という名の旅を楽しんだ様子です。

大阪南郊で有名な巡礼道は何かと言うと、住吉街道(紀州街道)、熊野街道(小栗街道)、水間街道、西国巡礼道(施福寺から葛井寺)伊勢街道(竹内街道 長尾街道)高野街道(東高野街道 中高野街道 下高野街道 西高野街道)辺りがメジャーとなります。
中でも高野街道は別格でその数も多く存在しています。
夏の暑い日、中高野街道と西高野街道を走ってみました。

高野街道は狭山と高野山を結ぶ街道ですが、河内長野で東と西の高野街道に分かれ、さらに西高野街道は狭山より北に3つの街道に分かれており、それぞれは堺に向かって西高野街道、天王寺に向かって下高野街道、平野に向かって中高野街道(上高野街道)と呼ばれています。


中高野街道(旧称「上高野街道」)
平野(杭全神社西の泥堂口)から南進し、瓜破を経て大和川の高野大橋(江戸中期まで橋がなかった)を渡り、阿保の茶屋では、堺東を東に向かう長尾街道と交差し、岡で竹之内街道と交差し、東野(菅生神社付近)を南下し、狭山池尻から、池の東側を南進し、半田をほぼ北から南に縦断して、茱萸木で西高野街道と合流します。

下高野街道
天王寺(大道)から矢田地区の中央を通り、下高野橋で大和川を渡って南下します。
堺市北野田を経て、狭山の池尻から、池の西側である池之原を通り、今熊で西高野街道と合流します。

西高野街道
西高野街道は、平安時代から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には大阪、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道としてにぎわいました。
 現在、西高野街道の起点は、堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間には安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立された13基の里石がほぼ1里(4キロメートル)ごとに建ち、堺・榎元町の一三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、すべて現存しています。

写真レポート

紀州街道 安立の家並

2022/08/13 05:49:16

紀州街道 安立の家並

町の中心を旧紀州街道が貫き、現在も道筋がそのまま残っている。住吉大社の近くから堺市との境界になる大和川にぶつかるまで続くが、主に安立二・三丁目に歴史を感じる町並が残っている。
住吉神社参拝のために整備されたことに由来することから住吉街道とも呼ばれていた。

住吉大社

2022/08/13 05:53:16

住吉大社

関連リンク

住吉大社は、神功皇后摂政11年 (西暦211年) に鎮座して以来、水都大阪の守護神として1800年にわたる大阪の歴史を見守ってきました。遣隋使や遣唐使の出航地であり、万葉集や住吉大社神代記にも歌われています。奈良時代、住吉の津から出航する遣唐使の海上の安全を祈り、江戸時代には、海上安全の守護としての信仰が広まり、運送船業の関係者から奉納された約600基の石灯籠が現存しています。

OMO7大阪 by 星野リゾート

2022/08/13 06:09:42

OMO7大阪 by 星野リゾート

いろいろ言われた 星野リゾート 新今宮 ですが、週末は満室で大成功らしいです。

いい感じのビルです。

四天王寺南大門

2022/08/13 06:18:55

四天王寺南大門

関連リンク

四天王寺は、聖徳太子が建立した日本最古の官寺で、南大門の前には「日本佛法最初四天王寺」と彫り込んだ石柱が立っています。

ここを起点にした街道はいろいろとあります。

ヒロポン酢??

2022/08/13 06:28:59

ヒロポン酢??

関連リンク

へっとなった看板訳はいろいろあるらしい。

杭全神社

2022/08/13 06:37:16

杭全神社

関連リンク

平安時代の初め貞観4年(862年)に坂上廣野麿の子当道が、素盞鳴尊を氏神として祀ったのが始まりといわれ、平野郷一円の守護神として信仰をあつめた。
第二殿第三殿は永正10年(1513年)造営の記録があり第一殿とともに重要文化財に指定されている。境内には、全国で唯一、連歌所が残っており、市の文化財に指定されている。また、大くすの木は、樹齢850年以上と伝えられ、府の天然記念物に指定されている。

中高野街道の基点はこの門前から始まる。

杭全神社前道標

2022/08/13 06:42:00

杭全神社前道標

杭全神社道標(竜田越奈良街道)と中高野街道の交差部にあたる杭全神社の参道道にある道標。


ふちい寺(藤井寺)
大峯山上
かうや山(高野山)

喜連環濠の古い家並

2022/08/13 06:50:06

喜連環濠の古い家並

喜連環濠地区。
環濠の名が示す通り、外敵からの攻撃を防ぐ水路に囲まれたエリア。その深さはかつて3mあったと伝わり、地区内にある如願寺は喜連城の本丸だったとも言われている。
江戸時代の国学者・本居宣長が記した「古事記伝」によると、喜連とは大陸からの渡来人・伎人(くれびと)がなまった地名とある。

喜連 馬倉地蔵尊

2022/08/13 06:51:23

喜連 馬倉地蔵尊

南へ馬場先・馬場口と続く古字名は当地が喜連城の大手前に当ることを語る。地蔵堂の横に馬繋ぎ場があった。環濠はここで石垣の桝形を成し中高野街道に馬場先橋が架っていた。街道より広い馬倉~鳥居間の道は江戸期より幅7間長さ80間の馬場だった。

喜連 馬倉地蔵尊

2022/08/13 06:51:49

喜連 馬倉地蔵尊

高野大橋

2022/08/13 06:57:46

高野大橋

高野大橋

2022/08/13 06:57:50

高野大橋

大阪から高野山方面に通じる中高野街道が大和川を越える地点に橋が架けられたのは、明治の初めのことである。地元の人々がお金を出し合って架けた私設の橋であった。お金を集めるためにかなり広い範囲に寄付を募る文書が配られたと想像される。

 この橋は定まった名前がなかったようだが、大正の頃には高野大橋と呼ばれるようになっていた。高野大橋が近代橋になったのは昭和29年のことである。府道守口平野線の整備にともなって、従来よりおよそ200m下流に移して架けられた。橋は大阪府に管理されてきたが、その後大阪市に移管され、道路も府道住吉八尾線となり、南大阪の重要路線の一つになっている。

松原屯倉神社

2022/08/13 07:02:59

松原屯倉神社

地にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、同社は、のち依羅三宅天満宮ともよばれるようになりました。

本殿には神像として菅原道真像が安置されています。 総高 99.7センチメートル、総幅128.3センチメートル、膝張78センチメートルの等身大です。体部は近世の作ですが、挿首形式の頭部は南北朝時代の古様を示しています。

天神信仰の広がりにつれ、屯倉神社には道真に関わる伝承品が多く残されています。近世の近衛信尋自画賛の渡唐天神像、後陽成天皇の手になるという菅原道真画像、近衛基煕筆の「南無天満大自在天神」名号などは代表的なものです。

松原市HP転記

阿保の辻

2022/08/13 07:09:40

阿保の辻

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河内松原駅から北へ、にぎやかな通りを少し行くと、東西を走る道と交差します。南北の道は、平安時代以降、高野山(和歌山県)方面に向かい、中高野街道とよばれています。一方、東西の道は七世紀ごろには敷設されていたらしく、近代以降、長尾街道の名が定着してきました。

この四つ辻は、古代以降の重要な街道が交差する要衝の地で、江戸時代、長尾街道の南は丹北郡松原村上田で、北側は阿保村でした。もっとも、上田の本村は今の河内松原駅の南側で、阿保村の集落も阿保神社周辺にかたまっていました。

松原市HP転記

竹ノ内街道と中高野街道の交差点

2022/08/13 07:17:27

竹ノ内街道と中高野街道の交差点

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竹内街道(たけのうちかいどう)は、松原市域南部を東西に横断する街道です。詳細なルートはよくわからないところもありますが、旧堺町方面から南東斜めに下ったあと東進し、二上山と葛城山の間の竹之内峠を越えて葛城市の長尾神社に至ります。

中世から近世において、商業都市堺や浪速を中心とした産業の流通や人々の伊勢詣や熊野詣、高野詣などによって発展した街道と考えられ、明治時代まで、中高野街道との交差点付近などは、御茶屋などがあってたいへんにぎわったそうです。その起源については、古代にまで遡って、「大津道」、「丹比道」などと呼ばれた官道に比定する説もあります。

松原市HP転記

狭山藩北条家陣屋跡

2022/08/13 07:40:26

狭山藩北条家陣屋跡

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戦国大名として名高い北条早雲の子孫が、江戸時代に一万石の大名として狭山池のほとりに陣屋を構えました。陣屋内には藩主の御殿を中心に家臣たちの屋敷が配置されました。陣屋はメインストリートである大手筋が南北に貫いており、これを基準に街並みが造られています。

 今回の調査では大手筋の一部と大手筋に面して建つ家老屋敷を区画する溝がみつかりました。南側の調査区では、大手筋の西側に道路の盛り土の土留めをする「瓦積遺構(かわらづみいこう)」が確認できました。北側の調査区では、溝の西肩に「石組遺構(いしぐみいこう)」が見られました。

 さらに溝の屋敷地側には、溝にそって柱穴が一列にほぼ等間隔で並んでいます。おそらく、屋敷地を囲う塀が巡らされていたものと考えられます。狭山藩陣屋の変遷を考える上で大変貴重な成果を得ることができました。

 さらに北条氏の家紋としてよく知られている三つ鱗紋(みつうろこもん)の軒瓦が出土しています。

大阪府HP転記

中高野街道の古い道標

2022/08/13 07:44:23

中高野街道の古い道標

西高野街道との合流部

2022/08/13 08:04:41

西高野街道との合流部

中高野街道と合流する楠町の交差点には常夜燈が建ち、地蔵が祀られて走って来た西高野街道で、右は大阪平野を起点にする中高野街道です。

 ここには 「四国八十八ケ所遥拝道の石碑などが建ち、旧街道の雰囲気を残すところである。
またこの一角に、高野街道や合流地点を解説した案内板がある。

中・西、高野街道と天野街道の合流部

2022/08/13 08:06:12

中・西、高野街道と天野街道の合流部

このあたりで、天野街道 西高野街道が分枝している。

天野街道はほぼ200年前の街道の面影を色濃く残す、往時の面影が残る巡礼道。

西高野街道里道標石  十一里石

2022/08/13 08:24:48

西高野街道里道標石  十一里石

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高野山に参る道には、初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる東高野街道が発達しました。その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る中高野街道と堺から狭山を経て河内長野に至る西高野街道が開け、江戸時代(1603?1867)には大変賑わいました。

また江戸時代末には西高野街道には旅人の便宜をはかるために一里ごとに道標石が堺から高野山の女人堂まで13基建てられました。

河内長野市HP転記

現在の西高野街道の道標

2022/08/13 08:30:23

現在の西高野街道の道標

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関茶屋の十二里石

2022/08/13 08:41:38

関茶屋の十二里石

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13本の里石道標の建立を発起(発願)したのは、河内、茱萸木村(現大阪府狭山市)の百姓人・小佐衛門・五兵衛の二人ですが、その素性は全くわかりません。
 里石の石材は花崗岩で、高さは地上より約150cm前後、幅24?位の直方体の四面に、女人堂までの里数、建立年月、発起人両名の名、施主(建立寄進者)名、そして「南無大師遍照金剛」と刻み同じ形式でつくられています。施主はすべて河内国の人々で、一人で寄進したもの、複数の人によって建立したものとさまざまです。発起人の地元茱萸木村の十里石は、両名に敬意を表してか「村中」によって建立しています。
 小佐衛門と五兵衛がどのような方法で勧進したのか不明ですが、堺市関茶屋の十二里石は四人の世話人で浄財を集めて建立、橋本市東家の四里石は一族中で建立するなど、施主名から勧進の方法を推測することができます。

河内長野市HP転記

西高野街道 竹ノ内街道 分枝点

2022/08/13 11:47:03

西高野街道 竹ノ内街道 分枝点

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