中国大返しをライドル(その1)

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2020-11-14 07-37

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2020/11/14 07:37:45終了日時2020/11/14 15:50:07
水平距離106.58km沿面距離106.63km
経過時間8時間12分22秒移動時間6時間42分50秒
全体平均速度12.99km/h移動平均速度15.84km/h
最高速度41.26km/h昇降量合計1306m
総上昇量654m総下降量652m
最高高度179m最低高度2m

レポート概要

豊臣秀吉が天下人になるきっかけとなった本能寺の変とその後の中国大返しそして山崎の合戦での勝利は、講釈の題材にもされ太閤出世物語として庶民に好まれてきました。

中国大返しその1では、備中備前の旧街道を進み、宇喜多家の故地 沼城 を過ぎ山陽道随一の難所と云われた船坂峠をこして、相生を通過して秀吉安心の地 姫路までの道程を秋の好天が続く日に、秀吉軍が駆け抜けた旧街道をポタってみた。

本能寺の変が発生した当時は、秀吉に仕える軍師 黒田 官兵衛の故地である姫路まで進軍することを最大の第一軍事行動として進軍したことは間違いがないでしょう。
高松城攻めに従軍した秀吉方の軍勢は30,000程度であった、この人数を当時の狭い街道を移動させて二日で70数キロ移動するのは非常に高度な兵站の移動能力と指揮命令系統の充実を示している。(強い軍隊の特徴で現在も不変な価値)
(当時の街道の幅は一間から二間程度なので、3万人移動するのに計算方法にもよるがマージンを長く取ると36-56kmくらいの人の列ができる・・一所を通過するのに7-12時間以上かかるはず)
墨俣の一夜城の寓話にも見られるように、秀吉という武将は土木/建築/ロジスティクスの能力は抜きんでて優秀であった様子です。


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写真レポート

備中高松駅

2020/11/16 07:23:04

備中高松駅

岡山駅から吉備線に乗り換えて5駅目の駅備中高松駅に降りた。
この駅名の由来は地元にある城名である。

かつてはここから最上稲荷門前の稲荷山駅へ至る稲荷山線(2.4km)が分岐していた。
現在も最上稲荷への初詣参拝客の輸送対策として、12月31日・1月1日は当駅止まりの臨時列車が運行される。

この日乗車した電車は当駅で岡山方面に折り返す列車であった。

備中高松城本丸跡

2020/11/14 08:00:59

備中高松城本丸跡

備中高松城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀を形成していた。

羽柴秀吉による日本三大水攻めに数えられる「備中高松城の戦い」の舞台で、この戦いの最中に「本能寺の変」が起きたため、秀吉はここから有名な「中国の大返し」で近畿に引き返しています。

制海権を奪われ兵站を確保でき名でいた毛利側との和睦の代わりに、清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、城内の清掃などを家臣に命じ、身なりを整えた。その後、宗治ら4人は秀吉から差し向けられた小舟に乗って秀吉の本陣まで漕ぎ、杯を交わした。そして舞を踊った後「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句をしたため、自害した。他3人も次々と自害を遂げ、4人の介錯を行った國府市正も自刃した。秀吉は宗治を武士の鑑として賞賛した。

備中高松城全景

2020/11/14 08:11:24

備中高松城全景

関連リンク

近くの自治会館からの遠景。

低湿地の沼沢地の中に微高地になっている場所に城跡がある。
この地形をみて、水攻めにしようの発想も凄いがそれを実行する力が大したものだよ。

敵対する毛利側も堤防を築いて城を水没させるなんて、想像だにしていなかっただろう、そう云う意味に於いて秀吉軍は最先端の戦略を用意して実行できる軍隊であったと云う事だろうで、秀吉軍にとっては毛利側は一世代前の戦闘軍団であった。

蛙ヶ鼻堰堤跡

2020/11/14 08:15:55

蛙ヶ鼻堰堤跡

関連リンク

堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。
工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えた。
堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。高松城は孤島と化してしまった。

秋の紅葉

2020/11/14 08:50:05

秋の紅葉

岡山市街地に向けてバイクを走らせる。

岡山は30年前に赴任していた町で都合12年生活をした、戦友(家内)と子育てをした街である。
市内の造りは余り変わっていない。

なつかしさを感じながら街を流してゆく。

奉還町商店街

2020/11/14 08:51:52

奉還町商店街

関連リンク

江戸期から続く古い商店街。

昭和チックな商店街で、朝の早い時間帯でもあったのでほとんど閉まっていた。
30年前は今ほどイオンモールやビックカメラやドンキが無い時代だったので、買い物は表町の商店街かここ奉還町商店街だった。

子供の体育館シューズを買った店がまだあったりして懐かしさに鼻の奥がつんとなる。

岡山城(烏城)

2020/11/14 09:07:26

岡山城(烏城)

秀吉軍は岡山城には寄ったのだろうか?

中国大返しの際にも、わざわざ岡山城で1泊したとの説もある。
目当ては宇喜多直家の正室、おふくであったとされる。

女好きで有名な秀吉は、おふくを気に入っていた、この年宇喜多直家は亡くなっていた。
おふくは、お家安泰と幼少の秀家の将来を考え、秀吉に最高のおもてなしをしたと考えられる。

との意見もあるが、おそらくこの時期の宇喜多家を信用していないはずなので寄っていないだろう。

亀山城(沼城跡)

2020/11/14 09:49:10

亀山城(沼城跡)

この城は、備前国東半を支配していた浦上宗景に従う有力国侍である中山信正の居城であった。後に信正は、宗景の家臣であった宇喜多直家によって謀殺され、直家の居城となった。直家はこの城を拠点として備前国西半の支配権を達成する。直家が岡山城へ移った後は、舎弟の浮田春家の居城となった。

秀吉軍はここで宇喜多軍を残して東へ進んだとされる、秀吉側は宇喜多家をこの時期完全には信用していないはずで、安国寺恵瓊との密約で東に進んだが、万が一毛利が追ってきた場合のシンガリまたは捨て石にしたかったのだろう。
政治家やね

亀山城(沼城跡)

2020/11/14 09:51:14

亀山城(沼城跡)

ここも砂川の氾濫原である沼沢地の中にある丘を城郭にしてあるのがよくわかる。

西国街道を前にして、少し東には吉井川があり刀剣製作地である長船(武器製造所)もあり要衝の地点であることが伺える。

秀吉軍はここで宇喜多勢を後に東に進軍した。

吉井川を渡る。

2020/11/14 10:12:17

吉井川を渡る。

秀吉軍が東進した時期は今日の7月にあたり、梅雨時であったので渡河は苦労しただろう。

このあたり(東備の吉井川周辺と長船「福岡」付近)は黒田官兵衛にとっては彼の祖父 黒田重孝 の故地でもあり懐かしかった事でしょう。

因みに徳川時代九州北部「博多」へ領地替えをされた黒田家はかつての故地であった「福岡」の名称を持ち込んだとされる。

備前伊部

2020/11/14 10:34:11

備前伊部

日本六古窯の一つ備前焼の産地として有名な町、西国街道はその町中を通過する
街道の周辺には窯元やギャラリーが多く点在し、古き良き風情の残る町です。

毎年秋に開催される備前焼まつりには10万人もの焼き物愛好家の方たちが大勢訪れます。

まだ宇喜多家の勢力範囲なので先を急いだはずだ。

片上湊

2020/11/14 10:47:40

片上湊

古代から内海航路の要港として「かたかみ」の名が文献にもあらわれ、美作国の貢納稲をこの港まで運搬して船送りしていた時代もある。

天正10年(1582年)3月、備中高松へ出陣する羽柴秀吉は浦伊部の豪族法悦(来住家の先祖)の屋敷に宿泊し、帰路には片上から夜半舟に乗って赤穂に急ぎ、ここから陸路姫路城へ帰っている。

此処で二手に分けて陸路と海路で姫路に向かったのだろうか?
僕の想像ではほとんどの兵站は船で回漕しただろう、川船も使って摂津富田辺りまで一気に持って行ったはずだ。

船坂峠

2020/11/14 11:52:52

船坂峠

船坂峠は元弘2年(1332年)、元弘の乱に敗れて隠岐に配流される途中の後醍醐天皇(第96代天皇・南朝初代天皇)を、備前国の武士、児島高徳が奪回すべく決起した場所と伝わります。

船坂峠は国道2号線にあり、峠の頂上はトンネルとなっています。
とても自転車で塚通過できるよ云うな道ではありません。(怖くて)

かつての船坂峠があった西国街道は、現在は歩行者・自転車専用道路となっています。
国道から岡山側からは左にそれて行く道を取るとかつての西国街道が続いています、ここは昭和30年まで現役で使われていたれっきとした国道ですが、画像の通り60年使われないとこんなになります。

明治になって以前の西国街道を14メーター切通にして国道を開いたのです。

梨ケ原一里塚跡

2020/11/14 12:06:58

梨ケ原一里塚跡

梨ヶ原宿は三石宿・有年宿間の休憩所で宿屋や茶店がありました。
明治18年明治天皇がここに来られた時の記念碑も建っています。

船坂神社

2020/11/14 12:10:28

船坂神社

余りに銀杏が綺麗なので立ち寄りました。

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元弘3年(1333)春赤松則村苔縄城より打ち出で山の里梨の原の間に陣を取りし時、会々六波羅の催促によりて上洛せる備前、備中、安芸、周防の勢の中に伊東大和二郎なる者武家與力の志を変じて官軍合体の思いをなし祈誓の為、一社を勧請し以て赤心を籠めたり。之即ち今の船坂神社にして後醍醐天皇隠岐遷行の際、兒嶋高徳駕を船坂山に迎えんとして待ちつつ皇室の長久を当社に祈りたり。

 明治7年(1874)2月村社に列し次いで宿村大避神社を合祀し同11年(1878)8月社号を船坂神社と改称せり。同42年(1909)鼻塞神社、湯神社を合祀せり。
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中世の播州は赤松氏一色ですな。

有年峠への道

2020/11/14 12:17:03

有年峠への道

有年峠は現在は廃道に近く、地元の有志により手入れがされているそうですが、自転車で通過できるほどの甘い道ではないので、明治期に開削された鯰峠を越えて行く。

鯰峠で撃沈

2020/11/14 12:46:02

鯰峠で撃沈

鯰峠の国道二号線は自動車専用道路に近く車道を走ることは無理でした。

そこで国道に並走する歩道を走るのですが、車道との段差がなく車道の破片類が歩道に散乱していた。

いやだなと思いながら走っていると案の定  パンク した。

10分ほどでチューブを取り換えて、タイヤの中の異物を探したが?見つけられない・・
空気圧が8Kまで上がったので、修理を終了して走り出したが、これがこの後足を引っ張られた。

本陣跡井口家

2020/11/14 14:06:54

本陣跡井口家

近世の山陽道では正條の渡し近くに片島(間)宿,正條宿という二つの宿場があり,西国の大名たちは室津街道を通って北にあがり山陽道で姫路方面へむかっていたそうです。ここにはむかし本陣や脇本陣もあり,大名行列の一部や一般旅行者が泊まったり,休憩したりしていたそうです。


「明治天皇御駐輦趾」「明治天皇正條行在所」と刻まれた石標が建つ。

揖保川を渡る。

2020/11/14 14:09:07

揖保川を渡る。

近世の山陽道はたつの市揖保町から揖保川を渡り, 揖保川町原を通って 相生市那波野に抜ける道で,現在も町道としてつかわれています。この山陽道で揖保川を渡る時には渡し船が使われていました。「地水(ふだんの水の量)二文、中水八文、備水(大水のとき)十六文」という渡し賃を記した川札があったといいます。

秀吉軍は自力渡河しただろう。

コスモス畑

2020/11/14 14:21:36

コスモス畑

綺麗なコスモス畑が有ったので写真を撮った。

自転車を確認すると空気圧が落ちている?タイヤに小さな異物(ガラスかなにか)が残っていて悪さをしているのが解るが、移動中なので詳しくわからない。

携帯ポンプで圧を上げるが、経験上 持たない との判断が成り立つ。

明日も100k移動するので、ロードを扱うショップを考えるが、姫路に出ないとおそらく無いだろう。

姫路に一軒覚えのある店があるが、確かトレックの店だったような?まあ気にせずあと一時間持たせようか。

姫路城 埋門跡

2020/11/14 15:36:02

姫路城 埋門跡

埋門には外門と内門があったようですが、現在は石垣だけが残っています。高さは6メートルくらいあるでしょうか。

タイヤは今宿あたりのトレックショップに駆けこんでタイヤとチューブ交換と予備チューブを分けてもらった。

コンチのタイヤはGP5000しか在庫が無くて結構財布が軽くなった。

姫路城

2020/11/14 15:40:21

姫路城

秀吉軍はここで十分な休息をとった。

城にあった金と兵糧を全部将兵に分け与えて士気を鼓舞したし、これからやる仕事の説明もしただろう。

小才のある将兵ならここから始まる仕事が何を意味して自分に何をもたらすにのか瞬時に理解して胴震いしただろう。
足軽はその働き次第で騎馬武者へ・騎馬武者は己が采配の戦果で家老へ・働きが良ければ大名への道が開けると思うに足る前例(秀吉)が皆の前で恩賞を宣言したのだ。

欲に駆られた兵士は強い・・秀吉はここでした振る舞いでもって天下を取るに足る技量と器の大きさを示した事になるし、此処での振る舞いで後の山崎の合戦での勝とその後の天下取りへの賛同を手にしたと云ってもいいだろう。

姫路城夜景

2020/11/16 16:01:33

姫路城夜景

Go To キャンペーンで嘘みたいな宿代に地域振興券がついてくる。

ライトアップされた姫路城が町の夜景に美しく浮かぶ・・