どうする家康!最後のお仕事「大坂夏の陣」をめぐる。

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現在の軌跡: 12 08 2023 05:23

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2023/08/12 05:23:57終了日時2023/08/12 12:18:18
水平距離76.76km沿面距離76.81km
経過時間6時間54分21秒移動時間5時間31分41秒
全体平均速度11.12km/h移動平均速度13.81km/h
最高速度39.15km/h昇降量合計694m
総上昇量375m総下降量319m
最高高度101m最低高度-26m

レポート概要

大坂の陣とは、1614年の11~12月に行われた「大坂冬の陣」と、翌1615年の4~5月に行われた「大坂夏の陣」という大阪城の周辺を舞台に行われた2つの戦いです。

このうち大坂夏の陣では豊臣本家(羽柴家)と徳川家康が最終血戦となり、徳川家康が勝利したことで、豊臣本家は滅亡することになり、徳川家を頂点とする長い安定した政権が確立することになります。

この翌年家康は亡くなっていますので、何が何でも勝たなければならぬと思っていた事でしょう。
※豊臣家を一大名に格下げ出来れば良いとするのが家康の真意であった等の説が有りますが、戦国生き残りで尚且つ自分の息子と妻(築山殿)を弑したスーパーリアリスト「計算に希望的観測や信用の要素が入らない」の家康がそんな甘々な考えを持ったのかな?と思うのは私だけでは無いだろう。
翌年家康は亡くなりますが、死出の床で秀忠に「ざっとすみたり」と云っている記録があるので、何が何でも豊臣家を滅ぼす覚悟をもっていたはずです。
また秀忠に「戦国生き残り連中には注意しろ!」とも云っていますので、嫌になるくらいの「スーパーリアリスト」ですね。

豊臣方の有名武将は負ける戦であることは重々解っていたでしょうから、死出への花道と割り切っていたような感じがしますね。

今回は慶長20年「元和元年」1615年旧暦5/6-5/8にかけて戦われた
道明寺の戦い
八尾・若江の戦い
天王寺・岡山の戦い

の故地を巡る。どうする家康の最後の仕事の総仕上げ ですか。

写真レポート

誉田八幡宮

2023/08/12 06:28:57

誉田八幡宮

社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。

1615年(慶長20年)5月6日、大坂夏の陣「道明寺・誉田の戦い」では、大坂方の薄田兼相(すすきだかねすけ・隼人正)が陣を構え、この地より出撃して討死した。

誉田林古戦場跡

2023/08/12 06:29:30

誉田林古戦場跡

誉田八幡宮の付近は、南北朝、室町、戦国の各時代から江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため、再三戦場の舞台となった。
南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟と南朝方の楠木正行の間で合戦があった。
楠木正行は、金剛山を本拠として、摂津、住吉、天王寺近辺に出陣していたため、将軍足利尊氏が激怒して、細川顕氏を大将にした軍勢を河内に送った。
楠木正行は、金剛山から約30㎞離れた矢尾城を襲うと見せかけて、誉田八幡宮周辺に兵を潜ませて、合戦は後日かと油断した細川勢を急襲した。
太平記巻第25には、合戦の様子が描かれている。
室町時代中期の享徳年間には、畠山政長と義就の間で、何度か誉田合戦が繰り広げられた。
永正元年(1504)には、畠山稙長(たねなが)と義英の間で、合戦後の和議、「誉田八幡宮社前の盟約」が結ばれている。
大坂夏の陣では、豊臣方の武将 薄田隼人正が、誉田八幡宮境内に陣を敷き、当地から出撃して、道明寺近辺で討ち死にした。

大坂夏の陣道明寺合戦記念碑

2023/08/12 06:36:51

大坂夏の陣道明寺合戦記念碑

2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために建立された記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の歴史が大きく動いた戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だたる武将が戦いました。(藤井寺市観光協会HPより)

大坂夏の陣小松山古戦場跡

2023/08/12 07:01:20

大坂夏の陣小松山古戦場跡

大和方面から迫る幕府軍を河内平野の入口である国分村で迎撃すべく、後藤基次、真田信繁、毛利勝永らが出陣するも濃霧のため真田ら後続隊の到着が遅れ、幕府軍はすでに国分村に集結していたため後藤隊は単独で国分村を見下ろす要衝・小松山に布陣し、10倍を超える幕府軍と対峙。奥田忠次を討ち取り、攻め寄せる幕府軍を何度も撃退するなど奮戦しましたが、8時間に及ぶ激闘の末、負傷した後藤基次は吉村武右衛門の介錯により自刃しました。

後藤又兵衛基次奮戦之地

2023/08/12 07:13:17

後藤又兵衛基次奮戦之地

道明寺の戦いで後藤又兵衛がこの辺りで最期を迎え吉村武右衛門により介錯され首を埋められたらしい。碑は1969年に建てられた。

山口重信の墓

2023/08/12 08:07:20

山口重信の墓

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大坂夏の陣の1つである「若江の戦い(1614年)」で徳川方として戦い、26歳で討ち死にした徳川方武将・山口重信の墓。討ち取った相手が、豊臣方の武将・木村重成であることで有名。

「若江の戦い」における山口重信の武功によって山口家は再興。弟(次男)の弘隆が重信の33回忌である、1647年に建てました。
墓の周囲の玉垣は弟(三男)の重恒が、灯籠は家臣の山口忠兵衛が1654年に、花立ては甥の重貞(弘隆の子ども)が1692年に寄進して、今の形になります。
また、隣には木村重成の墓も立っていたということですが、紆余曲折を経て今は第二寝屋川を挟んだ南向いの公園に移動しています。

木村重成の墓

2023/08/12 08:10:13

木村重成の墓

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木村重成は大坂冬・夏の陣で活躍した大坂方の武将。関白豊臣秀次の臣木村常陸介重茲の子とも言われる。豊臣秀頼に仕え、1614年(慶長19年)大坂冬の陣では11月26日の今福・鴫野の戦いで功を上げ、1615年(元和元年)の夏の陣では5月6日の河内若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝の軍と相まみえ、奮戦むなしく戦死した。若干23歳であった。
 重成はこの若江戦いに臨んで、兜に香をたきしめていたということで、徳川家康を感動させたとの話が伝わっている。
 当地にある墓は1765年(明和2年)重成150回忌に当たって、重成を打ち取った彦根藩士安藤重勝の子孫安藤次輝が建立した。

木村重成の墓

2023/08/12 08:10:58

木村重成の墓

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重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれている。左隣りは山口左馬介(重成の妹婿)の墓。山口左馬介も重成と同日同地で戦死した。

若江の戦いでは豊臣方の木村重成、徳川方の藤堂良勝や山口重信らが戦死、八尾の戦いでは徳川方の藤堂高刑(たかのり)らが戦死しました。

 この戦いで多くの家臣を失った藤堂家は、常光寺に墓を造って菩提(ぼだい)を弔(とむら)っており、藤堂家が宝暦14年(1764年)に建立した墓碑(勢伊死事碑(せいいしじひ)の内容が『河内名所図会』に記されています。

 現在、若江の地で戦死した木村重成と山口重信の墓が第二寝屋川を隔てて南北にあり、『河内名所図会』の挿絵にも同じ配置で描かれています。中でも、亀の台座が特徴的な山口重信の墓碑は忠実に描かれています。

常光寺

2023/08/12 08:28:42

常光寺

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常光寺には討ち死にした藤堂家家臣71名の墓・位牌があり、この寺で法要が100・150・200・250回忌と江戸時代を通して執り行われています。

また、藤堂高虎が八尾の戦いを終えた後に方丈の縁で首実検をおこなった場所です。並べられた首の血がついた縁の板は、その後西廊下の天井板に張り替えられ、「血天井」と呼ばれています。

大阪陣戦没将士慰霊塔

2023/08/12 09:12:21

大阪陣戦没将士慰霊塔

慶長20(1615)年の大坂夏の陣で平野と共に奈良街道に沿った桑津も激しい戦場になり、
桑津天神社の南東隅の道路沿いに「大阪陣戦歿将士慰霊塔」と刻まれた供養塔が建っています。

夏の陣の際に 家康の本陣は何処にあったのか? は、あまりはっきりしてはいないようで 夏の陣の
布陣図を見ると、桑津・美章園・阿倍野、辺りでは無いかと思う。

大阪陣戦没将士慰霊塔

2023/08/12 09:12:59

大阪陣戦没将士慰霊塔

夏の陣で大活躍した 真田幸村 は家康の本陣めがけて大混乱に陥れたのでこのあたりまで
突っ込んで来たのかも知れない。

四天王寺南門

2023/08/12 09:29:22

四天王寺南門

四天王寺南門には毛利勝永隊を中心に浅井周防、結城権之助、竹田永翁、篠原又右衛門、石川肥後が布陣していました。

徳川勢の先鋒部隊も天王寺に集結して陣を構えると、毛利勢の前面には、本多忠朝(ほんだただとも)、榊原康勝(さかきばらやすかつ)、小笠原秀政(おがさわらひでまさ)、保科正光(ほしなまさみつ)、真田信吉(さなだのぶよし)、秋田実季(あきたさねすえ)、浅野長重(あさのながしげ)の各隊が布陣します。

真田幸村の本陣跡(茶臼山)

2023/08/12 09:36:26

真田幸村の本陣跡(茶臼山)

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冬の陣では家康が本陣を置いた茶臼山 夏の陣では 真田幸村 が本陣を置きました。

夏の陣では死出の旅立ち覚悟の討ち死玉砕戦法で行くと決めていいたでしょう。
家康もこれが最後の決選であることは重々承知であったからこそ十重二十重の陣形で望んで居りましたが・・

どうする家康 三方ヶ原以来の大混乱!!

2023/08/12 09:38:40

どうする家康 三方ヶ原以来の大混乱!!

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討ち死に覚悟の玉砕戦法で、真田幸村は  和田実季隊 松平忠直隊 水野勝成隊を ぶち抜いて次々と敵を蹴散らして徳川家康に迫りました。
そして、ついに家康の本陣に到達した、徳川の旗本衆は総崩れ。徳川家康は大パニックのまま逃げ出します。

このとき、徳川の旗印が倒れますが、そのような非常事態は武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来でした。

真田幸村は、逃げる家康を数里にわたってしつこく追いかけまわしました。あまりの恐怖から家康は2回も自害しようとしました。

安居天神

2023/08/12 09:41:59

安居天神

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徳川本陣に3回も突撃し、家康に自害をチラつかせるほど追い詰めた真田幸村でしたが、最後は力尽き、安居神社の境内にある松に腰掛けて休んでいるところを徳川方の西尾仁左衛門に発見され、「わが首を手柄とせよ」と言い残し、討ち取られた。

岡山の戦い

2023/08/12 09:55:51

岡山の戦い

大坂冬の陣及び夏の陣で、徳川家康の三男:徳川秀忠が本陣を置いた場所といわれています。

先鋒・前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20,000。
     二番手・井伊直孝、藤堂高虎勢計7,500。
     本陣・徳川秀忠23,000。

幕府方先鋒の前田勢は、豊臣方の大野治房勢によって敗れ、二番手の井伊・藤堂勢が動くも、これによって陣立てが崩れ、そこに大野勢に突かれることで秀忠本陣までも攻撃を受けることになりました。

 これにより本陣の土井利勝勢も敗れて大混乱となってしまいます。

 秀忠本人も槍を手に戦おうとするほどだったのですが、本多正信によって諌められたといいます。

 大野勢の攻勢に、秀忠は本陣を下げようとしましたが、立花宗茂がこれを止め、徐々に態勢を立て直した秀忠勢は大野勢を撃退し、反撃に転じることになりました。

真田幸村 緒戦勝利之碑

2023/08/12 10:09:35

真田幸村 緒戦勝利之碑

以下記事よりプレスリリースより

うえほんまちハイハイタウン 店舗等部会は、2014年秋、天王寺区開催の「天王寺真田幸村博」の共催事業といたしまして、大阪の陣・幸村緒戦勝利の地でもあるハイハイタウン館内空中に真田幸村公の巨大像が登場することを発表いたします。それに伴い、来る、10月26日(日)13時半より、水谷天王寺区長が先鋒を務め、お披露目式を開催いたします。
うえほんまちハイハイタウンは、お陰様で35周年を迎えました。
その記念事業として、当館の地が“真田VS徳川 大阪の陣 緒戦勝利の地”であることから、巨大像と石碑が建立されます。

という事らしい。

大坂城惣構外堀跡

2023/08/12 10:16:15

大坂城惣構外堀跡

秀吉時代の大阪城は周囲を惣構堀で取り囲み、防御していました。玉造の交差点から西へ延び、空堀商店街に沿う形で造られていたのが、南側の大外堀にあたる南惣構堀跡です。空堀は文字通り、水のない堀で、大坂冬の陣の和議条件で、徳川方に数日で埋められたといわれます。
1994年、上本町3丁目のビル建設工事の際、この堀と思われる落ち込みが確認されました。

遠目で見るとやや凹んでいますね。

ひかりのくにビル前にある豊臣期大坂城南惣構発掘調査の説明

2023/08/12 10:18:30

ひかりのくにビル前にある豊臣期大坂城南惣構発掘調査の説明

上町筋沿いのビルの敷地内に、発掘調査のプレートがあります。ビル建築時の発掘調査で南惣構堀の一部が発見されました。

ロビーにその時に掘り出された瓦が展示されているそうです。

大坂城

2023/08/12 10:32:14

大坂城

この日は観光客で大変でした。

秀頼・淀殿ら自刃の地

2023/08/12 10:34:39

秀頼・淀殿ら自刃の地

関連リンク

慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一角に大阪市の手により、この記念碑が建てられた。

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