真田幸村終焉の地を訪ねる。(外堀探訪と天王寺七坂巡り)

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20160110-141931(1)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2016/01/10 08:33:51終了日時2016/01/10 11:18:54
水平距離8.39km沿面距離8.99km
経過時間2時間45分03秒移動時間1時間58分12秒
全体平均速度3.27km/h移動平均速度4.56km/h
最高速度95.18km/h昇降量合計368m
総上昇量193m総下降量175m
最高高度77m最低高度6m

写真レポート

逢坂

2016/01/10 08:46:13

逢坂

今回のミッションは真田幸村終焉の安居天満宮を訪ね、天王寺七坂を廻り真田丸を観に往くものです。

まずは安居神社がある逢坂ですが、平安時代の頃には、坂の上り口にあたる現在の天王寺公園北口交差点あたりまで海であり、このあたりは「合法ヶ辻」と呼ばれ、のちに浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなった。

近代以前は馬車馬が音をあげるほど急な坂だったと伝えられ、道も狭く、事故多発地点だった。明治9年(1876年)に茶臼山観音寺の住職が寄付を集めて坂を切り崩して緩やかにする工事を行った。明治時代末期に大阪市電の第三期線建設に伴い、道路が拡張されてほぼ現在の姿になった。



安居天神社

2016/01/10 08:47:05

安居天神社

安居天神は、菅原道真が太宰府に左遷される際、船待ちのためしばしこの地で安らいだためその名が起こったとも、あるいは四天王寺安居院(あんごいん)がここにあったためともいわれている。境内は安井森とか天神森などと呼ばれた景勝地で、特に桜の季節には花見客で賑わった。錦絵の山裾中央やや右に見えるのが天王寺七名泉の一つに数えられた「安井」。当社境内はまた、大坂夏の陣最後の決戦で真田幸村が大奮戦の末、最後を遂げた地としても知られる。



真田幸村終焉の地

2016/01/10 08:49:51

真田幸村終焉の地

元和元年大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて、大阪城を攻めた、ここに於て大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防せがんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに、当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九であった。  掲示板



真田幸村像

2016/01/10 08:50:03

真田幸村像

真田幸村は40過ぎまで歴史に登場する事はなかったようだ、ある意味真田昌幸による英才教育を40年間受けた事になるのかも知れない。

大阪冬の陣において三度も家康の本陣を狙いその旗本衆を四散させた事は、彼が率いる兵が謂わゆる「死兵」であったことを差し引いても、日の本一の兵との評価になるだろう。



安居天神

2016/01/10 08:52:05

安居天神



天神坂

2016/01/10 08:56:35

天神坂

安居天神へ通じる坂道なのでこのように呼ばれている。この神社境内は大坂夏の陣に真田幸村が戦死したところで、本堂脇に「真田幸村戦死跡之碑」がある。
また、同境内すぐ下には七名泉の一つ、安居の清水があり、「かんしずめの井」(癇静め)とも呼ばれよく知られている。



天神坂(上方から)

2016/01/10 08:58:33

天神坂(上方から)



清水坂

2016/01/10 09:02:21

清水坂

新清水清水院に登る坂道をいう。高台にある新清水寺境内からの眺望は格別で、さらに境内南側のがけから流れ出る玉出の滝は、大阪唯一の滝として知られている。
また、この付近一帯は昔から名泉どころとして知られ、増井・逢坂・玉手・安井・土佐(有栖)・金龍・亀井の清水は七名泉と呼ばれている。



清水坂(上方から)

2016/01/10 09:00:47

清水坂(上方から)



料亭 浮瀬亭 跡

2016/01/10 09:02:53

料亭 浮瀬亭 跡

浮瀬(うかぶせ)亭は清水寺の北にあった料亭で、江戸時代の名所案内書『摂津名所図会』や『浪華の賑ひ』にも掲載されており、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも登場している。松尾芭蕉のほか、与謝蕪村、太田南畝(蜀山人)、滝沢馬琴などの有名な文人たちが訪れている。
芭蕉が訪れた頃は「晴々亭」と呼ばれていたが、「浮瀬亭」と呼ばれるようになったのは、あわび貝でつくった「浮ぶ瀬」という大盃(7合5勺も入る)をはじめ、種々の盃を秘蔵しており、これを飲み干した人は名誉として「暢酣帳(ちょうかんちょう)」に名前を記載したところから、その奇盃が有名になり、料亭の名前として呼ばれるようになった。



愛染坂

2016/01/10 09:05:37

愛染坂

その名のとおり、坂の下り口ある愛染堂勝鬘院から名付けられた。愛染さんの夏祭り(六月三十日)は大阪夏祭りの先駆けとして知られ、境内の多宝塔は市内最古(文禄三年)の建造物で、重要文化財と指定されている。
大江神社には「夕陽岡」の碑があり、このあたりからの夕焼けは今も美しい。



愛染坂(上方から)

2016/01/10 09:06:55

愛染坂(上方から)



愛染堂

2016/01/10 09:10:23

愛染堂

勝鬘院(しょうまんいん)は、大阪市天王寺区にある和宗の寺院。山号は荒陵山。本尊は愛染明王で、愛染堂とも呼ばれる。四天王寺別院、西国愛染十七霊場・第一番札所、聖徳太子霊跡・第二十九番札所。



愛染堂多宝塔

2016/01/10 09:12:07

愛染堂多宝塔

金堂の後ろにそびえ建つ多宝塔は、推古天皇元年(593)聖徳太子によって創建されました。その後、織田信長の大阪石山寺攻めの際に焼失しましたが、慶長2年(1597)豊臣秀吉により再建されました。
大阪市最古の木造建造物として国の重要文化財に指定されています。

非常にいい姿をしている。



愛染堂金堂

2016/01/10 09:16:15

愛染堂金堂

境内の中央に構える朱塗りの金堂は、推古天皇元年(593)聖徳太子によって創建されました。その後、織田信長の大阪石山寺攻めの際に焼失しましたが、徳川幕府二代目将軍・徳川秀忠の手によって再建された歴史ある建物です。



藤原家隆塚

2016/01/10 09:21:11

藤原家隆塚

藤原家隆は藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で七十九歳の時に官を辞してこの地に隠棲した。
その翌年の春の彼岸に此処の高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ
契りあれば なにわの里にやどりきて 波の入日を拝みつるかなと歌によみ、直に落髪して仏性と号し、その四月九日に消え入る様に一生を終えました。
この北隣の浄春寺は家隆の庵の後を寺としたと伝えられています。
夕陽丘の地名は、この歌の「波の入日」から出たものです。



清地蔵

2016/01/10 09:25:45

清地蔵

明治時代に陸奥宗光が20才で亡くなった娘の清の死を悼み等身の地蔵尊をこの地にお祀りしたものだそうです。

どこと無く はかなげな感じが  夭折した娘を忍ばせます。



口縄坂

2016/01/10 09:34:21

口縄坂

坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところから、この名が付けられたという。
 付近の浄春寺には、暦学者麻田剛立、画家田能村竹田、春陽軒には国学者尾崎雅嘉、太平寺には、医家北山寿安ら、江戸時代に活躍した先人の墓がある。また、梅旧院には芭蕉の供養碑もみられる。



口縄坂(上方から)

2016/01/10 09:31:49

口縄坂(上方から)

坂の上には、市教育委員会が建てた織田作之助「木の都」の文学碑がある(写真左側)。
 織田作之助は、大正2年(1913年)10月26日に大阪市東区東平野七丁目(現天王寺区上汐四丁目)で生まれ、33歳の若さで急逝した昭和を代表する作家のひとり。『夫婦善哉』『世相』などの大阪を舞台にした作品を数多く残している。



新選組 大坂旅宿跡 萬福寺

2016/01/10 09:41:05

新選組 大坂旅宿跡 萬福寺

新選組は幕末期、近藤勇に統括された京都を本拠とする武士集団で、京都守護職であった会津侯・松平容保(まつだいらかたもり)に所属し、政敵である長州毛利家の志士たちと戦い、元治(げんじ)元年(1864年)の池田屋事件、禁門の変などで大きな軍功をたてました。

その新選組は元々、畿内に滞在する将軍徳川家茂の護衛と大坂を含む長い海岸線(摂海:せっかい)の防衛に携わるため江戸より西上し、当初より将軍の大坂城滞在の時等は度々大阪に出張しています。
慶応元年(1865年)5月、将軍家茂の3度目の西上に合わせて新選組は大坂市中取締りを命じられており、その際に使用した宿所の一つがこの萬福寺だそうです。



源聖寺坂

2016/01/10 09:45:41

源聖寺坂

この坂は登り口に源聖寺があるので、その名を取っている。付近一帯は、寺町として長い歴史を持つ。
齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東?・同南岳父子の墓があり、銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代、半兵衛の比翼塚が建てられている



源聖寺坂(上方から)

2016/01/10 09:47:53

源聖寺坂(上方から)

坂道は古い石畳がそのまま残されており、最初は上り坂なのですが、途中から道が大きく曲がり階段になります。途中から階段になるため、車や自転車では通行できず、源聖寺坂につながる道路にはそのことを示す標識が立てられています。



生国魂神社

2016/01/10 09:55:21

生国魂神社

社伝によれば、神武天皇が九州より難波津に上陸した際、現在の大阪城付近(上町台地の北端)に生島大神、足島(たるしま)大神を祀ったのが創祀と伝えられ、後に、大物主大神が相殿神として祀られている。

中世に入り、1496年(明応5年)、本願寺八世蓮如上人が生國魂神社に接して『石山御坊(後の石山本願寺)』を建立したが、1580年(天正8年)織田信長に屈し灰燼に帰した。1583年(天正11年)豊臣秀吉が大阪城築城のため、社領を寄進し社殿を造営。1585年(天正13年)に現在の鎮座地に遷されたと伝えられている



生国魂神社北門

2016/01/10 10:06:02

生国魂神社北門

生國魂神社の北門前にある二基の常夜灯は、天満八軒家船着場にあったもので、万延元年(1860)の銘があります。

八軒家船着場が埋め立ての際に移転されたそうです。



真言坂

2016/01/10 10:08:00

真言坂

生國魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏毀釈まで神社周辺で栄えていた。うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院の六坊があった。すべて真言宗であったので、この坂は真言坂とよばれた



真言坂(下方から)

2016/01/10 10:09:08

真言坂(下方から)



高津宮

2016/01/10 10:17:32

高津宮

難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。



三下り半坂

2016/01/10 10:20:44

三下り半坂

高津神社にある「西坂」この坂は明治初期まで形状が三曲り半になっていたため、庶民の間で「夫婦や恋人の縁を絶つ」という意味で使われる「三行半・三下り半」と掛けて「縁切り坂」と呼ばれてきました。



大阪城外堀跡

2016/01/10 10:46:48

大阪城外堀跡

ひかりのくに株式会社の建設工事に伴う大阪城堀跡発掘調査」という長い名前のプレートがあった。
ビルの建設中に外堀跡が発見され調査に三ヶ月かかったと記されています。



大阪城外堀跡

2016/01/10 10:47:12

大阪城外堀跡



大阪城外堀跡

2016/01/10 10:53:12

大阪城外堀跡

空堀町ですが道路が凹んでいます。
空堀の跡の地形でしょうか?



心眼寺(真田丸跡)

2016/01/10 11:00:18

心眼寺(真田丸跡)

真田幸村とその子・大助の供養のために真田家の祖先である滋野氏が江戸時代に建てた寺である。
心眼寺周辺は大坂冬の陣で真田幸村が築いた大坂城の出丸・真田丸跡地といわれる。三光神社が真田丸の東側に位置し、心眼寺は西側にあたる。「真田幸村出丸城跡」の碑が門の前にあった。



真田丸跡

2016/01/10 11:08:14

真田丸跡

真田丸跡はその西側が心眼寺辺りでで東側が三光神社であつたらしい。
出城であった真田丸には3.500-~5.000-名『程度の兵がつめていたと云われている。
現在真田丸があった地は陸軍の墓地として存在している。

死兵となって死んだ真田幸村の兵と近代戦の犠牲となって今日の日本の礎となった兵の墓が重なった空間であった。
陸軍兵の砂岩でできた墓碑には出身地と死亡原因が刻まれている、
墓碑は生前の人生を語る、刻まれた文字・・陸軍歩兵等卒勲八等功七級 森本芳○郎之墓 明治27年5月26日南山攻撃際戦死・・ 大阪府中河内郡布施村大字向井57番屋敷。日露戦争の南山攻撃の際に戦死なされた方の墓碑のようです。この時乃木希典長男・勝典が戦死しています。



真田丸の菜の花

2016/01/10 11:03:22

真田丸の菜の花

心眼寺の隣にある寺では菜の花が満開でした。
時代を超えて戦国期と近代の兵たちを弔う花のように見えて、風にゆらゆらと揺れていました。



三光神社

2016/01/10 11:12:36

三光神社

三光神社はその昔、姫山神社と称していました。この一帯は姫山と呼ばれ、高台にある社殿からは生駒・二上山・金剛山まで見渡せたとか。神社の由緒略歴によれば、「大阪城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ今なおその痕跡を三光宮鎮座の階下にあり」

「名こそ惜しけれ」栄達得ることや大名になるより、「名」を獲った幸村は父昌幸の英才教育を受けた真田昌幸の作品であったのかも?しれないと思いつつ・・地下で真田幸村何を思うのか?