戦国時代一番「なさけない武将」と云われる荒木村重をポタって見た?・・

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2017-05-14 05-34

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/05/14 05:42:43終了日時2017/05/14 11:56:38
水平距離87.31km沿面距離87.32km
経過時間6時間13分55秒移動時間4時間51分36秒
全体平均速度14.01km/h移動平均速度17.84km/h
最高速度43.13km/h昇降量合計254m
総上昇量127m総下降量127m
最高高度56m最低高度-1m

レポート概要

荒木村重って??戦国時代の最大のなぞなぞ人物だろうと思う。

織田信長に見出されて、短期間に伊丹城城主となり、更に摂津の豪族を次々と平定し、また信長に従い、石山合戦などにも参加し、武功をあげた。

天正6年(1578年)10月、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。一度は糾問の使者(明智光秀、松井友閑、万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。

織田信長は当初荒木村重の謀反を信ぜず、小寺官兵衛をもって荒木村重を説得することにした。
天正6年(1578年)10月下旬、小寺官兵衛は荒木村重が籠城する有岡城を訪れたが、荒木村重は屈強な兵士を待機させており、小寺官兵衛を生け捕りにして、牢屋に閉じ込めた。

織田信長は荒木村重に対して「降伏して尼崎城と華熊城を明け渡せば、妻子の命は助ける」との使者を出したが、荒木村重は織田信長の申し出を断り、ひとり尼崎城へ逃亡した。

木村重の家臣ら122人は、尼崎近くの七松で処刑された。処刑には鉄砲や長刀が用いられた。女中388人や下士124人は、4軒の家屋に分けて押し込められ生きながらにして焼き討ちされた。
当時の様相は、「灼熱に責め立てられた男女は、魚が跳ねるように上下へ飛び上がり、その悲鳴は煙に包まれて空にまで響き渡った」と記されている。

1582年、信長が死ぬと、彼は堺に戻ってそこで茶人・「道薫」として復帰し、千利休の弟子となり十哲とまで云われた、その際に、商人の娘と再婚を果たすが、天下人秀吉の勘気に振れ、出家し再び妻を捨てるのである。
墓は堺の南宋寺にあると伝えられるが実在しない。伊丹の荒村寺に位牌があり、「心英道薫禅定門」とある。

とまぁ~どこまで自分が大好きなんや?といいたくなる御仁である。暇な日曜日この密かに尊敬してしまいそうな戦国武将の遺蹟を訪ねてみた。

写真レポート

住吉大社

2017/05/14 05:54:58

住吉大社

スタート地点はいつものように住吉大社となった、

荒木村重が謀反した時、北摂地方の住吉大社の摂社はことごとく荒木側に味方した様子で、荒木亡き後(逃げただけですが)焼き払われています。

荒木村重??謎の多すぎる人物です・・・・



元萩之橋

2017/05/14 06:32:54

元萩之橋

中津のコンビの前に、「元萩之橋」の石碑が建っこのあたりは能勢街道が通り、人と物が行き交うにぎやかな場所でした。萩の橋は街道を横切る水路架かっており、萩の寺として有名な東光院の山門の前にありました。東光院は「南の四天王寺、北の東光院」と称された格式ある古刹。大正3年(1914)、豊中市の曽根に移りました。


ここで中国街道と能勢街道が分かれている。



三国の渡し

2017/05/14 06:50:36

三国の渡し

大阪から十三、池田・能勢方面へ通じる能勢街道と呼ばれる古い街道筋にあたっている。ここには古い時代から渡しがあった。『太平記』巻38に、三国の渡しが登場する。楠木・和田軍が攝津国の守護の本拠を攻めようと神崎の橋に到ったところ、守護方に焼き落とされていた。両軍は策略を仕掛けて三国の渡しをまわって攻め入ったとされる。



旧能勢街道の道標

2017/05/14 07:17:04

旧能勢街道の道標

 左側に立つ小さな道標は池田や能勢妙遷宮への参詣道を案内する
 もので、寛政五年(1793年)、道行く人々に茶をふるまう茶所講の人
 が建てました、上町がどこを指すかは分かっていません。刀根山越え
 は旧能勢街道の難所の一つであり、明治27年(1894年)には、現在
 の本町 から蛍池方面へと迂回する新道が開発されました。  掲示板



旧石橋村の高札場跡

2017/05/14 07:24:12

旧石橋村の高札場跡

ここは、京都と山陽地方とを結ぶ「西国街道」、大阪と池田・乗せ方面とを結ぶ「能勢街道」(江戸時代は「大阪道」あるいは「池田道」)が交わる場所です。かつで、多くの人々や物資が行き来したこの辻には、幕府や奉行所などから庶民に周知させる法令や禁令、生活の規範などを掲げた高札場 がありました。



池田城址

2017/05/14 07:40:59

池田城址

池田城は土着豪族の池田氏によって14世紀頃に築城されたと考えられている。

荒木村重はここで生まれたとされる、羽陽曲折の後荒木村重が下克上により池田氏を追い出したあと居城とした、

現在・城址は池田城跡公園として整備されており、模擬大手門や模擬櫓台などの施設が建てられています。



池田の町家

2017/05/14 07:53:17

池田の町家

池田は西国街道と能勢街道が交差しまた猪名川の舟運地点でもあったことから北部山間集落の諸物資の集散地として中世から町が開けていた。発展した。



有岡城堀址

2017/05/14 08:17:13

有岡城堀址

荒木村重が作事した有岡城は約218㍍四方といわれる本丸は、深い「内堀」で囲まれていた。現在は復元されてである。



有岡城址

2017/05/14 08:18:18

有岡城址

長らくこの地方を統治した伊丹氏が荒木村重に滅ぼされ、そのあと伊丹城に入った村重は、伊丹城を有岡城と改称した。

村重が築城した有岡城は、城下町を城郭の中に取り込んだ惣構えと言われる築城法で、初期天守閣を持った城であり、非常に広い地域を含んでいた。



有岡城本丸石垣

2017/05/14 08:18:18

有岡城本丸石垣

本丸跡(西北隅)だ。そこには、戦国時代の石垣が残されている。

土塁に埋もれていた石垣は、ちょうど城壁の隅っこにあたり、長さ東西10㍍、南北6㍍のL字型をしていた。むろん、これは原形の一部にすぎぬが、野面(のづら)積み」。天正2年(1574)ごろ、有岡城主の荒木村重が築いたものだ。



有岡城石垣の五輪等

2017/05/14 08:18:18

有岡城石垣の五輪等

発掘された石垣の中には、自然石の野面積みに混じって、五輪塔の台石や墓石らしきものが無造作に突っ込まれているのが、見えます。



墨染寺の荒木村重の墓

2017/05/14 08:30:44

墨染寺の荒木村重の墓

墨染寺は、天正7年(1579年)荒木村重の有岡城の戦いで焼失した、その後、道元禅師旧跡の墨染寺(京都市伏見区)が荒廃したため、伊丹の住人加楽井氏がここに遷して再興。 後に荒木村重の菩提所となった。

境内の墓地には、荒木村重の墓と伝えられてきた九層の石塔がありますが、調査によると時代が合わない様子です。

朝が早かったので中には入れませんでした。



有岡城堀址

2017/05/14 08:37:30

有岡城堀址

有岡城は広範囲にわたる城域を持つ城であったようで、城からずいぶん離れた地点で発掘調査の掲示板が設えてあった。

それによるとこの画像のやや左にある溝の辺りに城の石垣があって外との境界線になっていたとの事、戦国期の城にしてはほんとに広いな、国指定の史跡にあるはずだわ。



塚口城址

2017/05/14 09:01:25

塚口城址

塚口城跡は、室町時代から戦国時代にかけて文献に登場する中世城郭です。現在は市街化のため、その面影をほとんど失っていますが、旧村の東端(現在地)と北端部にその遺構をわずかに残しています。
 高い土塁をめぐらした外側に広い濠をもち、2町四方の土塁で囲まれていたようで、要所要所には出入門を設けてあったようです。
 塚口城跡は、塚口寺内町とも別に呼ばれ、一向宗興正寺派の別格本山であった塚口別院を中心につくられた町場です。同院は現在の正玄寺といわれています。 掲示板



大物くずれ碑

2017/05/14 09:29:04

大物くずれ碑

「大物崩れ」というのは、享禄4年(1531)6月、室町幕府の有力者である細川高国と細川晴元・三好元長らの戦いにおける高国側の敗北を言います。現大阪市域の天王寺・阿倍野から野里川(中津川)にかけて戦闘が繰り広げられ、高国は尼崎方面に敗走しますが捕らえられ、大物(だいもつ)の廣徳寺で自刃したことから「大物崩れ」と呼ばれました。



大物主神社

2017/05/14 09:31:24

大物主神社

平安時代にはすでに船舶の発着地として発達していました。大物の地名由来には諸説ありますが、平安時代に港町として栄え、西日本各地からの材木の集散地として知られるようになり、取引された巨材を意味する「大物」から、この地を大物と呼ぶようになったとの説が有力です。大物浜から源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため船出した史実が、のちに謡曲『船弁慶』や『義経千本桜』として歌舞伎でも上演されています。また平成7年の発掘調査では中国製の白磁や青磁の椀や壷などが大量に発見されました。



船弁慶

2017/05/14 09:32:45

船弁慶

頼朝に追われ京の都を逃れた義経一行が西国を目指して船出をしたのが、大物浦とよばれたこの地だった。船出の前夜、義経と弁慶たち主従は、身を潜めるようにして大物主神社に1泊したといわれる。この一行には、静御前をはじめとする義経の愛する女性たちも連れられていた。船出のときは、1185(文治元)年11月6日であった。しかし船出して間もなく、平氏の怨霊のためと思われる猛烈な嵐に襲われ、少しも進むことなく、陸地に舞いもどる始末であった。



尼崎城址

2017/05/14 09:39:57

尼崎城址

617(元和3)年に入封した戸田氏鉄(とだうじかね)により新規構築された近世城郭です。江戸幕府の支援を受けて工事は進められ、本丸には四重の天守も聳(そび)えていました。中世から栄えた尼崎の町を改造して計画された平城でしたが、明治の廃城以後の解体が甚だしく、寺町界隈に江戸時代の佇まいが偲ばれる。



七松八幡神社

2017/05/14 09:59:54

七松八幡神社

NHKで夕方放送している「忍たま乱太郎」で有名な神社ですが、村岡城落城の後ここで荒木一族が惨殺されました。

その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していきました。
天正9年8月17日には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害しています。

信長ってやはり「狂ってる」ね・・家臣に殺されて当然だな。



七松八幡神社

2017/05/14 10:00:55

七松八幡神社

有岡城の人質たちを尼崎城からよく見える七松という場所で磔にされた。磔柱は百二十二本あったといい、戦国期でも数少ないの大量処刑だった。

また五百人近くの男女は四軒の民家に押し込められ、柴や枯れ草を家の周囲に積み上げ、ためらいもなく火をつけたのである。

信長公記には「風のまわるに随ひて、魚のこぞる様に、上を下へと、なみより、焦熱・大焦熱のほのほにむせび、おどり上り飛び上り、悲しみの声、煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも、是なるべし」とある。

荒木村重の正妻「だし」達は京六条河原で斬首された・・・



南宋寺

2017/05/14 11:35:53

南宋寺

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺

荒木村重は尼崎城から花隈城へ逃げてやがては毛利家へ逃走しました。
織田信長亡き後は、茶人として復活しました、はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている

天正14年(1586)5月4日、堺にて52歳で没し、法名を「秋英宗薫居士」という。南宗寺に埋葬されるとあるが、つまびらかでは無い。



ザビエル公園

2017/05/14 11:45:51

ザビエル公園

荒木村重はキリシタンではなかった様子ですが、京で処刑された妻(だし)は敬虔なキリシタンであった。

ここザビエル公園はザビエルが堺に上陸した場所でもあるそうです、ザビエルが持ち込んだキリスト教が荒木にどんな影響を与えてのかは?検証のしようもありませんが、戦国期に権力者に反逆した人々・・
荒木村重・明智光秀・千利休・高山右近・になんとなくシンパシィを感じてしまうのは、年のせいかな??

これらの人々は権力者に媚びへつらうより、自己の命を懸けてでも大事な(何か?)を持った人々なんでしょう?日本史に於ける砂金のような存在かも知れない。