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開始日時 | 2014/09/23 06:24:47 | 終了日時 | 2014/09/23 10:18:10 |
水平距離 | 46.31km | 沿面距離 | 46.55km |
経過時間 | 3時間53分23秒 | 移動時間 | 2時間45分55秒 |
全体平均速度 | 11.97km/h | 移動平均速度 | 16.83km/h |
最高速度 | 47.35km/h | 昇降量合計 | 1003m |
総上昇量 | 484m | 総下降量 | 519m |
最高高度 | 48m | 最低高度 | -36m |
2014/09/23 06:45:55
2014/09/23 07:05:19
2014/09/23 07:07:31
2014/09/23 07:14:03
(掲示板)
砂・岡山に当時3500人の信徒があり、教会・十字架が建って盛況だったことなど、当時領主だった結城氏の名とともに耶蘇会通信文の中に伝えられる。
河内街道の今昔(四条畷市の掲示板抜粋)
当市の市街地域には南北に通ずる古道が二筋現存する。生駒山麓沿いには東高野街道があり京都と高野山を結ぶ。これと平行するように枚方を起点とし、寝屋川市高宮集落を南下し、小路から当市の砂・岡山境界部より西部底地中央部を縦走し、大東市住道から八尾へ通ずるのがこの河内街道である・・・・・当地域は砂岡山キリシタン遺跡であり、ヤソ会通信使史料にも記されている。
2014/09/23 07:25:58
この二本の道標は一時街道筋に埋没、姿を消していた。そこでこれを掘り出し、昭和55年に大東市文化財保護推進会の手で再建された。
2014/09/23 07:28:36
祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九日・二十日。社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんも、お稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である。 住道地区の氏神で、延宝七年(1679)「三箇村検地帳」には「氏神天満宮」と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸、桁行一間二尺の社殿をもち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。 社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭りには西の口、江の口南、江の口北、大箇(だいが)、下野、押廻からの地車(ダンジリ)計六台が引き出され社頭に並んだ。この宮入の順番は、十八日くじ引きで決められる。また当地は十六世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇(
2014/09/23 07:28:36
また当地は十六世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇(さんが)城のあったところとされている。 城主三箇殿は永禄五年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位置については諸説あって断定し難い。 なお、水月院跡には「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」の辞世句を記す墓石も見いだされる。 平成5年12月 大東市教育委員会
2014/09/23 07:43:31
2014/09/23 07:45:58
古堤街道 大阪市北区相生町で国道2号線と分岐、寝
屋川沿いに大東市に入り、諸福・御供田・中垣内を通り
龍間で生駒を越え、田原を経て大和に至る街道。大和街
道中垣内越えと古称。
2014/09/23 07:54:36
住宅地の中に ぽつん と社があり一基の灯篭は上部が外れていた。
2014/09/23 07:54:36
灯篭の台座部に地蔵を模倣した像が浮き彫りになっている。
最盛期には三箇・砂・岡山辺りで5.000に近い信徒が居たらしい。秀吉のバテレン禁止令後はずいぶんと迫害を受け、やがて、徳川家康の国禁となり、北摂のごく一部を残してこの地方からキリシタンは居なくなった。
2014/09/23 08:08:23
大神宮灯篭があるので、かつては伊勢参りに頻繁に利用されていたのだろう。
2014/09/23 08:16:29
2014/09/23 08:26:30
河内街道との辻にある「八尾・枚方・大阪・奈良」を示す道標(菱屋東)
2014/09/23 08:28:37
石田家住宅は、江戸時代中期の享保元年(1716年)に建築され、享保13年のサル年に瓦製のサル二匹を大屋根にすえつけ現在に至るといわれています。
当時、岩田村と御厨村が井路川の排水のことで争った時、庄屋だった新兵衛は、争いの解決と岩田村の繁栄を願い、村人とともに住吉大社に祈願いたしました。
争いは有利に終わり、この喜びを永く伝えるため、紀州(和歌山県)の瓦屋に注文して作らせたものだと伝えられています。
このサルは、かやぶき屋根の棟に載った高さ約30cmのもので、東側のサルは玉を持ち、西側のサルは右手に御幣、左手に扇を持っています。
これは悪魔が「去る」という意味でおかれたもので、サルは住吉大社の方向に向けられています。
岩田町文化財保存会 掲示板より
2014/09/23 08:29:21
2014/09/23 09:09:01
八尾街道は奈良街道(国道二十五号線)の平野東交差点から分れて久宝寺、八尾の寺内町を通り、老原交差点で再び奈良街道に合流する道である。恩智街道は東高野街道の恩智神社鳥居下から分かれて曙川を通り、国鉄八尾駅までの道である。両街道は明治時代には重要な街道として交通量が多く、荷車、自動車も往来したとの記録が残っている。このようなことから、明治四十五年に大阪府がここに道標を建てたが、この交差点が整備される前は、辻の東側に倒れていたものを、老人センター建設を機に地元の人達の協力でここに移して保存されることになった。 【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾市郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1984年)】
2014/09/23 09:11:25
2014/09/23 09:19:41
当地で御坊顕証寺を中心に寺内町が形成されたのは天文10年(1541年)ごろである。長瀬川(旧大和川本流)沿いの当地は、その後開発された八尾寺内町(現本町辺り)と共に、中世以降この地域の中核都市として栄えた。大和川付替え(1704年)後は、地域の中心が八尾寺内町に移ったが、当地は、旧大和川の川筋で盛んになった木綿等農産物の集積商業地として発展した。江戸から明治にかけての町家や、寺内町形成時の碁盤目状の街路骨格も良く残ったまちなみとなっている。
2014/09/23 09:32:52
平野では比較的人通りの多い商店街内にある小林新聞舗。明治22年創業と大阪府下では最も古い新聞販売店であり、昭和4年に建てられた建物は国の登録有形文化財に指定されています。
2014/09/23 09:34:11
安永八年謹製
2014/09/23 10:15:56
大阪市内では大変珍しい 馬つなぎ のある古民家です。
2014/09/23 10:17:26
若江岩田の石田家当主も住吉参詣 の際はこの(東門)から参拝したのでしょうね。