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開始日時 | 2014/12/30 07:26:46 | 終了日時 | 2014/12/30 13:04:54 |
水平距離 | 60.12km | 沿面距離 | 60.88km |
経過時間 | 5時間38分08秒 | 移動時間 | 4時間10分58秒 |
全体平均速度 | 10.80km/h | 移動平均速度 | 14.55km/h |
最高速度 | 42.75km/h | 昇降量合計 | 2558m |
総上昇量 | 1192m | 総下降量 | 1366m |
最高高度 | 391m | 最低高度 | -15m |
2014/12/30 07:27:17
治承8年2月7日(1184年3月20日)福原近辺に陣取る平家一門へ源氏方が総攻撃を開始する。
義経は敵を欺く為に京都から篠山を抜けて社→三木→山田(現神戸市北区)→藍那→鵯越→福原へと進軍した様子です。
これが名高い「一の谷の合戦」ですがその中でもハイライトとなる鵯越をトレースすべく藍那から・・鵯越経由・・大輪田の泊(現神戸港)をポタって見た。
2014/12/30 07:35:57
釈迦堂を改築発展させた舞台であり、神戸の商業劇場をモデルに明治26年に有志により建築された。建物間口15.3メートル、奥行き9.65メートル、舞台間口13.36メートル、奥行き9.3メートルと県下最大規模であり直径8.5メートルの回り舞台(註)を備える。
本舞台は昭和40年の台風23号により、茅葺の屋根を飛ばされたしまったので、現在のトタン葺に修復して以降は、農業用倉庫として使用している。
藍那里づくり協議会
2014/12/30 07:43:27
右 あいな 左 みき と刻まれる。
すぐそばに、和泉式部の墓とされる、南北朝時代ごろとみられている宝篋印塔が残されています。
この事から、遅くとも南北朝時代ごろからはこの道筋が機能していたことがわかります。この周辺は藍那の辻と呼ばれ、三木方方面への分枝点となっている。
義経が軍議を開いたと去れる 相談が辻 はここより500メーターほど上になる。
2014/12/30 07:51:17
2014/12/30 07:56:42
2014/12/30 08:07:42
駒つなぎの松は、高尾地蔵と呼ばれるお堂の傍らにあり、今は古松の根元を残すだけとなっていますが、高尾山山頂まで50メーターほどの地点で、斥侯するには最適の場所といえるでしょう。
2014/12/30 08:18:52
2014/12/30 08:21:27
史跡 鵯越
神戸市 この道は摂播交通の古道で下源平合戦のとき源義経が この山道のあたりから一の谷へ攻め下ったと伝えられる
昭和29年2月 神戸市
2014/12/30 08:41:25
遠くに 福原(現兵庫駅付近)と大和田泊 が見て取れる。
2014/12/30 08:42:10
ひよどり展望公園は高尾山から稜線伝いの場所にある。
ここからは平野部へ向かい山が落ち込んでいるので、このあたりから逆さ落ちをされたのでしょうか?
この下辺りに布陣していた平通盛・教経兄弟は奇襲を受けて大混乱したようだ。
2014/12/30 08:58:35
辰の刻(午前8時頃)から逆落しに始まる戦いは、巳の刻(午前10時頃)まで続けられ、その結果、福原、大輪田泊で討ち果たした武者は数知れず。
2014/12/30 09:03:15
2014/12/30 09:13:49
清盛塚がある。塚と呼ばれてはいるが、残されているのは高さが8.5mほどの13重の石塔である。清盛の死後、鎌倉時代に建てたものとされ、江戸時代の絵図にも登場している。
2014/12/30 09:14:39
清盛の墓の場所はわかっていない。1181年に京で亡くなった清盛の遺骨は、福原へ持ち帰られたという。兵庫区の能福寺(のうふくじ)にはその廟所(びょうしょ)があるが、墓がどこ造られたのかはわからないのだ。
清盛は自分の死後、源頼朝を恐れていた様子でその遺言は・・「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」・・であった。
義経のような世界史的に見ても珠玉の軍事の天才がいなければ、ひょっとして?平家の命運は伸びていたのかも知れない。
像は神戸出身の彫刻家・柳原義達氏の作である(1968年建立)
2014/12/30 09:31:04
嘉兵衛が本店の地に定めた西出町は、ふるくは「佐比江の入り江」が深く入り込んだ浜辺でしたが、江戸時代の前期に、 兵庫津の出町として町場が形成され、北前船などの廻船がさかんに兵庫津へ寄港するようになると、 「佐比江の入り江」は船入り江(北舩入)として整備され、西出町は東出町とともに問屋・船大工などの町として活況を呈すようになりました。
この碑のすぐ西側には、明治中期まで船入り江がありました。かって船入り江をのぞんで高田屋の本店・倉庫などが建ち並んでいたと、 古老の話が残されています。
2012年3月西出東出まちつくり協議会
2014/12/30 09:35:44
平経俊墳墓とされる五輪搭がある。
一の谷の戦では、平清盛公の異母弟である平経盛公の二男で若干18歳の若武者・平経俊公も平知盛公の軍勢に属して奮闘しました。
しかし「鵯越の逆落とし」と言われる義経の奇襲攻撃によって両軍の均衡は崩れ、敗軍の混乱の中で西出の浜まで落ちてきた平経俊公は、源範頼公の郎党・名和太郎たちの追撃に遭い、平清房公・平清定公とともに3騎で立ち向かって壮絶な討ち死にを遂げます。
境内には「文政七稔歳次甲申十二月」つまり1824(文政7)年に兵庫津ゆかりの高田屋嘉兵衛によって寄進された石灯篭が残されています。
2014/12/30 09:37:44
高田屋嘉兵衛が奉納した灯篭
2014/12/30 09:50:09
元町商店街を抜けた(西側)交差点にある。
2014/12/30 09:58:39
正月準備で忙しそう。
2014/12/30 10:19:59
2014/12/30 10:29:09
もとこの地には花松地蔵という石仏が祭られていて、
首から上の病気平癒に霊験があると信仰されていた。
大正中期にその信者たちが新たに首から上の地蔵像を
造ったのが、この首地蔵である。
2014/12/30 10:55:59
こちらも新年準備で忙しそうでした。
2014/12/30 11:26:24
西宮神社からは、中国街道経由で大阪方面へ向かった。
2014/12/30 11:30:19
有名な道標ですが・・ごみ置き場になっていますた。
2014/12/30 11:39:44
平安時代に港町として栄え、西日本各地からの材木の集散地として知られるようになり、取引された巨材を意味する「大物」から、この地を大物と呼ぶようになったとの説が有力です。大物浜から源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため船出した史実が、のちに謡曲『船弁慶』や『義経千本桜』として歌舞伎でも上演されています。
義経つながりですね。
2014/12/30 11:46:49
2014/12/30 11:56:09
尼崎市の資料によると施主は神南邊隆光であるようです。
神南邊隆光は堺の鋳物師であちこちの街道に道標を建てている。
僕が実見したものだけでも、竹内街道・熊野街道・東高野街道・西高野街道、にあった。
2014/12/30 11:59:44
2014/12/30 12:06:44
2014/12/30 12:22:39
2014/12/30 12:50:04
終点です。