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開始日時 | 2015/01/18 07:50:18 | 終了日時 | 2015/01/18 12:49:23 |
水平距離 | 61.37km | 沿面距離 | 61.74km |
経過時間 | 4時間59分05秒 | 移動時間 | 4時間02分55秒 |
全体平均速度 | 12.39km/h | 移動平均速度 | 15.25km/h |
最高速度 | 36.70km/h | 昇降量合計 | 1480m |
総上昇量 | 747m | 総下降量 | 733m |
最高高度 | 74m | 最低高度 | -14m |
2015/01/18 07:50:18
スタート地点は住吉大社の東門から。
ここから伸びる道は昔の 「磯歯津路(しはつみち」という大路と思われる。
2015/01/18 08:18:08
「平野町ぐるみ博物館」は、私たち平野の町づくりを考える会が1993年から取り組んでいるミニ博物館運動です。博物館といっても、施設や展示物を整備することを目的とするのではなく、運営者と訪問者とのコミュニケーションを通して、住民自身が楽しみながら地域を再発見しようとする試みです。
2015/01/18 08:35:23
2015/01/18 08:50:48
三田家住宅は1766年(明和3年)の建築で、柏原の富商の代表的な住宅である。1969年(昭和44年)に主屋・土蔵の2棟と塀1棟が国の重要文化財に指定されている。
2015/01/18 09:09:18
元禄16(1703)年10月28日、幕府は大和川付替えが決まった、幕府とそれぞれの藩が競うように、工事の区間を分担した結果、はじめは3年がかりかと思われていた工事は8ヶ月足らずという早さで終わりました。宝永元(1704)年10月13日、付替え地点の古い堤防を切り崩して水の流れる方向を変え、旧川筋をふさぎ竣工しましたが、このふざいた場所を「築留(つきどめ)」と呼んでいます。
2015/01/18 09:23:23
片山廃寺は北に大和川、西に石川をのぞむ玉手山丘陵北端に位置し、塔心礎の存在や屋瓦の散布により、古くから寺跡とされてきました。
昭和五七年四月の発掘調査によって、一辺の長さ11,7メートルの塔の基壇が確認されました。
凝灰岩切石を組み合わせた壇上積基壇で、一部瓦積みに補修され、南・西縁には階段も残っていました。
基壇の大きさから小型の五重塔と推定されます。
出土した軒瓦は飛鳥の藤原宮で使用されたものと同じ瓦型から作られたもので、塔の創建が七世紀末~八世紀初頭であったことがわかります。
一九八九年三月 柏原市教育委員会
2015/01/18 09:27:13
大坂夏の陣の最激戦地で「道明寺の戦い」ともいわれますが、要衝「小松山」の争奪をめぐって豊臣方の後藤又兵衛基次と水野勝成を先鋒大将とし、本多忠政、松平忠明、伊達政宗、大和の武将などで編成された徳川方の大軍とで激しい戦いが繰り広げられた。
はるか彼方に大阪城が微かに浮かぶ。
2015/01/18 10:24:58
古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径250m、高さ35m、前方部幅300m、高さ36m
日本で二番目の大きな古墳
2015/01/18 10:32:38
それじゃーせっかくなので自転車かついで登ってみました。
いい眺めです。
2015/01/18 11:04:53
雄略陵は高鷲丸山古墳という円墳と池を隔てた東にある平塚古墳を二個一にして作られたものなのです。2つの古墳を大改造したの文久年間(文久の修陵)2つの古墳をくっつけたためにこのように変な基準線がずれた形の前方後円墳もどきになってしまったのです。
2015/01/18 11:32:28
賑わっていました。
2015/01/18 12:47:48
大和川の付替えにより、新しい大和川が運んでくるおびただしい土砂によって、河口に当たるこの近辺にはおびただしい土砂が堆積して新しい洲が沢山できていた。
河内国丹北郡油上村(現松原市)土橋弥五郎を中心として新田開発事業が行われましたが、たびたび災害が発生し、事業が進みませんでした。そこで事業が無事に完工することのを祈願するため、元文2年(1737)に土橋弥五郎により、当社が創建されました
この新大和川が運ぶ土砂により堺港は衰退した。6回におよぶ改築工事が江戸時代に行われたにもかかわらず、港は埋没を余儀なくされました。これによって、中世の自由な湾港都市として栄華を誇った堺の町は終焉を迎えた。