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開始日時 | 2015/04/18 07:51:14 | 終了日時 | 2015/04/18 17:21:27 |
水平距離 | 122.89km | 沿面距離 | 123.14km |
経過時間 | 9時間30分13秒 | 移動時間 | 7時間58分47秒 |
全体平均速度 | 12.96km/h | 移動平均速度 | 15.43km/h |
最高速度 | 37.85km/h | 昇降量合計 | 2292m |
総上昇量 | 1060m | 総下降量 | 1232m |
最高高度 | 234m | 最低高度 | -18m |
2015/04/18 08:23:10
水口宿の東の端に設けられたもので、「江戸口」と呼ばれています。天和2年(1682)水口藩成立以降、その城下にもなり町の東西の入口は警備の施設も整えられ、享保年間(1716~36年)作成の絵図によると枡形の土居がめぐらされ木戸や番所がおかれ、宿場の防御的な施設となっていました。水口宿西端の、五十鈴神社の南側に西見付があり「京口」とよばれ、同じ機能を果たしていました。
2015/04/18 08:25:10
2015/04/18 08:35:40
水口城は3代将軍徳川家光が寛永11年(1634)京都上洛の際の宿館として築城されました。築城は幕府直営で行なわれ、作事奉行には、建築や作庭あるいは茶道などで著名な小堀遠州政一があたり、延べ十万人の大工を投入して工事が進められました。城は京都の二条城を小型にしたもので本丸と二の丸の二郭で構成されていました。築城当時の規模は復元模型でうかがい知ることができます。家光以後の将軍の上洛は途絶え、水口城は城番(5千石~1万石の旗本、大名)が置かれ、これが1年任期で約50年続きました。
2015/04/18 08:49:25
当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
2015/04/18 08:55:05
この巨大な石燈籠は文政5年(1822年)、増加する旅人の目印となるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。
その高さは10.5m、燈火を灯す火袋は大人でも通れる程で、道中でも最大級のものとされています。
建造には多額の費用を要した為、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。
明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。
2015/04/18 09:14:00
2015/04/18 09:24:00
東海道五十一番目の宿場として栄えた郷土の歴史・文化を後世に伝えながら、市民や市を訪れる人々の憩いの場を提供し、相互の交流により市の活性化を図ることを目的とした施設です。
2015/04/18 09:36:50
2015/04/18 11:41:20
間道として使われた小関越は京都側の勾配がきつくなっていた。
風情のある土壁が残る雰囲気のある道。
2015/04/18 12:12:20
ここで東海道は終わり。
ここから伏見街道を南下して京街道経由で大坂へ走る。
2015/04/18 12:35:00
2015/04/18 12:41:35
古くは伏見 は 伏水 と書いたようだ。
2015/04/18 12:56:45
2015/04/18 14:01:15
2015/04/18 14:39:10
2015/04/18 15:49:20
2015/04/18 15:51:45
2015/04/18 16:18:20
2015/04/18 16:27:17