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開始日時 | 2015/05/05 07:08:56 | 終了日時 | 2015/05/05 13:41:07 |
水平距離 | 74.75km | 沿面距離 | 75.00km |
経過時間 | 6時間32分11秒 | 移動時間 | 4時間58分11秒 |
全体平均速度 | 11.47km/h | 移動平均速度 | 15.09km/h |
最高速度 | 45.16km/h | 昇降量合計 | 1420m |
総上昇量 | 672m | 総下降量 | 748m |
最高高度 | 140m | 最低高度 | 6m |
2015/05/05 07:26:42
2015/05/05 07:52:27
2015/05/06 08:38:33
2015/05/05 09:31:02
斑鳩では古くから稲作が行われて居たので。現在でも条里制の跡がわかる。
2015/05/05 10:18:47
2015/05/05 10:22:22
2015/05/05 10:29:37
2015/05/05 10:43:52
2015/05/05 10:54:47
2015/05/05 11:01:42
推古三十年(622)2月22日聖徳太子が斑鳩宮で亡くなりました。その遺体は宮から近つ飛鳥の磯長・叡福寺(太子町)まで運ばれ、先に亡くなった母の穴穂部間人皇后、妃の膳部菩岐々美郎女と共に一廟に合葬されました。
斑鳩から磯長までの道筋は太子が宮から飛鳥に通われたいわゆる筋違道に対して葬送の道と呼ばれています。
太子信仰の隆盛によって、法隆寺から磯長廟までの参道道として、太子を偲ぶ多くの人々が通われた太子信仰の道と言えます。
この太子道の脇に高さ約1,6m幅2,3mの安山岩の巨石があり向かって右手に天文十七年(1548)銘の地蔵菩薩立像(像高)57cmが刻まれています。
銘文「玉祐逆修」とみえ、玉祐と言う人が仏事を修法して自分の冥福を祈る生前供養をおこなった事がわかります。
2015/05/05 11:26:57
聖徳太子がこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620年)に墓所を造営したといわれている。翌年、太子の生母間人(はしひと)皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳手(かしわで)姫とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られたとされている
2015/05/05 11:30:22
2015/05/05 12:40:22
2015/05/05 13:31:02