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開始日時 | 2015/06/07 06:05:30 | 終了日時 | 2015/06/07 12:51:40 |
水平距離 | 107.31km | 沿面距離 | 108.19km |
経過時間 | 6時間46分10秒 | 移動時間 | 5時間49分00秒 |
全体平均速度 | 15.98km/h | 移動平均速度 | 18.60km/h |
最高速度 | 49.35km/h | 昇降量合計 | 2340m |
総上昇量 | 1153m | 総下降量 | 1187m |
最高高度 | 197m | 最低高度 | -18m |
2015/06/07 07:06:10
天正10年6月2日(新暦1582年7月1日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。
6月6日、中国街道を駆けぬけ、2日後には約70キロ東の姫路城に戻った。世に言う「秀吉の中国大返しである。
季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、6月10日には早くも摂津の尼崎に到着した。
羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争覇の勝負は決した、といえるだろう。 大山崎町HP引用
今回は西国街道より短時間に北摂へ抜ける津戸の中道を走ってみる。
2015/06/07 07:10:25
戦国時代の大永6年(1526)に細川高国が、西摂支配のため海上交通の要所尼崎の大物に築いた城。細川両家の抗争で、細川澄元が堺を拠点としていたのに対して、高国は尼崎を拠点として勢力を蓄えて対抗した。高国が大物の廣徳寺で自刃した後も、細川晴元と反晴元派の抗争において堺と尼崎の重要性には変化がなかった。
当時西国街道を進んできた兵と海路を進んできた兵はこの辺りの大物の港で合流してであろう。
2015/06/07 07:16:21
神埼までは中国街道を進む。途中古い道標がある。
2015/06/07 07:23:53
はるか彼方に予定戦場となる北摂の山が見える。武者奮いしたことだろう。
2015/06/07 07:26:23
「金毘羅大権現は、讃岐国の金刀比羅宮に祀られた海上の守護神で、早くから船乗りの信仰を集めていました。神崎の津は、都と西海を行き来する船と人々でにぎわっていました。この石燈籠は、航海の安全を祈念し、灯台の役割をもつものです。願主岸田屋冶兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く人々から寄付が集められ、文化元年(1804)頃建て替えられたものです。台石にはそれらの人たちの名が刻まれています。この燈籠は、船着き場に近い堤防の上にありましたが、堤防工事のため現在地に移築されました。」
掲示板
2015/06/07 07:58:33
意外な速さで吹田に到着。
湿地帯が多いので当時は難儀したことだろう。
2015/06/07 08:09:16
さい寺への参詣道でもあった様子。
2015/06/07 08:23:49
亀岡街道から分枝する。
2015/06/07 08:52:45
本照寺(ほんしょうじ)は、大阪府高槻市富田町にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。
富田御坊ともいう。正保3年(1646年)に本願寺の一字をとり、本照寺に改名。山崎の戦い前夜には秀吉が本陣を張った。
2015/06/07 09:08:27
中川清秀や池田恒興や高山右近の摂津三人衆は秀吉からの「殿(織田信長)は生きている」という偽情報に惑わされて見方をした。
とあるが、秀吉が勝つであろうことは予測できたでしょうから、味方するきっかけだったんでしょう。
2015/06/07 09:12:51
高槻市内には古い道標が多くあった。
2015/06/07 09:28:24
予定戦場の天王山を望む。
2015/06/07 09:38:27
街道の1里(約4km)ごとに榎を植え、路程の目印とした一里塚のあったところ。江戸時代の街道絵図にも、塚前に茶店があったことなど、当時の様子が描かれている。現在は、淀川沿いの中村から水害を逃れ、ここに落ち着かれたという「水あがりの地蔵さん」の地蔵堂が建っている。
2015/06/07 09:57:06
大山崎離宮八幡宮を過ぎるとすぐに、道の左手に山城と摂津 の国境の石碑がある。
2015/06/07 10:12:18
ここで大激戦があったんですね。
2015/06/07 10:28:37
対岸の岩清水八幡宮:
態度をはっきりさせない筒井順慶に業を煮やして明智光秀はの辺りにから洞ヶ峠へかけて陣を張り威嚇した。
いまどきの人は「洞ヶ峠を決め込む」なんて云わないんだろうな。もう死語になってるかも?
2015/06/07 12:16:46
秀吉の血脈はこの城で途絶えてしまった。
城の裏に当たる場所に淀殿・秀頼自刃の地と云う碑が建てられている・・
秀頼は自分で腹を切ることができたのだろうか?今となってはすべては解らない。
西国街道を駆け抜けて天下を取った秀吉の子孫は、この地でそのすべてを終焉させた。