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開始日時 | 2015/07/19 07:29:48 | 終了日時 | 2015/07/19 12:38:52 |
水平距離 | 69.67km | 沿面距離 | 69.80km |
経過時間 | 5時間09分04秒 | 移動時間 | 4時間22分03秒 |
全体平均速度 | 13.55km/h | 移動平均速度 | 15.98km/h |
最高速度 | 47.75km/h | 昇降量合計 | 1237m |
総上昇量 | 619m | 総下降量 | 618m |
最高高度 | 113m | 最低高度 | -6m |
2015/07/19 07:41:18
ローカル路線である加多線は利用客が「少ないようで、必死で集客努力をしています。
今回は大阪湾沿いに北上するのでこの駅から輪行を開始した。
2015/07/19 07:43:17
木造2階建,下見板張の洋風警察署庁舎。寄棟造,桟瓦葺で,正面は両翼を突出させ,中央上部にペディメントを付け,翼部との間に配した屋根窓もペディメント風とするなど正面性を強めた造形意匠に特色。窓枠等の簡略化された造作は大正期建築の特徴を伝える。
2015/07/19 07:43:48
淡嶋街道を示す石標がある交差点から加多の古家並が増えてくる。
2015/07/19 07:51:03
その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。
沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」
その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。
その島が、友ヶ島です。その島には、少彦名命と大己貴命が祭られていて、
皇后さまは助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。
その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、
いきさつをお聞きになりました。そこで、島では何かとご不自由であろうと、お社を対岸の
加太に移され、ご社殿をお建てになったのが、加太淡嶋神社の起こりとされています。
神社HPより転載
2015/07/19 08:11:15
大阪府道岬加太港線を海岸線に沿って走ると大阪府と和歌山県の県境が現れる。
夏の海水浴シーズンには大変にぎわう。
2015/07/19 08:29:58
かつては、深日港から淡路島、四国や、近隣の友ヶ島への航路が開設されていたという。難波駅からは、淡路島航路に合わせ、急行「淡路」が運転されていた。
僕らが子供のころ賑わいが嘘のような静寂に包まれた駅になっている。
2015/07/19 08:30:47
駅の改札口からすぐ近くに、昔懐かしい駅前旅館がある。
今は利用する人があるのだろうか?非常に懐かしい風景を醸し出していた。
デープな外観から写真をネット上にUPしている人が多い。
2015/07/19 09:34:50
この辺りになると、ほぼ護岸化されている。
2015/07/19 09:52:58
波止場釣りの人がのんびりと釣り竿をたれていた。
のんびりした時間が流れている。
2015/07/19 10:19:03
「田尻歴史館」は、明治から大正にかけて「綿の王」と呼ばれ、関西繊維業界の中枢を担った谷口房蔵たにぐちふさぞう大阪合同紡績(株)元社長の別邸として、氏の郷土である大阪府泉南郡の田尻町に建てられた、大阪府指定有形文化財です。
HPより転載
2015/07/19 10:21:00
泉南は江戸時代後期から和泉木綿の生産地として著名であったが、大正時代に入るとこの地方で近代紡績・織布工業が発展し、人口も急増している。
当時の古い家並が残る。
2015/07/19 10:30:30
大将軍湯
知る人ぞ知るすごい銭湯である。
泉佐野旧市街のなかにあり、ラビリンスになった町のなかをさまよって探し当てる。
大正か昭和初期であろう建物は趣があってすばらしい。
2015/07/19 10:33:35
佐野の町は、江戸時代のはじめに自然に成立したので、細くて曲がった複雑な道筋に古い民家や寺院があちこちに見られます。まるでヨーロッパの中世の町を見るような雰囲気を漂わせています。
HPより転載
あちらこちらにラビリンスがあって散策するのが楽しい町である。
2015/07/19 10:33:51
ラビリンスの中に趣のある町家があった。
古くは熊野詣の街道町としてにぎわい始め、江戸時代には、漁業、廻船業、醸造業、さらに綿織物業などにより独自の町人文化を開花させた「さの町場」。
ふるさと町家館は、江戸時代中期に2代目新川喜内が醤油業を営むために建てた町家で、当時の泉南地域の建築様式を今に伝える貴重な文化財です。
HPより転載
今は佐野の町とふるさと町屋館として公開(有料)さてれいる。
2015/07/19 10:57:55
浄土真宗寺内町として戦国期に成立し信長と本願寺との石山戦争により灰燼に帰した後
真宗寺住職家の支配の下、在郷町として江戸期に繁栄した。
寺内町自治村落らしく堀をめぐられていた。
2015/07/19 11:30:18
江戸期には和泉木綿の集散地として大きく発展し、綿織物も盛んであった。
富の集積があったので立派な町家が残っている。
2015/07/19 12:14:36
蘇鉄山は、大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を明治12年(1879年)に大浜公園として開放され、展望のよい築山として整備されたところで、この付近は明治・大正・昭和初期には関西有数の海浜リゾート地として賑わっていた。
そして、この蘇鉄山の約300m東側にあった御蔭山(おかげやま)の頂に近代地図作成のための基準点となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定され、その後御蔭山が削られ昭和14年(1939年)にこの蘇鉄山の標高6.96m(当時)の所に移設されたそうだ。平成12年(2000年)4月に2.5万図に正式な山名として記載されたことで「一等三角点のある日本一低い山」となった。
2015/07/19 12:19:10
幕末、安政元年にロシアのプチャーチン提督の率いるディアナ号が大阪湾に侵入、当時堺からも見る事のできた大阪・天保山沖に停泊し、開国をせまりました。このため幕府は急きょ、堺をはじめとする台場に砲台を築くことになりました。堺港の南湾戸の西側に砲台を急造。翌2年には北湾戸側にも台場を建設し、港の出入口を要塞化しました。南台場は元治元年(1864年)に一文字型から桔梗型の西洋式砲台に大改造され、大砲18門を備えました。この砲台はほぼ原形を残して、今でも伝えられています。
HPより転載
2015/07/19 12:26:40
中世の殷賑を極めた堺港はこの位置より東側に当たるが、堺の栄華は中世以降祖のピークを迎えることはなかった。
江戸期に大和川の付け替えがあり大和盆地の砂が流れ込み港としての利便性が落ちた、幾度となく浚渫(蘇鉄山になった)を行ったが港としての魅力を失って衰退していったようだ。