泉州の本街道と脇街道を走る。

左上の四角をクリックすると全画面表示になります。

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の高さ: px     地図の幅は自動調整されます(固定幅にするにはwidthをピクセルで指定)

タグ:

NEWTRACK001

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2015/08/15 07:01:42終了日時2015/08/15 11:38:41
水平距離67.75km沿面距離67.97km
経過時間4時間36分59秒移動時間3時間54分51秒
全体平均速度14.72km/h移動平均速度17.36km/h
最高速度48.37km/h昇降量合計1101m
総上昇量550m総下降量551m
最高高度307m最低高度22m

写真レポート

紀州街道

2015/08/15 07:13:53

紀州街道

紀州街道が整備される以前、紀州藩の参勤交代路は高見峠越で伊勢国へ出るルートだったが、1701年(元禄14年)から紀州街道へ切り替えている。

暴れん坊将軍吉宗は宝永7年(1710年)4月に奇襲藩主になっているので、この紀州街道を参勤交代していただろう。

北畠顕家  戦死の地

2015/08/15 07:19:59

北畠顕家  戦死の地

南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。

この合戦で北畠顕家がこの付近で戦死した。

田中陣屋

2015/08/15 07:35:45

田中陣屋

田中陣屋は、元亀年間に田中遠江守重景によって築かれた。 重景は、天正4年の織田信長による石山本願寺攻めにも参陣している。 田中氏は、その後帰農し江戸時代には大庄屋となり、和歌山紀州家参勤時の本陣としても利用された

助松村境石造物群

2015/08/15 07:37:12

助松村境石造物群

石造物群は地蔵堂・宝篋印塔・徳本上人碑などの石造物で構成され地域では「ホウケント」と呼ばれ大切にされてきました。江戸時代に紀州街道が巡礼道でもあったことをしめし、また助松村境における境神信仰の残る事例として貴重です。

江戸時代にはこの付近でおいはぎが出るようなさみしい場所だった様子です。

岸和田本町通

2015/08/15 08:03:00

岸和田本町通

歌手街道の中でもっとも旧街道の風情を保っている町です。

古い町家がのこり江戸時代へタイムスリップしたような感覚になる。

紀州街道(蛸地蔵あたり)

2015/08/15 08:04:33

紀州街道(蛸地蔵あたり)

かつて岸和田城に一揆が襲来したときに1人の大法師(地蔵尊の化身)と数千の蛸が城の危機を救ったことから、この寺に地蔵尊を安置したと伝えられている。

古い町のたたずまいが残る。

貝塚願泉寺

2015/08/15 08:08:50

貝塚願泉寺

浄土真宗寺内町として戦国期に成立し信長と本願寺との石山戦争により灰燼に帰した後
真宗寺住職家の支配の下、在郷町として江戸期に繁栄した。

水間街道(熊野街道との交差部)

2015/08/15 08:21:29

水間街道(熊野街道との交差部)

水間街道は、貝市水間にある厄除けの仏「水間の観音さん」として知られる水間寺への参詣道で、
山間部の集落と岸和田城下や貝寺内(じない)をむすぶ生活道としても利用されていました。泉州側
のルートは、紀州街道から分岐するもので、岸和田城下と貝寺内を起点とする2つのルートがありま
した。この2つのルートは、現在の貝市麻生中で熊野街道をとおって合流し、木島谷の集落をぬけて
水間寺へいたります。また、水間から近木(こぎ)川沿いをとおる山間部への道は、和泉城山をこえ
和歌山へいたる道で、和歌山方面からの生活道・参詣道として利用されていました。

名越あたりの街道風景

2015/08/15 08:28:28

名越あたりの街道風景

ノコギリ屋根のある風景(テザック三ツ松工場)

2015/08/15 08:34:41

ノコギリ屋根のある風景(テザック三ツ松工場)

かつて泉州は繊維産業が盛んであったので、このようなノコギリ屋根がたくさん存在していましたが、今では数える程しかありません。
あと十年もしたらこの世からなくなるのでしょう。

水間観音

2015/08/15 08:44:08

水間観音

水間寺の創建には、聖観世音菩薩にまつわる伝説がある。
聖武天皇(701-756)が42才のとき、病に伏せ、なかなかご平癒になられなかったその時、夢のお告げがあった。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」
とのこと。聖武天皇は、勅命をもってこの仏像を探すことを命ぜられ、その当時、庶民から最も信頼されていた行基にこの大切な仏像を探すことが依頼された。行基は、この仏様を求めて、この奈良の地を発ち、西南方の地を歩き、そうして到達したのがこの水間の地だった。
貝塚市HPより

道陸神社

2015/08/15 09:01:03

道陸神社

(どうろくじんじゃ)貝塚市教育委員会による説明板から
「道陸神を祭神とし、足の神として広く信仰されている。もともと、戦国時代にこのあたりに勢力を持っていた松浦肥前守守(まもる)によって、近くにあった蛇谷城内にまつられていたものが、後になって土地の人々により、現在地へ移されたという。蛇谷城の兵士が、湧き出る清水によって足の傷を治したことから、信仰が始まったと言い伝えられている。この地は葛城山への登山道にあたり、修験者や紀州へ行き来する人たちで賑わった。 平成3年12月 貝塚市教育委員会」

蕎原の集落を抜けて。

2015/08/15 09:21:49

蕎原の集落を抜けて。

蕎原(そぶら)の集落を抜けると道の勾配がきつくなる。
おそらくこの辺りが最高地点となるのだろう。

津田川を下る

2015/08/15 09:32:40

津田川を下る

蕎原(そぶら)の集落を抜け峠のピークを二つ越えると搭原に出る。
搭原から津田川に沿って相川町の過ぎる、このあたりは蛍による町おこしが盛んで、夏場は結構な人でにぎわう。

意賀美神社

2015/08/15 09:45:41

意賀美神社

陽成天皇が、元慶8年(884) 大かんばつのとき、菅原道真に降雨を祈らせたことから「雨降り大明神」とも呼ばれます。
社殿の前を流れる津田川の上流には滝があり、日照りには、この水をさらえて神前に祈ると、必ず雨が降ったことから「雨降りの滝」と呼ばれています。また、神社の森には、くすのき・やまももなど、約70種の暖帯樹が茂り、市の天然記念物となっています。

久米田寺

2015/08/15 10:23:07

久米田寺

僧行基が天平10年(738年)に開基しましたが、永禄年間(1558~1570)の三好氏と畠山氏の戦火で焼失しました。現在の建物は、江戸時代中期に再建されたものです。久米田寺所蔵の文書の内「楠家文書」などが、国の重要文化財として、指定されています。4月21日は久米田寺の縁日で、近隣の住民は「21日のおだいっさん」と親しみ、また、春は桜の名所として有名です。

久米田寺(参道)

2015/08/15 10:24:50

久米田寺(参道)

久米田寺の北側の参道は趣があってよい。

熊野街道(小栗街道)

2015/08/15 10:44:50

熊野街道(小栗街道)

久米田池を下ると熊野街道へと出る。
古い街道らしく微高地の減りを回りこむように進んでいる。

小栗街道

2015/08/15 10:44:50

小栗街道

熊野街道は古くからある街道ですが、堺以南では小栗街道のほうか通がいいようです。
生活道路として利用されていた時代が長く明治期に作られた道標には小栗街道と刻まれている。