貝塚遊郭跡を訪ねて南泉州の小ピークを巡るポタリング。

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20150829-111317(1)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2015/08/29 05:38:08終了日時2015/08/29 10:28:08
水平距離72.44km沿面距離72.79km
経過時間4時間50分00秒移動時間4時間18分41秒
全体平均速度15.06km/h移動平均速度16.88km/h
最高速度50.15km/h昇降量合計1651m
総上昇量829m総下降量822m
最高高度283m最低高度-18m

写真レポート

紀州街道を南下する。

2015/08/29 05:53:52

紀州街道を南下する。

江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道です。大道筋の東側には多くの古い町並みが残り、材木町東一丁の商店街には「右住よし 大さか」などの文字が刻まれた道標を見ることができます。

泉大津の家並を通過(浜街道)

2015/08/29 06:30:06

泉大津の家並を通過(浜街道)

紀州街道の海側に平行して走る「浜街道」には、各時代の町屋建築が多数残され泉大津市の貴重な文化資産になっています。工場を象徴するのこぎり屋根や虫籠窓(むしこまど)、鍾馗(しょうき)様が鎮座する屋根飾りなど貴重な建築様式があちらこちに見られ、歴伝統的建造物群と毛布発祥の地として住工が混在する一種独特な歴史的景観をかもし出す街なみとなっています。

岸和田本町

2015/08/29 06:48:41

岸和田本町

岸和田城の西側、府道を越えて一本入ったところに、かつて大阪と和歌山を結んでいた旧紀州街道がある。江戸時代になって参勤交代路として整備されたとされるこの街道沿いの本町には、街道側は中二階、城側は民家から城が見えないように一階建てになっているなど、城下町の風情を残すまちなみがある。間口の広い本瓦葺、中二階、出格子の歴史的なまちなみが続き、中には重層の屋根を持つ豪邸もあり往時の隆盛が想像される。
また本町地区内に位置する「まちづくりの館」は、観光物産の案内やお茶の無料サービスが受けられ、観光客の休憩所として親しまれている。
岸和田城や府道沿いの「だんじり会館」とともに観光スポットとなっている。

貝塚願泉寺

2015/08/29 06:54:52

貝塚願泉寺

貝塚の寺内町は、貝塚御坊・願泉寺を中心に中世末頃に形成された自治集落。願泉寺は16世紀後半に浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院である。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍が今も残っている。南海本線貝塚駅に近い貝塚寺内町の一角は、土蔵や格子戸などが小路のところどころにあり、かつての街の繁栄ぶりを物語る姿も数多く残っており、貝塚の歴史を物語る。

貝塚遊郭跡

2015/08/29 06:57:37

貝塚遊郭跡

貝塚遊郭跡

2015/08/29 06:58:33

貝塚遊郭跡

水間街道の佇まい。

2015/08/29 07:15:13

水間街道の佇まい。

水間街道は、貝市水間にある厄除けの仏「水間の観音さん」として知られる水間寺への参詣道で、
山間部の集落と岸和田城下や貝寺内(じない)をむすぶ生活道としても利用されていました。泉州側
のルートは、紀州街道から分岐するもので、岸和田城下と貝寺内を起点とする2つのルートがありま
した。この2つのルートは、現在の貝市麻生中で熊野街道をとおって合流し、木島谷の集落をぬけて
水間寺へいたります。また、水間から近木(こぎ)川沿いをとおる山間部への道は、和泉城山をこえ
和歌山へいたる道で、和歌山方面からの生活道・参詣道として利用されていました。

水間寺

2015/08/29 07:23:23

水間寺

水間寺の創建には、聖観世音菩薩にまつわる伝説がある。
聖武天皇(701-756)が42才のとき、病に伏せ、なかなかご平癒になられなかったその時、夢のお告げがあった。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」
とのこと。聖武天皇は、勅命をもってこの仏像を探すことを命ぜられ、その当時、庶民から最も信頼されていた行基にこの大切な仏像を探すことが依頼された。行基は、この仏様を求めて、この奈良の地を発ち、西南方の地を歩き、そうして到達したのがこの水間の地だった。当時この地は、今では想像も出来ないような山間部で、霊峰葛城の峯よりこんこんと流れる水の間に巨岩があり、原始林に囲まれた神域であった。美しい水の流れる巨岩の上に白髪の老人がおり、手に一体の仏様を捧げ、「汝を待つこと久し」と言って、その尊

遊女の墓

2015/08/29 07:45:42

遊女の墓

文化年間(1804~1818)、この地で非業の死
を遂げた遊女、千代の墓と伝えられている。
伝説によれば、貝塚の遊女であった千代が病気にかかり
郷里の紀州へ帰る途中、この地で川面に写るあわれな
自分の姿に落胆し、断食の末、命果てたという。
これを哀れんだ村人達が墓を建て、供養した。
馬場の大福寺には位牌が残されている。 墓前の道は、
貝塚から紀州へ通じる街道として、古くから使われて
いたようである。

  平成5年3月

               貝塚市教育委員会

根福寺城跡(最初のピーク)

2015/08/29 07:52:20

根福寺城跡(最初のピーク)

この城は、1535(天文4)年に和泉国の守護代であった松浦肥前守守(まつらひぜんのかみまもる)によって築城されたと伝えられています。元々は「野田山城」と呼ばれていましたが、543(天文12)年に根来寺領となった時に「根福寺城」と改称されたと言われています。
 江戸時代に描かれた「根福寺城絵図」(岸和田市教育委員会所蔵)によると、山全体に城郭が築かれていたようで、現在も大門跡や曲輪(くるわ)、空堀などが残り中世の山城の名残をとどめています。城の規模は東西約500メートル、南北約850メートルで、大川と秬谷の北側にあり標高283メートルの山頂にありました。府下では、飯盛城跡(大東市・四條畷市)、芥川城跡(高槻市)と並ぶ規模です。

(平成19年5月掲載)

殿の墓

2015/08/29 07:54:28

殿の墓

 基幹農道沿いに「根福寺城跡と殿の墓」の案内板があります。その反対側の共同墓地入口には五輪塔を浮き彫りにした墓碑があり、松浦肥前守守の墓とされ「殿の墓」と呼ばれています。
(平成19年5月掲載)

二つ目のピーク(ほの字の里)

2015/08/29 08:00:04

二つ目のピーク(ほの字の里)

春木町への小峠地蔵

2015/08/29 08:37:40

春木町への小峠地蔵

この小さな峠には地蔵が祭られていた。

北泉州から紀北西部へ抜ける場合によく利用されたであろう脇街道だろう。

松尾寺

2015/08/29 08:56:46

松尾寺

松尾寺の最盛期は、南北朝時代から室町時代であり、寺領7000石、寺坊308名、僧兵は数千人を数えたという言い伝えが残っているが、それを裏付ける文書等は現在のところ発見されていない。また、南朝との関係が深く、1336年(延元元年)後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となり、以後も南朝から度々祈祷を命じられていたという。南北朝統一後は足利義満ほか代々の将軍も祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。下って、織田信長も1577年(天正5年)禁制を下して松尾寺の保護を一旦は約束したのだが、織田信長は、4年後の1581年(天正9年)紀州高野山(現在の和歌山県伊都郡高野町大字高野山)攻めの際に松尾寺も攻撃し、松尾寺を含む阿弥陀山諸堂を丸ごと焼き払ってしまった。

松尾寺のやまもも

2015/08/29 09:00:44

松尾寺のやまもも

関連リンク

府指定天然記念物

   松尾寺のやまもも

          昭和50年3月31日指定

やまももは、本州中部以南の温暖な地方の
山地に自生する雌雄異株の常緑高木である。
樹皮を染料に使うほか、夏に暗紅紫色に熟す
果実は甘酸味があって生食される。
 本樹は樹高15メートル、目通し径80
センチ、枝張り直径10メートルをはかる雄
株の巨木である。 推定樹齢200~250年
である。

              昭和59年3月
              松 尾 寺

              大阪教育委員会
              和泉市教育委員会



脇街道

2015/08/29 09:06:20

脇街道

父鬼街道から分枝して松尾寺へと向かう脇街道。

北泉州から松尾寺や施福寺・牛滝山方面への参拝に利用されていただろう。
新しい大規模宅地開発の横でかろうじて破壊を免れていた。