④ 西国巡礼道を走る。(6番壷坂寺~9番南円堂)逆打

左上の四角をクリックすると全画面表示になります。

ブログ埋め込み用HTMLタグ

地図の高さ: px     地図の幅は自動調整されます(固定幅にするにはwidthをピクセルで指定)

タグ:

20150928-190043(2)

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2015/09/27 07:32:37終了日時2015/09/27 15:58:43
水平距離95.89km沿面距離96.34km
経過時間8時間26分06秒移動時間5時間48分47秒
全体平均速度11.42km/h移動平均速度16.57km/h
最高速度50.92km/h昇降量合計2230m
総上昇量1074m総下降量1156m
最高高度349m最低高度2m

レポート概要

今回のミッシンは第六番 壺阪山 南法華寺 (壺阪寺)から第九番 興福寺 南円堂へ走破する。

順打にすると帰りに近鉄奈良駅から輪行することとなり、観光シーズンの奈良から午後3時頃の近鉄電車は輪行袋がはばかれるので、今回は逆打パターンとしました。

古い奈良の家並を抜けて明日香の里を快走するいいコースです、歴史好きな人は国宝級の名所・旧跡があり移動に時間がかかるでしょう。

長谷寺・岡寺と快走して、壷坂へと向かいます。

第六番 壺阪山 南法華寺 (壺阪寺)は山の頂上付近にありチャリにはかなりの難所です、明日香を抜けてゆるい上りが続き、最後に3km程ですが、きつい勾配とやたらと多い観光バス・タクシーに煽られながら辿りつきます。

壺阪寺から一気に下り御所・葛城の町を抜けて竹之内峠をこえて大阪府に入ります。

写真レポート

西国9番興福寺南円堂

2015/09/27 07:36:11

西国9番興福寺南円堂

今回は逆打パターンで9番→8番→7番→6番所謂逆打と呼ばれる巡礼をしてみた。

南円堂では8時から納経受付となっていますが人数が少なければ早い時間でも受け付けてくれました。

興福寺

2015/09/27 07:55:17

興福寺

奈良町を走る

2015/09/27 07:59:41

奈良町を走る

帯解寺山門

2015/09/27 08:13:07

帯解寺山門

かっては徳川2代将軍秀忠の正室・お江与が、後の3代将軍家光を授かった御礼に寄進した堂々たる楼門が建っていたが安政の大地震(安政2年、1855)で倒壊しその後再建されてもの。

古街道を走る。

2015/09/27 08:24:13

古街道を走る。

奈良の古い町並み快走する。

山之辺の道

2015/09/27 08:36:13

山之辺の道

大和神社

2015/09/27 08:42:53

大和神社

関連リンク

大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社。旧称は朝和之宮(あさわのみや)。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

戦艦大和とゆかりのある神社

箸墓古墳

2015/09/27 08:58:23

箸墓古墳

全長272メートル、3世紀後半ころの築造で、宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命の墓に指定されている前方後円墳。『日本書紀』には、昼は人が造り夜は神が造ったとの不思議な記事が残る。

前方後円墳の中では最古式の1つ。邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないかとも考えられている。

長谷寺の参道風情

2015/09/27 09:23:09

長谷寺の参道風情

長谷寺前には初瀬街道が通っていてこの街道は伊勢街道としてにぎわっていました。
長谷寺への参道にあたる辺りには古い店が立ち並び江戸時代の街並みとさして変わらない風情が残っている。

西国番外札所 法起院

2015/09/27 09:28:45

西国番外札所 法起院

法起院は西国33箇所巡礼の開基徳道上人が隠棲を送られた場所。
境内にある松の木から法起菩薩と化し去ったという言い伝えより、法起院という名前がついている。

こちらは納経する際に本堂内部へ入って経を収めるので、趣がある。

西国8番長谷寺山門

2015/09/27 09:51:13

西国8番長谷寺山門

長谷寺の総門で、三間一戸入母屋造本瓦葺の楼門である。両脇には仁王像、楼上に釈迦三尊十六羅漢像を安置する。現在の建物は明治二十七年(1894)の再建。
「長谷寺」額字は、後陽成天皇の御宸筆。

登廊 のぼりろう

2015/09/27 09:52:29

登廊 のぼりろう

仁王門の先には、本堂まで続くにある小さな石段の廊下、登廊がある。
1039年に春日大社の社司中臣信清が、子の病気平癒の御礼に造ったものである。
この長谷寺の中でも特徴的な建築物であり、2間おきに長谷型灯籠が吊るされている。

長谷寺本堂

2015/09/27 09:57:23

長谷寺本堂

小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂である。正面(内陣)は桁行(間口)の柱間九間、梁間(奥行)同五間、入母屋造本瓦葺で、また礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行九間、梁間四間、正面入母屋造本瓦葺。

本堂前で納経して7番岡寺へ向かう。

西国7番岡寺山門

2015/09/27 11:20:17

西国7番岡寺山門

国指定の重要文化財。
慶長17年(1612)建立。埋蔵文化財の宝庫といわれる明日香村において建造物で唯一、重要文化財に指定されているのは、岡寺のこの仁王門と書院だけである。
正面両脇には仁王像を安置。仁王門全体の歪み・各部の破損も著しくなったため昭和42年から同43年にかけて大規模な解体修理を行う。その時の調査でこの仁王門はほとんどの部材を古材を転用、あるいは作り替えられて使用されている事が判明。これらの古材は文明4年(1472)7月21日の大風で倒壊し、翌年に再建に着手したが完成にいたらなかった「塔」のものであると推定される。

岡寺本堂

2015/09/27 11:07:35

岡寺本堂

岡寺本堂。現在の本堂は棟札などから、文化2年(1805)の上棟ですべての完成迄に30年以上かかった事が判明。4mを超えるご本尊さまが安置されているお堂であり境内の中でもひときわ目立つお堂。
初午の開運厄除護摩供大般若法要など主な法要はこの本堂で勤修されています。
本堂には、奈良時代末の制作にかかる巨大な如意輪観音座像が本尊としてまつられています。如意輪観音の最古の遺例としても重要視されており、塑像(土でできた仏像)としては日本最大の仏様で、日本三大仏にもあげられており、重要文化財に指定されています。

亀石

2015/09/27 11:32:33

亀石

この亀石は川原寺の境界を表す標石であるという説がありますが、ある伝説も有名です。それは、昔むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こりました。長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまい、湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまったそうです。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうです。今は亀は南西を向いているが、もし西を向き大麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。ちょっと怖いお話ですが、ユーモラスなこの表情は飛鳥では人気者のようです。

のどかな田舎道を壷坂寺へ向かう。

2015/09/27 11:37:43

のどかな田舎道を壷坂寺へ向かう。

明日香ののどかな田園風景の中を進む。
棚田が広がり日本の原風景の連続がしばらく続く。

壷坂寺本堂

2015/09/27 12:56:30

壷坂寺本堂

壷坂寺がある高取山へいたる坂道は勾配がきつくてかなりしんどい思いをしました。

九十九折の坂道を30分ほど登ります。心臓がバクバクして汗が滴り落ちました。

壷坂寺

2015/09/27 12:59:10

壷坂寺

南法華寺(みなみほっけじ)は、奈良県高市郡高取町にある真言宗系の単立寺院。山号は壺阪山。一般には壺阪寺(つぼさかでら)の通称で知られる。703年(大宝3年)創建と伝え、西国三十三所第六番札所。

本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台としても有名。園内には養護盲老人ホーム慈母園がある。

インドでの救ライ事業への尽力に対する返礼として1983年3月に贈られた「天竺渡来大観音像」は、大理石造り、高さ約20m、総重量1200トンの壮大なもの[1]。その他、インド渡来のものとしては、石像大仏伝図、天竺渡来大石堂がある。

彼岸花の咲く道

2015/09/27 13:31:49

彼岸花の咲く道

壷坂寺から御所へ『向かう道は棚田と彼岸花が美しい。

茅原の傘堂

2015/09/27 13:42:05

茅原の傘堂

葛城山に修行中の役の行者が、五月の田植時におりからの大暴風雨のため、百姓が田植えもできずで困っているのを見て、進んで田の中にはいり、百姓と交わって田植えをはじめたので不思議に雨がやんだ。百姓たちは大喜びで笠をぬぎ、夕刻までに植え終わることができた。
 それ以来、行者の徳を慕い、笠のぬいだところに地蔵尊を安置し、構造も笠によく似た堂を建て、笠堂と称した。

御所市内の地蔵尊

2015/09/27 13:50:55

御所市内の地蔵尊

御所市内の巡礼道沿いに古い石造地蔵尊が祀られている。

道標のある風景

2015/09/27 14:04:29

道標のある風景

御所の町は交通の要衝でもあったため、街道が集まっていてそこここに道標がある。

長尾神社前

2015/09/27 14:16:35

長尾神社前

「延喜式(えんぎしき)」神名帳にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神社です。

 また放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に天武天皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定められたと記されています。

 古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から竹内街道を通って大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の入口となる所であり、重要な場所に社地を構えていました。

 そして現代に至っても、この長尾の地は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様としても、厚く信仰されています。

竹之内の集落から大和の国を振り返る。

2015/09/27 14:25:41

竹之内の集落から大和の国を振り返る。

竹之内の集落を登りきると・・大和の山々や大きな空を眺める子とができる。

竹之内峠を越える。

2015/09/27 14:47:19

竹之内峠を越える。

葛井寺山門前を通過する。

2015/09/27 15:24:57

葛井寺山門前を通過する。

葛井寺山門前:多くの人で賑わっている。