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開始日時 | 2016/01/09 07:58:18 | 終了日時 | 2016/01/09 16:03:19 |
水平距離 | 70.97km | 沿面距離 | 71.39km |
経過時間 | 8時間05分01秒 | 移動時間 | 5時間51分54秒 |
全体平均速度 | 8.83km/h | 移動平均速度 | 12.17km/h |
最高速度 | 42.96km/h | 昇降量合計 | 2530m |
総上昇量 | 1238m | 総下降量 | 1292m |
最高高度 | 402m | 最低高度 | -44m |
2016/01/09 07:58:58
今回のミッションは西国23番勝尾寺から24番中山寺へと走る、帰りに有馬温泉への湯湯治に使われた有馬道を経由して尼崎からは中国街道→熊野街道をへて帰宅コース。
関西ヒルクライムの北摂の登竜門と謂われる勝尾寺への登りはいかになりますか?
2016/01/09 08:19:12
前回前を通過したこの地点から西国巡礼道への道をトレースしたいのですが・・・
古の巡礼道は山層は中を貫く登山道でチャリで登るのは不可能なので今回は自動車道を登る。
2016/01/09 08:31:08
北摂 自転車乗りの大人気コース のスタート地点です。
タイム評価がされているので記してみます。
10分台…BR1上級
11分前半…BR1下級
11~12分…BR2中級
12~13分前半位…BR3中級
15分~…アスリート端くれ
16分~…もうすぐアスリート
17分~…必死のおっさん
18分~…猿
19分~…ツーリングおやじ
20分~…猪
21分~…豚
23分~…牛
25分~…マッコウクジラ
2016/01/09 09:18:44
山門前の売店まで30分かかりましたので、私はマッコウクジラってことになりました。
勝尾寺はなかなかに賑やかなお寺でラジオとかでもバンバン宣伝していますし、境内ではスピーカから奉納者の名前を読み上げています。
肉山のようですね・・
2016/01/09 09:39:25
寺の草創は奈良末期に遡る。古流記によれば創建は神亀四年(727)、善仲、善算の双子兄弟が草庵を構え修業されたことに始まる。そののち天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子開成が二師出逢い止住し、宝亀六年(775)七月十三日般若台に大般若経六百巻を理経して一寺を建て、彌勒寺と号し、開山に至る。開山堂には、善仲、善算と開成皇子の木像が安置され、毎年十月二十九日は宮内庁と本寺で御正辰祭が勤められる。また彌勒寺当時、本堂のあった場所は、いま彌勒菩薩の大仏が大阪平野を見下ろし鎮座されている。
勝尾寺HPより
2016/01/09 09:42:52
勝ちダルマ」のお寺だけに溢れんばかりのダルマさんたちが並んでいいます。
2016/01/09 10:16:02
勝尾寺から快適にダウンヒルして「かなり寒いですが」10分ほどで箕面の滝に到着します。
滝前の道は巡礼道ではありますが、遊歩道になっていてチャリは肩身が狭いですね。押して歩きましょう。
滝は冬場でもありますが、水量もそこそこで見ごたえがありますね。
2016/01/09 10:34:27
箕面7丁目付近にあった地蔵さん。
横には誰がおいたか知られども石碑があり、「いにしえの33番巡礼豊道・・姿かわれど思いわするな」と刻まれていました。
2016/01/09 10:52:46
小林一三記念館は、小林一三の旧邸である洋館「雅俗山荘」を中心に、小林一三の事績を紹介する施設として、2010年に開館いたしました。
「雅俗山荘」では、1957年に逸翁美術館として開館して以来、50年にわたって小林一三収集の美術品コレクションを公開してきましたが、2009年に美術館が新設、移転したことに伴い、新たに「小林一三記念館」として生まれ変わり、1973年に敷地内に増築された現「白梅館」とともに、逸翁の業績に思いをはせることが出来ます。
阪急記念財団UPより
自宅前がかつての巡礼道になっている。
2016/01/09 11:39:18
2016/01/09 11:46:46
南面
すく中山寺道
西面
左ざい所道
北面
宝暦三癸酉歳二月 施主
と刻まれる。
2016/01/09 11:52:44
久しぶりに訪問しました。
長男と長女が家内のお腹に居るときにお世話になりました、以後3年ほど前にご朱印をもらいに行って以来の訪問です。
関西では安産の腹帯を貰いに行く事で有名なお寺ですので、子供赤ん坊がやたらと多い寺です。
2016/01/09 12:01:24
本尊をお祀りする本堂は慶長8(1603)年、豊臣秀頼による命で片桐且元が再建しました。
2016/01/09 12:26:51
宝塚市は巡礼道の整備に割合熱心な町の様子でいたるところに巡礼道の指標を設けていて親切である。
日本
清荒神 霊社
第一
南面
これよ里にしへきよし
くわう志゛ん道わけあり
北面
大坂住
施主
橘徳兵衛
西面
清澄寺政尊氏
2016/01/09 12:30:01
売布神社(めふじんじゃ)は、兵庫県宝塚市にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。旧川辺郡米谷村(まいたにむら)の産土神。 正式には旧字体を用い「賣布神社」と記す。
2016/01/09 12:35:44
尼崎(神崎)から来た有馬道とこの辺りで合流する。
今回はここから巡礼道から分かれて神崎へ向かう。
2016/01/09 12:39:46
小浜は、南西北の三方を迂回する大堀川に加えて東側に溜池を掘り、周囲に土塁を廻らして防御性を高めた城塞寺内町であった。 街道ごとの三方には門を構え、東門は京伏見街道、北門は有馬街道、南門は西宮街道に通じていた。 南北750m・東西400mの総構えで、小浜城とも呼ばれる。
2016/01/09 12:42:26
小浜皇大神社(こはまこうたいじんじゃ)は兵庫県宝塚市にある神社である。
2016/01/09 12:47:50
「井川家住宅」です。江戸時代初期から残る清酒「菊仁」の造り酒屋さんです。
2016/01/09 13:18:24
東天神社(ひがしてんじんしゃ)は昆陽村の東の氏神です。門前に有馬への道を示す道標があります。また本殿の背後には昆陽村の庚申碑のひとつが祀られています。
2016/01/09 13:25:29
当神社は、伊丹市の南部、尼崎市との境界近く、南野(みなみの)地区に鎮座しております。
南野の地名は、猪名野の南の平野からと云う説と昆陽(こや)の南部であるからと言われています。
2016/01/09 13:39:08
塚口城跡は、室町時代から戦国時代にかけて文献に登場する中世城郭です。浄土真宗の寺院の境内に発達した集落で、周りに土塁を巡らし、濠を掘って他からの攻撃に備えていました。塚口御坊と称された浄土真宗興正寺別院の寺内町として栄え、現在は市街化のため、その面影をほとんど失っていますが、土塁の面影を残す小高い東町門跡や水路として残された濠の跡などから偲ぶことができます。明治時代の絵図には3ヵ所の出入門が記されています。
2016/01/09 13:50:20
近松門左衛門の墓と称するものはいくつかありますが、国指定史跡になったものは、ここ広済寺と大阪市法妙寺跡の2基の墓だけです。近松門左衛門は音曲の名人竹本義太夫と協力して、江戸時代の初めに始まった人形浄瑠璃を空前の盛況に発展させた脚本家で、「曽根崎心中」「女殺油地獄」「冥途の飛脚」など数多くの名作を残し、 東洋のシェークスピアとも称されています。
2016/01/09 14:01:33
大阪方面から有馬温泉へ行く道筋を「有馬街道」と呼び親しんできました。神崎から北上し、藻川沿いに猪名寺・伊丹に至る本道と、次屋・下坂部・久々知・上坂部・塚口を通って昆陽(伊丹市)に至り宝塚市内で本道と合流する間道の2コースあったことが知られています。この道標は明治11年(1878)本道と間道の分岐点に建てられましたが、その後現在地に移転されました。
2016/01/09 14:04:40
金比羅大権現は、讃岐国(香川県)の金刀比羅宮に祀られた海上守護神で、早くから船乗りの信仰を集めていました。神崎の津は、都と西海とを行き来する船と人々でにぎわっていました。この石灯籠は、航海の安全を祈念し、灯台の役割をもつものです。願主岸田屋治兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く人々から寄付が集められ、文化元年(1804)頃建て替えられたものです。
2016/01/09 14:24:54
2016/01/09 14:34:25
梅田の繁華街・・老若男女が行き交い休まるもとの無いこの場所がかつての街道の跡であることを知る人は少ない。
往古は湿地帯の中を抜ける難路であったろう。
2016/01/09 14:49:54
江戸期の大坂のすべての街道基点となっていた。
2016/01/09 15:05:24
高麗橋から進路を熊野街道へとり南下した。
画像は空堀辺りの現在の道標。
2016/01/09 15:07:35
近松門左衛門の墓所が二箇所もありました??
門左衛門の生涯については不明なことが多いが、承応(じょうおう)2年(1653)福井に生まれたという。青年期は京都で浄瑠璃と歌舞伎作者として活躍、若き日の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)とも出会っているといわれる。そして義太夫が大坂に出て独立した後、彼といっそう密接になり大坂に招かれて移住「曽根崎心中」にはじまる世話物浄瑠璃の作者として大いに名を上げた。墓は法妙寺境内にあったが、同寺移転のため、現況のように建物の間(高層住宅とガソリンスタンド)の墓所となっている。享保(きょうほう)9年(1724)没、72歳。
2016/01/09 15:30:40
四天王寺西門(さいもん)の石鳥居は永仁2年(1294)、時の別当忍性(にんしょう)が建立したもので国の重要文化財に指定されている。扁額に記されるように、平安時代後期の浄土教流行以降、四天王寺西門はその西方の海の彼方にあると信じられた極楽浄土の東門であると信仰され、ここから海に沈む夕日を拝し浄土を思う日想観(にっそうかん)を修する霊地として栄えた。
2016/01/09 15:52:46
まあとりあえずここで終了と言うことで、次回は西国番外花山院へとすすむ。