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開始日時 | 2016/01/16 08:01:40 | 終了日時 | 2016/01/16 16:48:55 |
水平距離 | 95.52km | 沿面距離 | 96.21km |
経過時間 | 8時間47分15秒 | 移動時間 | 6時間52分08秒 |
全体平均速度 | 10.95km/h | 移動平均速度 | 14.01km/h |
最高速度 | 51.38km/h | 昇降量合計 | 3527m |
総上昇量 | 1677m | 総下降量 | 1850m |
最高高度 | 532m | 最低高度 | -28m |
2016/01/16 08:01:50
今回のミッションは25番播州清水寺から番外の花山院をへて24番中山寺までのルートをたどる。
自宅からの距離の問題で、逆打パターンで巡礼道を走破する。
中山寺から名塩を経由して三田へいたるまでの巡礼道は山間の狭隘部を通るため道標や遺蹟なども大変少なくある意味面白みが無いと言える。
山間の狭隘部を通過して三田に出ると色々な遺蹟や巡礼道道標があり古の巡礼道の面影をたどる事ができる。
2016/01/16 08:20:35
国道141号線の登り道をエッチラコッチラしていると峠に至った三田市と篠山町の境界であった。
篠山町の領域はこの後清水寺までの5k程走行した。
2016/01/16 08:48:05
播州清水寺は山の頂上にある寺で、寺が自前で作った自動車道路での登頂か昔からある巡礼道を徒歩で登るしか訪問手段がない。
自動車で訪問の場合は、この寺が自前で作った自動車道路を使う場合は、一人¥500-の料金が徴収されるが徒歩の場合は無料です。
チャリを登山道入り口に施錠して留めて此処から40分ほど山道を登る。
2016/01/16 10:18:15
登山道は整備されていて勾配もキツイ事無く登りやすい。
比較的新しい丁石が設えてあって気持ちのいいハイキングを楽しめる。
2016/01/16 09:27:25
ここまで来ればあと少し残り3丁
1386年南朝忠臣赤松氏範が山名・細川の大軍に攻められ薩摩に陥ちたときに五男乙若丸十三才と決別した場所である。(説明板より)
2016/01/16 09:33:10
自動車道が「できるまでは、この階段が表参道であった筈なので、手の込んだ作りになっています。
狛犬が一対居てかつては仁王門があった場所には基石が残っています。
山内のあちこちに石垣が残っていてかつては大寺で庫裏や僧坊がたくさん建っていたのでしょう。
2016/01/16 09:39:35
ここで納経してご朱印を貰う。
この日は阪急交通社企画の西国33箇所めぐりのバスツアーがあって多くのオバサン達がやってきていた、みないっせいにお経を唱えて熱心に拝んでいました。
添乗員のオバサンは大変な忙しさで朱印帳や掛け軸に押印してもらっていましたが、時間がタイトなのでドライヤー全開でねじり鉢巻状態でがんばっておりました・・また後ほど再開するとはこの時は知らない。
西国二十五番の札堂で、聖武天皇の勅願所でもあります。神亀2年(725年)創建。大正2年焼失、同6年7月に再建されました。清水寺HPより
2016/01/16 11:40:05
播州清水寺を参拝したあと、花山院へと向かう、途中 広野駅から花山院のある尼寺までは関西ブラッバス釣りのメッカ青野ダムの周回道路を経由して移動した。
1988年(昭和63年)6月にダム竣工式がなされた。武庫川水系の青野川及び黒川からの河川を貯水するダムで、兵庫県でも比較的規模の大きいダムとなる。
2016/01/16 11:51:35
花山院の麓には花山院 十二妃墓と謂われる古い五輪搭が苔むしていた。
花山院(花山天皇)は藤原兼家にはめられたような形で剃髪して仏門に入り退位した。と伝わる。
でも後の彼の人生を鑑みると「ほっと」していたのでは無いでしょうか?おそらくやさしい性格で権力闘争のは向かない人だったのではないか?だから都から12人の女官が慕ってくるのでしょう。
花山院菩提寺に隠棲した花山法皇を慕い、京の都からきた女官たちと弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の墓と伝わる。
中央の大きな五輪塔が弘徽殿女御で、周囲の五輪等が女官たちといわれている。
この地区は女官たちが尼となり、庵を結んだことから尼寺という地名であると伝えられる。三田市HPより
2016/01/16 11:53:25
花山天皇は即位の時、17才、非常に色好みの性格でした。
家臣に美貌の娘がいると聞くと、必ず召し上げ、側に侍らせていたそうで、まあ・・英雄色を好む・・でしょうか?
退位して花山上皇となり、それからは、諸国を巡り歩いて寺社・仏閣を訪ね、 仏教に帰依する生活を送りました。
特に、観音霊場三十三ヶ所をめぐり歩いた事が、今に残る、西国三十三ヶ所めぐりの原形になったと言われています。
2016/01/16 11:55:10
この坂の終点に花山院菩提寺があります、距離はおよそ900m、平均勾配は17%の坂を登らなければなりません。
日本最凶の暗峠に勝るとも劣らない劇坂です。http://map.cyclekikou.net/report.php?id=1736
2016/01/16 12:04:00
登りはじめから凶悪な坂ですぐに脚が笑い始めましたが、丁石があるお地蔵さんとの所で撃沈しました。
1丁は約109mなので、約330m登ってきたことになります、ここからは押して登るべし・・ヒルクライムが目的ではないので、がんばって押しました。
画像は水平器つきのカメラで撮っているので、勾配は正確に画像に反映されていますが、この地点での傾斜は、この上の九十九折に比べれは「まだまだ甘いね」状態でした。
2016/01/16 12:20:15
やっとこ花山院菩提寺につきました。
結構車が来ていて驚きました、汗がすごい事になっていますし、ジャンバーとジャージを脱いで汗を引かせます。
徒歩で来る人が意外と多くて皆さん「自転車ですか?}と声を掛けられます。
2016/01/16 12:28:15
なかなかにいい顔をした地蔵様に迎えられます。
前垂れに愛犬の供養を記した物が掛けられています、犬も一緒に居ると家族と同じになりますよね。
2016/01/16 12:28:50
山門を潜り石段を登りきると「花山法皇殿」の札がかかった小ぶりな「本堂」の前に出る。
寺務所にいってご朱印を貰うときに先ほど清水寺でいた阪急交通社の添乗員のオバサン二人組がここでもご朱印帳をおお急がしで乾かしていました。
納経してお布施(¥300.)をする時に係りのおじさんが僕の名前を聞いて鉛筆で読み方を横に書いておららた、聞くと住職が毎朝納経された経の願主の氏名と願い事を読み上げて居るそうで、西国で始めてこのような丁寧なお経に対する姿勢を聞けました。
2016/01/16 12:33:30
奈良朝の頃大和長谷寺徳道上人は西国三十三所観音の霊場を開いた。その後三百年のあまりを経て花山法皇がその滅びようとする霊場を再興されたその高徳は大きい。
名僧の誉れ高い河内石川寺、佛眼上人、書寫山円教寺、性空上人を戒師とし、紫雲山中山寺、弁老上人を先導としてあらゆる雑苦をなめて、これを再興され晩年棲みつかれたのがこの東光山菩提寺である。
昭和45年5月 三田市郷土文化研究会議す 掲示板
2016/01/16 12:45:20
寺務所前に展望所があり、正面には有馬富士から千丈寺湖が、そして澄んだ日には播磨灘に浮かぶ小豆島や家島も見えるという。
絶景である
花山院は所謂「絶倫パパ」だったんでしょうがその有り余るエネルギーを注いでくれたお陰で 西国三十三ヶ所めぐりの原形を作られたのでただただ感謝感謝です。
2016/01/16 13:06:45
花山院から下ってしばらく走ると古い地蔵型道標があった。
2016/01/16 13:19:35
京口は古くから多くの街道が交差する交通の要衝であった。右はりま三木道、左有馬大坂道の大きな道標が残っている。
年号の記載が無かったが明治期の物ではないか?
2016/01/16 13:29:35
旧道場川原村である。有野川と有馬川が合流する三角地にあり、古くから交通の要衝で人・物の集散場となっていた。丹波街道と播磨道の分岐点であったことから江戸時代は宿場として繁栄したようで、今もその面影を残しているが、急速に町家の姿が無くなっている。
2016/01/16 14:13:22
川沿いの小学校前は狭隘部になっている。
現在的な家並みの先に幽山渓谷の雰囲気が漂う。
ここから宝塚へかけては、国道と付いたり離れたりで下っていくのだが国道は阪神方面から丹波へ抜ける幹線道路で車の通行量もハンパ無く大型車も多い危険な区間といえる。
2016/01/16 14:37:52
有馬街道は有馬温泉へ行く天皇や貴族、武家が往来したとされる道。神崎から中国街道から分枝し伊丹を抜けて中山寺辺りで巡礼道と合流する。
京都からの道筋である西国街道から池田で分岐し小浜でこのルートに合流する道も有馬街道(有馬道)と呼ばれていたようである。
宝塚辺りでは巡礼道と重複している。
2016/01/16 14:40:02
清荒神は関西屈指の荒神さんで人気がある。
ラジオ放送などでも宣伝があってもちろん阪急の駅もある、駅前から山内までびっしりとお店があって、昔は賑わっていて今は寂れた、各地の寺社の参道の雰囲気を彷彿させてくれる。
2016/01/16 14:51:12
前回終了した中山寺へ到着。
この後大阪南郊まで帰った。