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開始日時 | 2016/02/11 08:49:22 | 終了日時 | 2016/02/11 12:59:03 |
水平距離 | 56.71km | 沿面距離 | 57.01km |
経過時間 | 4時間09分41秒 | 移動時間 | 3時間10分19秒 |
全体平均速度 | 13.70km/h | 移動平均速度 | 17.97km/h |
最高速度 | 35.33km/h | 昇降量合計 | 682m |
総上昇量 | 343m | 総下降量 | 339m |
最高高度 | 96m | 最低高度 | 3m |
2016/02/11 08:55:57
いつもの此処からスタート
2016/02/11 09:05:18
かつてはこの辺りが町の境界であったのだろう、古い石仏群が集められ名号板碑などが立てられた一角がある。此処から東高野街道と竹之内街道への道が伸びている。
2016/02/11 09:13:29
2016/02/11 09:31:43
岡の道標と呼ばれている古い道標。
伊勢講の人たちが建立したもので
正面には「右 ひらの 大阪道」、
右面には「左 さやま 三日市 こうや道」
左面には「左 さかい道」とあります。
中高野道と竹内街道が交差する要所であった。
2016/02/11 09:49:01
竹之内街道から北へ100メータほど上がると野中寺がある。
野中寺は「河内三太子」の一つにあたる。
叡福寺の「上の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」に対し、「中の太子」と俗称されている。
四天王寺を振り出しに下・中・上の太子寺に参る巡礼を、太子寺巡礼という。近世になって盛んになる巡礼であるが、今ではその存在があった事すら忘れられている。
2016/02/11 09:50:07
正倉院文書によれば、この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫である。王辰爾は百済からの今来(いまき)の渡来人で、欽明天皇の時代に船賦を計録して船長に任じられ、船史姓を賜わった。その名は、敏達天皇元年(572)にカラスの羽に書かれた高句麗からの国書を読み解いたことで有名である。
2016/02/11 09:50:47
この土壇は心礎が存在することから塔跡と考えられていた。
昭和60年にこの土壇を発掘調査したところ、凝灰岩を加工した石材でつくられた「壇上積み基壇」と呼ばれる基壇が認められた。この基壇は、東西13.6m、南北12.9m、高さ約1.5mの規模を持ち、東側に階段が存在した。このことから、塔が金堂の方を向いていたことになる。」
掲示板
2016/02/11 09:51:32
亀彫心礎石
心礎石全体を亀と見立てて目や手足などの線刻を彫ってある。いにしえ人もしゃれている。
2016/02/11 10:03:17
羽曳野市古市、蓑の辻に建つ嘉永元年[1848年]の道標。
また、ここは東高野街道との交点で、金剛山・高野山方面は南進する
2016/02/11 10:15:20
滝畑ダムを水源とする石川を渡る。
街中を流れる川だけど意外と清流です。
2016/02/11 10:26:15
聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられる叡福寺は、聖徳太子信仰の霊場として発展しました。
2016/02/11 10:30:41
聖霊殿から約50年遅れる承応元年(1652)、江戸の三谷三九郎によって再建されました。立派な木材を使用し、近世では正統派に属する端正な多宝塔として、昭和52年国の重要文化財に指定されました。
2016/02/11 10:30:41
重要文化財となる聖霊殿と多宝塔の間に位置し、如意輪観音を本尊としています。小屋裏に残されていた棟札から、享保17年(1732)に再建されたことが明確で、この棟札と共に大阪府指定文化財となっています。
2016/02/11 10:33:34
推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られました。太子墓は径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室です。太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれています。
2016/02/11 11:09:07
石川にかかる臥龍橋を渡った川向に立派な道標が2基建つ。
堺の神南辺隆光の発願にかかる道標で竹ノ内街道を通る旅人に「大黒の大黒寺」への道筋を案内するとともに、西面にはその由来を記す。
「法華寺」(石川郡北加納村、現河南町加納)は安永四(一七七五年に再建された当時南河内で唯一の法華宗(日蓮宗)の寺である。
この道標は法華寺の案内のため安政六(一八五九)年七月に、大阪在住の法華宗の信者が錠剤を集めて造立したものである。
掲示板
2016/02/11 11:22:02
2016/02/11 11:29:13
三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示されるとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類も合わせて重要文化財に指定されています。
柏原市HP
2016/02/11 11:39:41
2016/02/11 11:45:51
物部守屋は欽明朝の大連物部尾輿の子で敏達朝・用明朝の大連。母は弓削氏の女阿佐姫と伝えられる、敏達天皇の時代に、仏教の受容に積極的態度をとる蘇我馬子と対立し、中臣勝海とともに排仏を主張して、寺院や仏像を焼き捨てたとある。
「何ぞ国神に背きて、他神を敬せんや」守屋が仏教導入に反対して言ったとされる言葉です。
注目すべきはこの墓の玉垣で全国の神社が『寄進しています。
さすが国神を守ろうと多人だけに・・神社さんに人気がある・・
2016/02/11 11:47:08
市街地の真ん中にある。かってこの地は渋川の阿刀と呼ばれた。我が国の仏教創生期に、仏教の導入に反対したと伝えられる物部守屋の別宅が、ここにあった。587年(用明2)4月、瀕死の病床で仏教に帰依することを用明天皇が群臣たちに諮問したことから、廃仏派の物部守屋は身の危険を感じてこの地に退いた。用明天皇の殯が明けるのを待って、崇仏派の蘇我馬子は諸王子と群臣とに勧めて、守屋を滅ぼそうと謀った。そして7月下旬の暑い盛りに、蘇我馬子に賛同した崇仏軍は、渋川の阿刀で守備を固める守屋を攻めた。その攻防戦の主戦場となったのがこの地である。
2016/02/11 11:47:41
遺稿らしきものはほぼ無いといえる。
この寺の正式な名前は、椋樹山大聖勝軍寺で、現在は高野山真言宗に属する。太子町の叡福寺が「上の太子」と呼ばれるのに対して、「下の太子」の名で親しまれている。寺伝では、聖徳太子子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王を祀ってその加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、難波の高台に日本仏教最初の四天王寺を建立し、この渋川に勝軍寺を創建して、自身十六歳の植髪(うえがみ)の太子像と四天王像を安置したという。
2016/02/11 12:04:41
この道標は、寛政十二年(1800)三月建立されたもので、元はここからが参道入口でした。
当社 熊野権現 祇園宮 右 ふちゐ寺(藤井寺) 大峯山上 かうや山(高野山)
右 大坂(大阪) すぐ 天王寺 大さか(大阪)
と刻む。
2016/02/11 12:21:02
2016/02/11 12:23:49
四天王寺は、聖徳太子が建立した日本最古の官寺で、南大門の前には「日本佛法最初四天王寺」と彫り込んだ石柱が立っています。
2016/02/11 12:26:28
西の大門と呼ばれていたのが、戦後再建されてから極楽門と呼ばれているのだそうです。松下幸之助さんの寄贈。
2016/02/11 12:30:44
四天王寺西門、石鳥居の北側に立つ供養塔は、文久2年(1862)3月に建立されたもので、花崗岩製、約5mの巨大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。銘には「西国 三十三度供養塔」「住吉西之坊五人行者之内真道」という記載があり、前述した住吉組に属する行者真道の満願に結縁して建立された供養塔である。
2016/02/11 12:51:27
いつものように住吉大社で終了