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開始日時 | 2016/05/29 05:05:18 | 終了日時 | 2016/05/29 11:53:27 |
水平距離 | 95.81km | 沿面距離 | 96.18km |
経過時間 | 6時間48分09秒 | 移動時間 | 5時間21分48秒 |
全体平均速度 | 14.14km/h | 移動平均速度 | 17.93km/h |
最高速度 | 44.74km/h | 昇降量合計 | 1365m |
総上昇量 | 687m | 総下降量 | 678m |
最高高度 | 210m | 最低高度 | 2m |
2016/05/29 05:09:21
2016/05/29 05:12:55
2016/05/29 05:47:44
この道標は、寛政十二年(1800)三月建立されたもので、元はこの場所が参道入口であった。
2016/05/29 06:00:07
大聖将軍寺と言うのが正式名称。
2016/05/29 06:01:46
大聖勝軍寺より国道25号線を100m程東に進んだところに物部守屋の墓がある。
墓の周りの玉垣には全国の有名な神社がこぞって寄進している。
神社本庁も寄進してるすごい。
2016/05/29 06:10:25
面貌はかなり磨滅しているが慈悲の温容を感じさせる。材質は軟質の花崗岩で総高一.二五メートル像高九二.五センチメートル厚さ十三センチメートルで、像脇に□仁□丁酉□と刻銘されているのが読みとれる。体部の肉づけ、衲衣の表現など洗練された彫技から見て、永仁五年(一二九七)鎌倉時代末期の造立と考えられ、市内では最古の地蔵石仏である。【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾市教育委員会、1986年)】
2016/05/29 06:10:25
顔は全体に磨滅していますが、面長でその表現は丁寧で温和な感じを受けます。右手に宝塔(ほうとう)を中央に刻んだ錫杖(しゃくじょう)を持ち、左手は腰前で宝珠(ほうじゅ)を捧げ持っています。衣文(えもん)の表現は木彫風で量感があり、袖(そで)のひだの流れている様が肩口から足元まできれいに表されています。
[八尾市指定文化財:平成8年3月29日指定]
2016/05/29 06:16:58
三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示されるとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類も合わせて重要文化財に指定されています。
2016/05/29 06:21:40
この日は朝霧が出ていた。
2016/05/29 06:28:35
東高野街道に沿って南下すると道明寺の山門があった。
菅原道真が九州へ左遷される時、叔母覚寿尼が庵主していた同寺を訪ねて、遺品や和歌「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み別れを惜しんだ。以来、近辺では鶏を飼ってこなかったという伝説もある。
2016/05/29 06:33:51
欽明天皇の勅命で応神陵の前に設けられた日本最古といわれる八幡宮。現在の本殿、拝殿は、慶長11年(1606年)に再建されたもの。拝観庫には、源頼朝の寄進「塵地螺鈿金銅神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ)」など国宝・重要文化財が数多く収められている。9月15日の秋祭りは必見。神輿が応神陵に渡御する「お渡り」の儀式が行われる。
2016/05/29 06:40:05
羽曳野市古市、蓑の辻に建つ嘉永元年[1848年]の道標。
蓑の辻と呼ばれた。
2016/05/29 06:43:34
石川にかかる臥龍橋を渡った川向に立派な道標が2基建つ。
右の道標は、ここから南へ1.5kmにある大黒[おおぐろ]の大黒寺、左は河南町加納にある法華寺(約7km)への案内である。
神南辺道心の道標である。
2016/05/29 07:04:28
福寺は、境内にある聖徳太子御廟を守る寺である。御廟には、推古30年(622)旧暦2月22日薨去された聖徳太子と、太子の前日に亡くなった膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)および2ヶ月前に亡くなった母后・穴穂部間人(あなほべのはしひと)王后が眠っている。
2016/05/29 07:12:04
江戸時代の承応元年(1652)に江戸の豪商三谷三九郎によって再建された。昭和52年、国の重要文化財に指定される。
2016/05/29 07:16:25
推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子の知名度は、日本人の間では抜群に高い。『日本書紀』によると、推古天皇29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩の宮に薨去され、その月のうちに磯長(しなが)廟に葬ったと伝える。
2016/05/29 07:43:38
1558年(永禄元年)、興正寺門跡証秀上人によって創建された興正寺別院を中心とした寺内町として誕生し、商売の盛んな在郷街として発展しました。
現在も創建当時の六筋七町の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、仲村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されています。
2016/05/29 07:56:48
東高野街道に沿った錦織中に神南辺のの道標がある。
2016/05/29 08:01:39
元文年間に建てられた孝子地蔵がありました。
河内長野市に入って孝子地蔵。道標を兼ねています。三十三所巡礼の母娘がここで行き倒れ、村人が懇切丁寧なる看病をしたものの母は結局病死、けれども村人に感謝した娘が後に建立した地蔵という話が伝わっています。
2016/05/29 08:08:21
左 かうや 右 まきのお と刻む。
2016/05/29 08:14:17
上原町あたりは道が交錯していて多くの道標が残っている。
巡礼に利用された道らしく、まきのお さかい 大坂 などの名が刻まれている。
2016/05/29 08:24:23
石川の左岸、段丘上にあります。天野街道に面して横穴式石室が開口していました。伝承では豊臣秀吉の大阪城築城にともない、古墳を破壊して石を運び出したところ、疫病がはやり、人々は恐れをなして石室を元に戻したといいます。内部を調査したところ、近世の蔵骨器が4個、五輪石、一石宝篋印塔が多数出土し、墓地として利用されていたことがわかりました。
参考文献:『河内長野市史 第1巻(上)』・『シリーズ河内長野の遺跡2 大師山古墳・三日市遺跡』
2016/05/29 08:43:39
女人高野とも呼ばれる天野山金剛寺は、天平年間(729-749)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開創。弘仁年間(810-824)には弘法大師空海が修行したと伝えられる、真言宗御室派大本山でもある。
人も少なくて落ち着いた雰囲気。
2016/05/29 08:48:03
金剛寺は、僧行基が聖武天皇の勅命によって開き、のち弘法大師密教修練の霊域となる。そののち、四百年ほどの間に、寺は衰微してしまったが、平安末期、後白河法皇と皇妹八條女院の帰依を受け、阿観僧正が復興し、明治の初めまで女人禁制であった高野山に対し、女人の参拝を許したので、女人高野と呼ばれる様になった。
2016/05/29 08:48:03
金剛寺に残る擬宝珠には豊臣秀頼公の名が刻まれている。
内大臣 豊臣 朝臣 秀頼
御再興欽命
依再興之貴命修営之者也
おそらく当時のものでしょう。すごすぎ。
2016/05/29 09:35:19
旧外環状線は江戸期の道を整備したもので、かつては順礼道としても利用された。
明治期のものと思われる地蔵型道標があった。
2016/05/29 09:46:27
泉州ではダントツ人気の厄払い観音です。
2016/05/29 10:13:00
かつての繊維生産地に多く見られた北側採光ののこぎり屋根の古い木造工場・・もうほとんど残っていませんが、かろうじてテザック三ツ松工場では、まだ残っています。
懐かしい感じがしますね。
2016/05/29 10:29:30
願泉寺は16世紀後半に浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院である。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍が今も残っている。南海本線貝塚駅に近い貝塚寺内町の一角は、土蔵や格子戸などが小路のところどころにあり、かつての街の繁栄ぶりを物語る姿も数多く残っており、貝塚の歴史を物語る。
2016/05/29 10:30:58
室町時代から江戸時代に願泉寺を中心に寺内町として発達した町で、昔の古い重厚なまちなみが残っている。周辺は、平安時代より櫛を特産品とし、古くから商工業が発達しており、江戸時代も岸和田藩から独立した寺内町として存続するだけの経済的基盤を有していた。現在も、切妻造り、本瓦葺き屋根、平入り、真壁の虫籠窓の付いた中二階、格子、出格子のある、間口も奥行きも大きい広大な商家屋敷が残っている。
2016/05/29 10:37:15
岸和田城の城下町として、その街なみの雰囲気とともに、当時の町割、遺構が現在も留められている。特に紀州街道の道筋には、城下町を支えた商家群が並ぶ通りであることから、本瓦葺きの屋根、出格子、むしこ窓をもつ中二階、一階には格子が連なる町家らしい風情と重厚さを保っている。
2016/05/29 11:01:31
田中陣屋は、元亀年間に田中遠江守重景によって築かれた。 重景は、天正4年の織田信長による石山本願寺攻めにも参陣している。 田中氏は、その後帰農し江戸時代には大庄屋となり、和歌山紀州家参勤時の本陣としても利用された。
2016/05/29 11:44:41
大阪市と堺市を結ぶ大和橋は、大和川の開削と共に宝永元年、紀州街道が川を渡るところに架けられた公儀橋であった。当時、大和川にはこの橋しかなく、旧暦6月末日に行われていた住吉大社の大祓の祭では一場の舞台となった。神遷しをした神輿をかつぎ数百人が持つ炬火の火は西宮を始め兵庫、明石から泉州海岸まで見ることができ人々はこの火を目印として神幸を拝したという。
此処を渡って大阪市内へ至る。