大阪の旧街道おいしいとこ採りポタリング。

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2016-07-18 05-58

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2016/07/18 06:06:07終了日時2016/07/18 14:06:30
水平距離111.20km沿面距離111.31km
経過時間8時間00分23秒移動時間6時間49分47秒
全体平均速度13.90km/h移動平均速度16.30km/h
最高速度38.72km/h昇降量合計1160m
総上昇量579m総下降量581m
最高高度93m最低高度3m

写真レポート

紀州街道 霰松原

2016/07/18 06:14:10

紀州街道 霰松原

この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。碑の前の道は紀州街道で、高麗橋東詰の里程元標を起点に、堺筋を南下和歌山に至っている。

住吉大社

2016/07/18 06:20:36

住吉大社

熊野街道 住之江味噌

2016/07/18 06:23:47

熊野街道 住之江味噌

熊野古道沿いに立つ池田屋本舗は手作りにこだわる老舗味噌屋。赤味噌ベースのおかず味噌(200グラム945円~)が美味しい。築400年以上という住吉最古の家屋は有形文化財。創業当時に使っていた大きな味噌樽も店先に展示されている。

東雲稲荷神社

2016/07/18 06:54:10

東雲稲荷神社

関連リンク

難波講発祥の地だそうです。

江戸後期、街道宿駅の風紀紊乱(びんらん)の弊風を打破するため結成された旅宿組合の一つ。

難波講発祥の地

2016/07/18 06:56:01

難波講発祥の地

関連リンク

1804年(文化1)大坂玉造上清水(たまつくりかみしみず)町(大阪市中央区東雲(しののめ)町通)の綿弓(わたゆみ)の弦(つる)師松屋甚四郎(じんしろう)と江戸の鍋屋甚八(なべやじんぱち)が講元(こうもと)、甚四郎の手代松屋源助が発起人となり、大坂より諸国に下る商人を浪花組に加入させて旅行鑑札を渡し、諸街道で誠実な宿屋を選んで、店頭に浪花組の招牌(しょうはい)を掲げさせた。そして、宿屋には浪花講の規定(賭博(とばく)、遊女買い、酒宴、喧騒(けんそう)などをする旅客の止宿禁止)の遵守を義務づけ、旅行者が浪花講の定宿帳を得て各宿駅ごとに招牌を目印に休泊できるようにしたので、大いに好評を博し、五街道、脇(わき)街道など全国に及び、三都講など類似の講も出現した。[丸山雍成]
『大島延次郎著『日本交通史論叢』(1969・法政大学出版局)』

暗越奈良街道

2016/07/18 07:13:09

暗越奈良街道

大坂と奈良の道を最短距離で結んだ街道。激坂日本一の国道309号線暗峠はこの街道の一部。

天平八年(736)、僧行基は、難波津に着いた天竺僧菩提僊那ら三人を迎え、共に平城京をめざした。暗峠を過ぎ、矢田丘陵の追分で造営中の行基の山寺に立ち寄ったが、菩提僊那はこの地を天竺の霊鷲山に似ていると気に入り、山寺に霊仙寺と名付けた。また、鑑真和上は、下賜された寺地の土を舐め甘いと言った。後に彼が唐招提寺を建てた尼ヶ辻はこの「甘壌(あまつじ)」から由来している。

掲示板

「もちの木地蔵尊」と「おかげ燈籠」 

2016/07/18 07:34:54

「もちの木地蔵尊」と「おかげ燈籠」 

大きな木の下に「もちの木地蔵尊」と、その横におかげ燈籠がある。「もちの木地蔵尊」は、石の祠に小さな地蔵尊が二体ある。

古い道標 松原宿跡

2016/07/18 07:41:09

古い道標 松原宿跡

道標には、「左 大坂道」「右 なら いせ 道」と太い文字で刻まれ、裏に「嘉永元」(1848)という文字がかろうじて読める。

暗越奈良街道は、暗峠(標高455m)を越え、大坂と奈良間を八里八町(34km)でつなぐ古道であること、江戸時代は伊勢参りなどで賑わった。幕府は明暦(1655-58)年間以降、街道支配のため、街道間唯一の宿場として「松原宿」を公式に設けた。

石切さん

2016/07/18 07:51:41

石切さん

石切さんの参道前の道は東高野街道です。

本尊掛松遺構

2016/07/18 08:37:21

本尊掛松遺構

1321年(元亨元年)融通念仏宗中興の法明(ほうみょう)上人が、男山八幡の霊夢を受け、深江の庵室(現大阪市東成区南深江 法明寺)より、 東高野街道を男山に向かう途中、当地で同じ霊夢によって天得如来を奉じて深江に詣でる途中の八幡宮よりの使者に出会い、『十一尊天得如来』の画像を授けられた。
 法明上人は歓喜のあまり尊像を傍らの松に架け、称名念仏を唱え踊りだしたという。これが融通念仏宗の念仏踊りの始まりとされされている。

高野道一丁目

2016/07/18 09:07:22

高野道一丁目

東高野街道に面するこのあたりは町の名前までが高野道となっていた。

洞ヶ峠(達磨堂円福禅寺)

2016/07/18 09:14:43

洞ヶ峠(達磨堂円福禅寺)

関連リンク

岩清水八幡宮

2016/07/18 09:26:47

岩清水八幡宮

国家鎮護の社として都の裏鬼門に位置する男山山上に御鎮座されてより1150年以上の間、時の為政者を始め、幾多の人々の祈りが捧げられ、篤い崇敬を受けてきた当宮の根本である本殿は貞観元(859)年、木工寮権允・橘良基は清和天皇の勅命により六宇の宝殿を建立し、順次「八幡造り(はちまんづくり)」の社殿を完成させるに至りました。

離宮八幡宮

2016/07/18 10:00:32

離宮八幡宮

貞観元(860)年に大和大安寺の僧行教が豊前の国宇佐八幡神の分祀を受け嵯峨天皇が営んだ河陽離宮に鎮座させたことに始まります。

平安時代の末に当地で始まった荏胡麻油生産が活発化すると鎌倉時代には油座が結成され、神社は座の会所となり大いに繁栄しました。

水無瀬神宮

2016/07/18 10:09:57

水無瀬神宮

大阪で唯一環境庁に「名水百選」に選ばれた「離宮の水」が飲める場所があります。水は井戸から汲み上げられており、古くから名水とされていました。その源は、水無瀬川の伏流水です。しかも飲めるどころかちゃんと蛇口がついていて、一般に開放されていますので、誰でも1日20?までなら汲んでいってかまいません。

水無瀬神宮 名水100選

2016/07/18 10:09:57

水無瀬神宮 名水100選

水無瀬神宮に沸き出でる水(離宮の水)は1985年(昭和60年)、大阪府下で唯一環境庁認定の「全国名水百選」に選ばれている。

この水を求め、多くの人がポリタンクを片手に順番待ちをしていた。これでもまだ少ない方だそうである。

芥川一里塚跡

2016/07/18 10:41:38

芥川一里塚跡

世紀の山陽道の後身にあたる西国街道は、約8.1kmにわたり市域を東西に貫いている。

一里塚は1里(約4km)ごとに街道の両脇に設けられ、エノキの木を植えて路程の目印としたもの。高槻市内ではここ旧芥川宿東口の東側だけが残り、府の史跡にも指定されている。

西国街道 椿の本陣

2016/07/18 11:08:30

西国街道 椿の本陣

西国街道は、京都と西国を結ぶ重要な道であり、江戸時代には西国の大名が参勤交代のときによく利用しました。京都から西宮までの街道沿いには、山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽の五つの宿場があり、郡山宿本陣は、そのまんなかにある宿駅として、重要な役割を果たしてきました。また、御成門のそばにあった椿の木が、毎年五色の花を咲かせたことかr、「椿の本陣」とよばれ、人々に親しまれています。

西国街道と能勢街道の分枝点

2016/07/18 11:55:09

西国街道と能勢街道の分枝点

能勢街道道標

2016/07/18 12:03:47

能勢街道道標

淀川を渡る。十三大橋

2016/07/18 12:46:13

淀川を渡る。十三大橋

かつて淀川の下流は、大川・中津川・神崎川に分流していた。ここ中津川は中国地方への交通の要衝に当たることから、古くから橋があったという。慶長10年(1605)の絵図には「渡し」が描かれている。
 近年の架橋は明治11年(1878)当地成小路村村民による有料の十三橋(木橋、橋長約155メートル、幅員約3.6メートル)である。
 明治18年の淀川洪水を契機に現在の淀川が開削され(明治43年)新たに明治42年5月十三大橋(鉄橋、橋長683.2メートル、幅員5.5メートル)と同時に中津運河には十三小橋も架けられた。
 淀川以北を市内に編入し拡張を続ける大阪市は、道路の拡幅とともに現在見られる十三大橋に架け替えた(昭和7年1月)。中央には市電が敷設されるよう計画されたアーチ橋で大橋は橋長681.24メートル、小橋は34.23メートル、幅員はそれぞれ20メートルである。

高麗橋  里程元標跡

2016/07/18 13:10:02

高麗橋  里程元標跡

江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。

天王寺村鋳銭所跡

2016/07/18 13:25:51

天王寺村鋳銭所跡

「江戸時代、このあたりは天王寺村といい、銅銭をつくる工場(鋳銭所)がありました。寛保元年(1741)に、大坂の銀鋳造工場の幹部(銀座年寄)であった商人の徳倉長右衛門と平野六郎兵衛が、幕府の許可を受けてつくったものです。その頃の大坂には、今の淀川区の加島と中央区の難波にも銭の工場があったため、こちらの工場は、天王寺村銭座と呼ばれていました。敷地は約3万6千平方メートルあり、周囲は塀と堀で厳重に囲われていました。多い時には年間20万貫(約2億枚)の寛永通宝をつくったといいます。しかし、工場の支配人の不正などがあったため、営業がうまくいかなくなり、延享2年(1745)には操業をやめました。その跡地には、宝暦2年(1752)に、幕府によって天王寺御蔵(高津御蔵)という倉庫が建てられました。これは道頓堀から高津堀川を通って米を運び、蓄えておくための大きな貯蔵庫でした。寛政3年(1791)に、天王寺御

住吉大社

2016/07/18 14:02:43

住吉大社

最後はいつもの住吉大社です。

暑い一日でした・・・