厄除観音水間寺へのポタ(紀州街道・水間街道、泉佐野の町並探訪)

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2016-08-13 06-30

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2016/08/13 06:35:47終了日時2016/08/13 11:22:24
水平距離66.08km沿面距離66.29km
経過時間4時間46分37秒移動時間3時間38分38秒
全体平均速度13.88km/h移動平均速度18.19km/h
最高速度37.83km/h昇降量合計636m
総上昇量313m総下降量323m
最高高度88m最低高度2m

レポート概要

旧街道をロードバイクでポタルのはl気持ちが良い。
しかしながらロードバイクに乗っていると、雑誌やネットからの情報に惑わされる。
ケイデンスが80-90回転が良いとか、平均移動速度は25km-30kmをキープとかが気になってしまうのですが、中高年がやる運動としては正直きつい感じがする。

のんびりとポタリングしながら町の見所を見学して廻るのもロードバイク一つの楽しみ方と云えるだろう。
旧街道を走ることを勧める第一義的な事は、車の通行量が国道に比べて少なく安全性が高いことが上げられる、これは走ってみれば明白なのだが、旧街道は現在の交通事情からは役割が済んだ道といえる事から、近辺住民の生活道路としての利用があり大きな貨物車や、やたらと飛ばす運転者が極端に少なく幹線道路の利用に比べれば自動車との交通事故にあう可能性が低い。

幹線道路を巡航して大型車に引っ掛けられそうになった経験はチャリ乗りなら一度や二度ではないだろう、そう云う意味でも旧街道を走るのは精神衛生上からも負担が少なく純粋にチャリ旅を楽しむ事ができる。

また旧街道は古くから使われた道であるので、旧跡が多くそれらを調べながらの移動も楽しめる、昔から旅の楽しみは、
①旅の計画の楽しみ
②旅自体の楽しみ
③旅の記録の楽しみ

が挙げられるが、旧街道のポタリングはそれらを満たすことができる。
今回は紀州街道から貝塚の水間寺へ水間街道を使ってポタリングをした、泉州の古い町並を楽しみながらチャリでぶらぶらするのは無上の喜びでもある。

写真レポート

旧中山産業(堺市並松町)

2016/08/13 06:39:18

旧中山産業(堺市並松町)

関連リンク

かつては紡績関連の中山産業と言う企業があったのですが、現在はおしゃれなビルになっています。

その昔は紀州街道沿いに、店を出すことは商人としてのステータスだったのです。

紀州街道沿いの古い町家

2016/08/13 06:49:58

紀州街道沿いの古い町家

江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道です。大道筋の東側には多くの古い町並みが残りるい。

この画像のあたりは 司馬遼太郎氏の 街道を往く(紀州街道)で取材された場所にあたる。

北畠顕家供養塔

2016/08/13 06:55:37

北畠顕家供養塔

堺市石津町、旧紀州街道の石津川太陽橋南詰に、北畠顕家の五輪の供養塔が建てられており、塔には「源顕家公 南部師行公 殉忠遺蹟供養塔」の文字が刻まれている。

北畠顕家(きたばたけ あきいえ)は南北朝時代の南朝方の公卿・武将で、父は北畠親房。
足利尊氏を九州に敗走させた功により鎮守府大将軍となり建武4年・延元2年各地を転戦。
翌年「石津河原の戦い」で北朝方の高師直軍と戦い討死しました。享年21歳。

阪堺電鉄 浜寺駅前停留所

2016/08/13 07:01:10

阪堺電鉄 浜寺駅前停留所

浜寺駅前停留所に古いタイプの電車があった。

阪堺電気軌道502形電車1957年謹製 60才やん・

助松 田中家 (田中陣屋)

2016/08/13 07:11:34

助松 田中家 (田中陣屋)

田中家は、清和源氏の系統で、新田氏と同族関係にあると伝えられ、室町末期の元亀年間(1570~73年)に田中遠江守重景が助松村に移住したのが初めとされています。江戸時代には大庄屋を勤め、徳川頼宣公が紀州に封じられてからは、紀伊徳川家の指定小休所として本陣を承っていました。

屋敷は、旧紀州街道沿いにあって、1町(約110m)四方の大きさで、江戸時代の豪農であったことがうかがわれます。

泉大津市HP転載

だんじりご献灯台

2016/08/13 07:33:38

だんじりご献灯台

ご献灯台の設置が始まりました。献灯は、地元のお店が名前(店名)を入れて広告費として、祭礼の各団体の運営費用として使いるそうです。

岸和田本町の家並

2016/08/13 07:35:46

岸和田本町の家並

南北朝時代、楠木正成が河内・和泉の守護に任じられると、正成の一族の和田高家が代官としてこの地に入りました。堺を拠点としていた和田氏に対し、この地に赴いた和田氏を「岸の和田」と呼んだことから岸和田の名が付いたと言われています。

江戸期の当地(村方)の主産物は木綿で、和泉木綿として綿糸や綿布の原料となっていたようだ。今、古い町並みは本町・南町・北町・堺町・中町・魚屋町・宮本町・岸城町などに展開する。その中でも特に旧紀州街道沿いの南町・本町・魚屋町には商家の伝統的な建物が連なる。

寺田紡績

2016/08/13 07:39:33

寺田紡績

津田川河口に建つレンガ造りの寺田紡績工廠(こうしょう)は、1916(大正5)年に操業を開始。太平洋戦争時には産業統制のため一時期廃業を余儀なくされましたが、戦後寺田紡績株式会社(テラボウ)としていち早く操業を開始しました。
津田川沿いに今も残るレンガ造りの建物は、当時の工場建築の貴重な遺産となっています。また、1996(平成8)年に公開された映画「岸和田少年愚連隊」のロケ地に採用されその姿が映されています。
貝塚市HP転載

テラボウ

2016/08/13 07:40:24

テラボウ

夏休みで人もあらず、なんとなく侘しい雰囲気。

貝塚の町並

2016/08/13 07:45:32

貝塚の町並

室町時代から江戸時代に願泉寺を中心に寺内町として発達した町で、昔の古い重厚なまちなみが残っている。

貝塚御坊

2016/08/13 07:46:25

貝塚御坊

寺内町は、貝塚御坊・願泉寺を中心に中世末頃に形成された自治集落。願泉寺は16世紀後半に浄土真宗の本山・本願寺が置かれたこともあり、古い由緒を持つ寺院である。本堂、庫裏、鐘楼など江戸時代につくられた迦藍が今も残っている。

水間街道の古い道標

2016/08/13 07:48:54

水間街道の古い道標

水間街道は、貝市水間にある厄除けの仏「水間の観音さん」として知られる水間寺への参詣道で、山間部の集落と岸和田城下や貝寺内(じない)をむすぶ生活道としても利用されていました。泉州側のルートは、紀州街道から分岐するもので、岸和田城下と貝寺内を起点とする2つのルートがありました。この2つのルートは、現在の貝市麻生中で熊野街道をとおって合流し、木島谷の集落をぬけて水間寺へいたります。また、水間から近木(こぎ)川沿いをとおる山間部への道は、和泉城山をこえ和歌山へいたる道で、和歌山方面からの生活道・参詣道として利用されていました。
貝塚市パンフより転載

森集落の古い街道

2016/08/13 08:03:02

森集落の古い街道

集落内には、木島谷(きのしまだに)地域の総社稲荷神社と浄土真宗本願寺派の寺院称名寺(しょうみょうじ)があります。

この辺りの道はおそらく中世から変わっていないのではないでしょうか?

水間寺への丁石

2016/08/13 08:08:23

水間寺への丁石

水間街道の路傍に丁数が刻まれた石があった。おそらく寺への丁石でしょう。

水間寺

2016/08/13 08:13:48

水間寺

関西の厄除けではベスト3位に付けている有名なお寺。

寺伝では、天平16年(744)聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創した。そして開創当時は七堂伽藍を備え、また坊院も150余りを数える大寺であったと伝えている。

寺名が示すように川の合流点にあり治水や潅漑に関連するような気がする。

熊取交流センター煉瓦館

2016/08/13 08:44:33

熊取交流センター煉瓦館

この建物は昭和初期に建設された綿布工場を保存再生したもので、レンガ壁は建設当時のものをそのまま活かし、のこぎり屋根を再現するなど工場の雰囲気を残しながら、近代化遺産として後世へ継承するべく、煉瓦館として新しく生まれ変わったものです。

泉佐野ふるさと町屋館

2016/08/13 09:04:17

泉佐野ふるさと町屋館

古くは熊野詣の街道町としてにぎわい始め、江戸時代には、漁業、廻船業、醸造業、さらに綿織物業などにより独自の町人文化を開花させた「さの町場」。
ふるさと町家館は、江戸時代中期に2代目新川喜内が醤油業を営むために建てた町家で、当時の泉南地域の建築様式を今に伝える貴重な文化財です。 HP転載

泉佐野 銭湯 大将軍湯 

2016/08/13 09:05:57

泉佐野 銭湯 大将軍湯 

銭湯好きなら一度は行きたい・・ 大将軍湯 大正時代からの建屋にある劇渋銭湯ですが、現在は休まれています。

泉佐野ふるさと町屋館 のれん

2016/08/13 09:14:23

泉佐野ふるさと町屋館 のれん

暖簾越しに狭い道が見える。

泉佐野は城下町ではなくて、計画的な町割を経る事無く発展した関係で迷路状に町が広がっている。

泉佐野ふるさと町屋館 格子戸越の風景

2016/08/13 09:30:47

泉佐野ふるさと町屋館 格子戸越の風景

食野家碑

2016/08/13 09:37:00

食野家碑

食野家の廻船業は西回り航路が開かれて北前船が天下の台所に入港する17世紀後半には、100隻近い船を所有して全国市場に進出するなど大いに発展した。

その後、幕末には廻船業が停滞したことや、廃藩置県で大名への莫大な貸金がほとんど返金されなかったこと、家人の放蕩などにより一気に没落に至り、同家は同地に現存していない。

屋敷跡は1845年に佐野村が買収し、現在の泉佐野市立第一小学校となっており、松の木と井戸枠、石碑が残されている。またいろは四十八蔵も海岸筋に8棟が現存している。 ウッキペディア
蔵はほとんど住宅に変わっていた。一棟は見つけることができた。

住吉神社

2016/08/13 09:48:25

住吉神社

泉佐野の発生は、16世紀初頭に前関白九条政基が京都から下向し、自らその運営に携わった和泉国日根野荘は、泉佐野市から熊取町にかけての一帯であったとされている。

漁業や廻船業が発展し「佐野浦」とよばれる港町として活況を呈した。岸和田藩浦奉行支配の9ヶ浦のなかでも、集落のおよそ3分の2が浦方であった佐野村はその規模が突出しており、大船団を組んで遠く対馬や五島列島方面まで漁に出る「佐野網」で知られた。

和泉国では堺に次ぐ商業都市となり、人口も岸和田城下や貝塚寺内を上回るようになった。また、市街地は堺・岸和田・貝塚など計画的に形成されたものと異なり、自然発生的に形成され、迷路のような街路が古い家並みとともによく残っている。
船乗り達が信仰したであろう住吉大社が勧進されて住吉神社がある。

鶴原の徳本道標

2016/08/13 09:55:52

鶴原の徳本道標

浜街道(通称)は孝子越街道といい、現在の泉佐野市鶴原付近で紀州街道から分かれ、海岸沿いに佐野の町場から田尻町、泉南市、阪南市尾崎・鳥取・箱作、岬町淡輪を通り、孝子峠を越えて紀州に通じていた街道です。

分枝点には徳本講が設えた古い道標がある。

泉大津の町並

2016/08/13 10:35:50

泉大津の町並

旧堺灯台

2016/08/13 11:12:27

旧堺灯台

堺旧港南波止場に明治10年築造された高さ11.3mの六角錘形の灯台。埋め立てが進み役割を終えた後、堺のシンボルの一つとして保存、現地に現存する日本最古の木造洋式灯台として国指定史跡になっています。堺観光ガイドHP転載