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開始日時 | 2017/03/20 06:33:16 | 終了日時 | 2017/03/20 11:48:10 |
水平距離 | 69.85km | 沿面距離 | 70.34km |
経過時間 | 5時間14分54秒 | 移動時間 | 3時間53分39秒 |
全体平均速度 | 13.40km/h | 移動平均速度 | 17.87km/h |
最高速度 | 42.51km/h | 昇降量合計 | 1124m |
総上昇量 | 589m | 総下降量 | 535m |
最高高度 | 166m | 最低高度 | -57m |
2017/03/20 06:39:34
明治の後期に建てられた紡績工場の社屋
展示会、撮影会、音楽の演奏会、上映会などレンタルスペースとして使用されている。
2017/03/20 06:45:26
安永6(1777) 杉田玄白・中川淳庵、解体約図を刊行した頃。
(正面)「五丁南大ふぢ」、(左面)「左 妙国寺」、(裏面)「右 住よし 大さか」
江戸時代は旅が自由に出来なくて、参詣の理由があれば比較的許されていたので江戸期の道標は寺社を指す場合が多い。
此処を南下して大小路からは竹之内街道にあたる。
2017/03/20 06:51:07
社伝によると、人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。方違神社HPより引用
方災除けの神として有名で僕も引越しや息子が就職で転居するときにはお参りした。
この神社の前は往古の長尾街道にあたる。
2017/03/20 07:10:57
長尾街道は堺市の反正天皇陵古墳の北端から始まり、松原市の中心を東西に横切って奈良県當麻(現:葛城市)に至る難波-河内-飛鳥を結ぶ当時の大動脈でした。
2017/03/20 07:26:07
元禄14年製(1701)の道標ここから東に200メーターの所の辻から移築された。
赤穂事件があった年やん?
元禄14年(1701年)、第3代藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつけ、長矩は切腹、浅野家は改易となった。
2017/03/20 07:32:24
史跡・古室山古墳は、仲津山古墳の南西に位置している前方後円墳で、羽曳野丘陵から派生した国府(こう)台地のほぼ中央に築かれている。墳丘は後世の改変をさほど受けていない。陵墓のように墳丘の保存に手抜きがされていないので、植林された状態の墳丘は、築造当初の優美な姿を今に伝えている。墳丘長150mを測る規模は、陵墓を除くと古市古墳群の中では最大級の古墳であるとされている。
宮内庁管轄では無いので自由に立ち入りが出来る。
2017/03/20 07:36:33
墳は古市古墳群最大の前方後円墳で、現在宮内庁によって「応神天皇恵我藻伏崗陵(えがのもふせのおかのみささぎ)」とされています。墳丘長約425mを誇り、国内で2番目の長さを誇ります。しかも、墳丘を盛るときに使用した土の量は約140万立方メートル(大型ダンプカーで17万台分)以上で、仁徳陵(大仙)古墳を上回り全国第1位の体積を誇ります。
その脇を東高野街道が通っています。
2017/03/20 07:38:27
誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。
応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
誉田八幡宮HP転記
2017/03/20 07:42:17
羽曳野市古市、蓑の辻に建つ嘉永元年[1848年]の道標。
左 大和路、上の太子、たえま(当麻)
写真中央左右の方向で、これが竹内街道のルート。また、ここは写真前後東高野街道との交点と成る。
2017/03/20 07:46:08
石川にかかる臥龍橋を渡った川向に立派な道標が2基建つ。
右の道標は、ここから南へ1.5kmにある大黒[おおぐろ]の大黒寺、左は河南町加納にある法華寺(約7km)への案内である。
神南辺道心が建立した:現在の松原市布忍(一説に東大阪市布施)の上田利兵衛のもとで鋳物師(いもじ)として働く。鍋をつくる名人だったが、素行が乱暴で、酒とけんかを好んだと言う。
彼の子どもは幼少より仏門に入っていたが、あまりの父の乱行に見かねて、父を諌めた。それでようやく目が覚め、彼も発心して僧侶になり、諸国を行脚し、各地に地蔵を安置し、標石を建て、橋を架けたりした。
2017/03/20 08:00:06
2014年3月29日(日曜日)に、「緑の一里塚」の第7号を大阪府、羽曳野市、(公財)国際花と緑の博覧会記念協会、北野木材、地元町会が協働で、羽曳野市駒ヶ谷に設置しました。
新たなみどりのスポットとして、羽曳野市では野地区に続いて2ヶ所目の緑の一里塚完成となり、当日は、多く地域の皆さんにお披露目されました。
2017/03/20 08:07:44
大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながぼ〉)があることで知られる。山号は磯長山(しながさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)とともに三太子の一つに数えられている。
2017/03/20 08:34:37
1558年(永禄元年)、興正寺門跡証秀上人によって創建された興正寺別院を中心とした寺内町として誕生し、商売の盛んな在郷街として発展しました。
現在も創建当時の六筋七町の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、仲村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されています。また、大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。富田林観光協会HP転記
2017/03/20 08:50:58
孝子地蔵。道標を兼ねています。三十三所巡礼の母娘がここで行き倒れ、村人が懇切丁寧なる看病をしたものの母は結局病死、けれども村人に感謝した娘が後に建立した地蔵という話が伝わっています。
2017/03/20 08:55:44
元文2(1737)製
(光背上)「(梵字)」、(同左)「左 まきのを道」/全面に地蔵立像(錫杖)を陽刻/西国巡礼に出かけた母娘の悲話と孝行の伝承/現在も信仰の対象と成っている。
花が絶えていない。
2017/03/20 08:57:13
高野街道と巡礼道の分岐点に建てられた道標(向野町で)、「左かうや 祖神寺護 右まきのふ」とある。
河内長野市は、東高野街道、西高野街道、高野街道、西国三十三箇所の巡礼街道が通る交通の要だったんですね。
2017/03/20 09:03:19
この石造物群は原町に所在し、西高野街道沿いに位置する十三仏板碑二基(写真後列)、地蔵菩薩像一躯(写真前列左)、観音菩薩像(伝地蔵菩薩像)一躯(写真前列右)である。これらは当地に以前存在した阿弥陀寺の境内にある墓地に祭られていたもので、20世紀初頭の阿弥陀寺の廃寺に伴い、阿弥陀寺旧境内に移り住んだ方が改めて安置したと伝える。その後付近の住民により地蔵講が作られ、当地で祭られ始めたと考えられる。河内長野HP転記
2017/03/20 09:03:19
非常にいい顔をなさっている。
2017/03/20 09:08:05
平安時代に活躍した陰陽師の安倍晴明が所蔵していた天文学の書物を埋めたので「晴明塚」と言われています。安部晴明は、和泉国信太の森の白狐「葛の葉」を母にして生まれたという伝承があって、安部晴明の父・安部保名と母・葛の葉の悲恋物語は、講談や芝居となって大坂庶民のあいだで大いに流行しました。高野街道沿いに、晴明ゆかりの土地や伝説、物語が見られるのも、こうした庶民信仰の表れといえます。河内長野市観光協会HP転記
2017/03/20 09:17:33
2017/03/20 09:42:32
桜井神社は朝鮮半島の百済から渡来してきた桜井宿禰(さくらいすくね)の一族が、祖先を祀った事に始まるとされる。桜井氏は当地に須恵器(すえき)の技術をもたらし、それ故この周囲一帯は、かつて須恵器の一大産地であった。飛鳥時代の推古5年(597年)になると、それまでの祖神に八幡神が合祀され、現在に通じる桜井神社の信仰が形作られた。
神谷(にわだに)という地名は、遡ること670年、現在の鉢ケ峯寺に創建された鉢峰山閑谷院長福寺(現:法道寺)がはじまりとされています。
2017/03/20 09:42:34
桜井神社の拝殿は通常見られるような拝殿とは違い、馬道(めどう)と呼ばれる土間を設け、建物内部を通り抜けられるようにした特異な形状である。このような形式の拝殿を、割拝殿(わりはいでん)という。桜井神社拝殿の建造年は定かではないが、建築技法は鎌倉時代のものを示しており、その頃の建立であると考えられている。同じく鎌倉時代に建てられた石上神宮摂社出雲建雄神社の拝殿と共に、割拝殿としては現存最古級の遺構。
2017/03/20 10:14:00
和泉街道の詳しいことは解らないが?伊勢神宮への参詣路(巡礼街道)として利用されていた様子で、道標にミギはいせみち と刻まれている。
2017/03/20 10:14:00
道標の文字: 右ハいせ道 左是より四丁北 ふどう道 きやう??
2017/03/20 10:17:44
父鬼街道は堺市鳳熊野(小栗)街道から和歌山県紀ノ川市穴伏大和街道までを通る。
路が狭くて危ない。
2017/03/20 10:24:54
2017/03/20 10:28:55
2017/03/20 10:59:12
現在の大和川の下流部は、江戸時代の中期に付け替えられたもので、大和橋は、そのとき紀州街道が大和川を渡るところに架けられた橋であった。
最初の大和橋は、大和川の開削と平行して工事が進められ、宝永元年(1704)九月、川の通水に先立って完成、渡り初めが行われ、十月には堺奉行の管理、つまり公儀橋となり、大和橋と命名されている。橋の規模は、橋長70間(137.9m)、幅員3間(5.9m)であり、以後この規模を守って維持補修がなされている。その後も洪水のたびに修復が繰り返され、明治2年には堺県の手によって架け替えられている。
大阪市HP転記
2017/03/20 11:02:48
住吉大社を紀州街道沿い南に下った大阪市住之江区安立の街並み。
宮中や後に徳川将軍家御典医を務めた半井家一族の名医で、従五位下の位を有する貴族であった半井安立軒元成(なからい・あんりゅうけん・もとなり)が桃山時代に居住していたことに因む。永らく住吉大社宮司家の津守氏の領地であった。
今でも赴きの良い古い町家が残っている。
2017/03/20 11:08:51
第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后 (じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓遠征)と深い関わりを持っております。神功皇后は、住吉大神のお力をいただき、たちまち強大な新羅を平定せられ、無事ご帰還を果たされます。この凱旋の途中、住吉大神のお告げによって、この住吉の地に祀られることになりました。
2017/03/20 11:11:38
わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなとで当地へ移築された。当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。
大阪市HP転記