浪速の城址めぐり

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2017-05-07 07-11

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/05/07 07:16:14終了日時2017/05/07 12:15:01
水平距離54.02km沿面距離54.23km
経過時間4時間58分47秒移動時間3時間37分38秒
全体平均速度10.89km/h移動平均速度14.60km/h
最高速度37.77km/h昇降量合計816m
総上昇量406m総下降量410m
最高高度61m最低高度3m

レポート概要

自転車に乗っている所謂ローディーと云われる人たちはほぼ例外なくスマートフォンを持っているだろう。

毎週週末を待ちかねて好きな所へ走りに行ってるはずですが、これが数年経つとマンネリ化してしまう、この間スマホのアプリで面白い「城めぐの」アプリを見つけた。https://cmeg.jp/w/

gPSと連動して城跡を攻略するゲーム性の高い無料アプリである、かなりマイナーな城址が載っていて自転車でめぐるとかなりの距離を走れることが解ったので今回はわが郷里大阪の城址をめぐってみた。

写真レポート

加賀屋新田会所

2017/05/07 07:18:24

加賀屋新田会所

新田会所とは、開発した新田を管理するところで、干拓が開始されました。この埋立ては、その後拡張されていきます。これらの民間資力による開拓事業は、幕府の崩壊で終りますが、その間の開拓総面積は、今日の大阪市域のほぼ3分の1にもあたるものです。

安立町の赴きのある町家

2017/05/07 07:26:40

安立町の赴きのある町家

我孫子城跡

2017/05/07 07:38:55

我孫子城跡

今は我孫子観音がある場所とされている、戦国時代に石山本願寺の支城として今井兵部によって築城されたとされる。

今井兵部は奈良の今井に称念寺を建てそれが、今井町の起こりと言われています。
このあたりも環濠集落であったとされている。

我孫子観音の路地

2017/05/07 07:41:03

我孫子観音の路地

赴きのある路地裏を進む。

歴史の道 住吉街道

2017/05/07 07:46:45

歴史の道 住吉街道

寺岡砦

2017/05/07 07:48:22

寺岡砦

寺岡砦は寺岡城とも呼ばれ、環濠集落から発展した砦と考えられるが詳細は分かっていない。
戦国時代、畠山、三好、細川、桃井各氏らの抗争が続く中で、寺岡付近でもたびたび合戦が行われ、その戦場となった。

新堀城

2017/05/07 07:58:17

新堀城

神社にある説明板に拠ると足利時代に周防某なるものがこの地に城を築いたとある。
後に石山本願寺城の支城のひとつで、天正3年4月に織田信長に攻め落とされたとされる。
ここも環濠集落を利用した砦跡とされる。

宇利和利城跡

2017/05/07 08:25:06

宇利和利城跡

楠木正成の3男である楠木正儀の居城とされる城。瓜破城とも書く。現在、瓜破東小学校がある場所の西側が城跡と推定されるが、市営住宅になっている。
城域は瓜破霊園北からこのあたりとされる。
遺構などはまったく残っていないが小学校の場所が微高地になっていてそれらしく感じた。

馬蔵地蔵尊

2017/05/07 08:34:43

馬蔵地蔵尊

中高野街道を北へ進むと馬蔵地蔵尊がある。
喜連環濠集落の入り口に当たる、地蔵堂の横に馬繋ぎ場があった。
環濠はここで石垣の桝形を成し中高野街道に馬場先橋が架っていた。街道より広い馬倉~鳥居間の道は江戸期より幅7間長さ80間の馬場があったらしい。

杭全神社前の奈良街道の道標

2017/05/07 08:43:04

杭全神社前の奈良街道の道標

杭全神社の鳥居の前の国道25号線を渡って、突き当りの左角に、道標があります。ここは奈良街道と中高野街道との交差点にあたりの元はここからが参道入口でした。寛政十二年(1800)三月建立された。

古河藩陣屋跡

2017/05/07 08:46:20

古河藩陣屋跡

下総古河8万石を領した土井氏は、12,600石を摂津・播磨に飛地領があり、これを統治する采地陣屋を平野郷に設け、明治時代まで領した。

杭全神社

2017/05/07 08:50:27

杭全神社

杭全神社の周りにある水路は環濠集落の堀の跡を良く残している。
神社参道口にある満願寺は天誅組主将中山忠光の甥に当たる中山忠伊の自刃の地とあった、中山忠伊は光格天皇の第二皇子で、光格天皇の志を受け継いで甥の中山忠光を主将とする『天誅組』を結成して討幕を画策した。然し惜しくも幕府によって壊滅され、この地に潜居するも、幕吏の手の及ぶ処となり自刃した。…その3年後、討幕の志は実を結び明治維新を迎えた。忠頼の父で忠能の次女慶子が明治天皇の実母である。

正覚寺城跡

2017/05/07 08:57:18

正覚寺城跡

1477年(文明9)畠山政長は正覚寺に陣を置き、畠山義就と争ったが、この時以来正覚寺は城郭化されたものとみられている。1493年(明応2)4月、義就の子である義豊率いる大軍に攻められ、25日政長は自害し、正覚寺城は焼失した。

正覚寺城跡

2017/05/07 08:57:36

正覚寺城跡

正覚寺城というと明応の政変での正覚寺合戦の場であり、畠山政長最後の地として知られる。
神木の脇にこじんまりした石碑はたたずんでいた。

岡山砦

2017/05/07 09:20:15

岡山砦

岡山砦は、慶長十九年(1614)大坂冬の陣の際に徳川秀忠が五世紀前半につくられた古墳の上に本陣として築いたもので、前方後円墳の後円部頂上を本丸としたものである。秀忠は翌年の夏の陣にもここに陣を構え、勝利した。以後御勝山と呼ばれ、今日御勝山古墳として保存されている。
近所のおじさんたちの憩いの公園見たいです。

真田丸址

2017/05/07 09:38:11

真田丸址

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。
手薄な場所を補強する為に慶長19年(1614年)の大坂の陣において、豊臣方の真田幸村が大坂城の平野口に構築した出城である。

真田丸址

2017/05/07 09:38:11

真田丸址

大坂冬の陣」から400年目にあたる2014年、信繁四百回忌に、墓碑が建立された。寺を入ってすぐの場所にあり、「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓(じゅごいのげ さなださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)」と記されている。お墓の横には説明板があった。

細川ガラシャ像

2017/05/07 09:44:46

細川ガラシャ像

カトリック玉造教会にはキリスト教徒であった細川ガラシャ像と高山右近の像が立っている。

すぐ近くに越中井がある、400年ほど前に細川忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこのあたりに住んでいたのです。

越中井

2017/05/07 09:49:13

越中井

この付近は細川越中守忠興(ただおき)の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれている。慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。近くのカトリック教会には、ガラシャ夫人像とキリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)像がある。大阪市HP転記

大阪城・石山城址

2017/05/07 09:54:21

大阪城・石山城址

戦国時代末期から安土桃山時代には、石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)の石山合戦で焼失しました。その跡地に、大阪城が築かれ、豊臣政権の本拠地となりますが、慶長20年の大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡と共に焼失しました。今あるのは徳川時代の城です。

武装化された石山本願寺は「摂津第一の名城」と謳われるほどのもので、戦国大名らとの抗争の中で修築を重ね、西の毛利家や各地にある出城との連携を保ち難攻不落を誇る存在となっていきます。

東町奉行所跡

2017/05/07 09:58:48

東町奉行所跡

城跡では無いのですが??

町奉行所は地理的位置により東西両奉行所がおかれ1カ月交代で執務した。城代は5~6万石の譜代大名から選ばれ、小諸侯から任ぜられた定番、加番、大番を率いて関西の諸大名の監視に務めた。
元和5年8月22日(1619年)に久貝正俊(東町奉行)・嶋田直時(西町奉行)がそれぞれ役高3000石をもって任じられたのが始まりとされている。

楼の岸砦跡

2017/05/07 10:04:32

楼の岸砦跡

楼ノ岸砦は、織田信長と本願寺勢力が戦った石山合戦の際、織田信長が築いた砦と伝わる。

西町奉行所跡

2017/05/07 10:12:22

西町奉行所跡

西町奉行所は享保(きょうほう)9年(1724)の大火後当地に移った(それまで現大手前合同庁舎のところに東町奉行所と並んであった)最近現地発掘調査で、その規模が判明しつつある。維新後、奉行所には大阪府庁がおかれた。

天王寺城跡

2017/05/07 10:33:18

天王寺城跡

織田信長は石山本願寺を攻めるにあたり、原田直政・筒井順慶に命じて城砦をここに構えたが直政の戦死後は佐久間信盛が入城し、石山本願寺攻めの重要拠点となる。
石山本願寺との和睦成立後に廃城と成るが佐久間親子は追放された。

佐久間信盛
信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられた信盛は、嫡男の信栄と共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名きりだったという。

茶臼山城址

2017/05/07 10:39:19

茶臼山城址

かつては古代の古墳とされていたが発掘は進みどうやら古墳とは云いがたいようであるが、大坂冬の陣では徳川家康の陣城として、また大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の陣城として使用された。

また北側にある安居神社は真田幸村最期の地と伝わる。

三津寺砦跡

2017/05/07 11:01:31

三津寺砦跡

三津寺砦は、奈良時代に聖武天皇の勅命により行基が開基となった三津寺が、戦国時代に城砦化された砦で、石山本願寺の支城として活用されました。

博労淵砦跡

2017/05/07 11:19:12

博労淵砦跡

関連リンク

大坂冬の陣における豊臣方の砦のひとつ、薄田兼相を守将に、700の兵が守備していた。


博労淵の戦いで有名ですね。この頃にはと豊臣側には厭戦気分全開だったのでしょう?もう負けることは解っていたんでしょうね??

野田城址

2017/05/07 11:28:04

野田城址

野田城は享禄4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されている。元亀元年(1570年)織田信長は、石山本願寺に攻め入り、この後10年にもおよぶ「石山の合戦」が始まるわけである。天正4年(1576年)石山本願寺を包囲した織田軍に対し、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に立てこもり織田軍と戦うが、織田軍の大軍にはかなわずに信長の手に落ちてしまう。天正6年(1578年)この城は、毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になるが、その後は歴史から忘れ去られ、現在ではその痕跡を見つけることはできない。明治の初め、「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されている。大阪市HP転記

川口教会

2017/05/07 11:34:17

川口教会

大阪開港と同時期に大阪市西区川口地区に外国人居留地が設けられたそうです。
しかし、すぐに神戸にも外国人居留地ができたために川口の居留地は衰退しましたが、今でもわずかながらその当時の面影を残しています。
川口基督教会数少ない当時の面影を残しています。

木津砦址

2017/05/07 11:50:38

木津砦址

石山本願寺の支城の一つで願泉寺中心として木津総門徒らが設けたとされる、この砦は楼岸から木津にかけて築いた海岸線を守る重要な砦でした。

大阪は本願寺勢が作った城が多いなと感じた一日であった。