最古の官道 竹之内街道と泉州の巡礼道を走る。

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2017-10-08 06-14

プロフィールマップ

GPSログ解析

開始日時2017/10/08 06:20:28終了日時2017/10/08 12:58:40
水平距離97.82km沿面距離98.01km
経過時間6時間38分12秒移動時間5時間56分11秒
全体平均速度14.77km/h移動平均速度16.41km/h
最高速度44.23km/h昇降量合計1424m
総上昇量708m総下降量716m
最高高度208m最低高度4m

レポート概要

二品最古の官道とされる竹之内街道は太古は都(明日香や藤原京)へ赴く道であったが、江戸期には伊勢神宮への参詣道でもあった。
江戸時代は封建時代で自由に旅などは出来なかったのですが、唯一寺社への参詣は認められていました。

比較的裕福な連中は「店の旦那衆とか武家(幹部クラス)のご隠居等は中年以降のまだ体力が残っている内に伊勢詣りや西国巡礼や寺社めぐりにかこつけた旅を楽しんでいた様子です。

泉州や堺の旦那衆は竹之内街道を通って伊勢へお参りに行った事でしょうし、また東高野街道を歩いて高野山へも行ったでしょう。
現在外環状線となっている171号線の旧道はかつては泉州河内の村落を結ぶ道であったし、また大和川以南に於いては、葛井寺・道明寺・天野山・松尾寺・水間寺、をめぐる順礼道としての利用も多かったでしょう。

今回はチャリでそれらの跡を訪ねてみた。

写真レポート

大和川から東を望む

2017/10/08 06:21:50

大和川から東を望む

ダイセル堺

2017/10/08 06:29:59

ダイセル堺

堺セルロイドの本社工場として1910年に建てられ、のちの化学品メーカー・ダイセルの堺工場に引き継がれたこの館。阪神高速大和川線の予定地となったため、2007年に工場は閉鎖したが、大阪府が推進する「大阪ミュージアム構想」にも登録され、現在はカプリチョーザ ピッツァ&ビュッフェが入る。

堺 木材町の道標

2017/10/08 06:36:44

堺 木材町の道標

旧榎村宝経印塔

2017/10/08 06:43:21

旧榎村宝経印塔

西高野街道と竹之内街道の分枝点

2017/10/08 06:46:30

西高野街道と竹之内街道の分枝点

黒土西地蔵尊

2017/10/08 06:51:28

黒土西地蔵尊

その前に「従是 万代八幡 十二町」「家原文殊 三十町」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。

金岡神社

2017/10/08 06:59:42

金岡神社

金岡神社」がある。この辺りは昔、河内絵師といわれる人々が住んでいて、優れた絵や彩色の技術を持ち、奈良の大仏殿の絵を描くなど活躍した。その中で特に優れた金岡は絵所長者といって絵の仕事をする役所で最高の位を極めていて、家原寺の重要文化財行基菩薩行状絵伝も金岡の筆によるものと伝えられているという。また金岡が筆を洗ったという金岡渕という地名がこの地に残っているなど、巨勢金岡ゆかりの地とされている。

松原岡5丁目の道標

2017/10/08 07:12:45

松原岡5丁目の道標

中高野街道との交差点には寛政9年(1797)6月、「いせこう中」 が建てた「左さやま 三日市 かうや道」「右ひらの 大坂道」「左さかい道」と彫られた道標があります。

伊勢の橋

2017/10/08 07:20:32

伊勢の橋

現在の伊勢橋横にある、旧橋の石碑昔から伊勢の橋と呼ばれいた様子で、竹之内街道が伊勢詣りで賑わった名残であろう。

伊勢灯篭

2017/10/08 07:26:20

伊勢灯篭

明治2年の建立の伊勢灯篭)横には道標があり

「右大坂 左さかい 道」  (天保7年(1836) 作


はすかいには地蔵堂がある、街道の屈曲部であり目印になっていた模様。

川向の道標 神南辺建立

2017/10/08 07:37:01

川向の道標 神南辺建立

神南辺大道心隆光は、江戸時代の人物で俗名を弥兵衛といい、大和国生駒郡神南村の生まれであると云われる。

若い頃は、殺傷を好み、鋳物師としての技量は良いが素行は悪く無頼漢であった。
ある時、夢の中に地蔵菩薩が現れ、今後善行を積めば地獄域から救うとのお告げを聞き、弥兵衛は仏門に入り諸国を行脚し各地に道標を建て、橋を架け、また多くの地蔵を建立した。

街道を走っていると非常に多くの道標や地蔵(主に道しるべ)を建立している事を見かける。
墓は旭蓮社大阿弥陀経寺にある。
旭蓮社大阿弥陀経寺

竹之内街道 太子の家並

2017/10/08 07:53:32

竹之内街道 太子の家並

叡福寺  聖徳太子御廟

2017/10/08 08:01:39

叡福寺  聖徳太子御廟

推古天皇が聖徳太子の墓を守護するために建立された寺です。
戦国時代には、織田信長の兵火で焼失しましたが、江戸時代に豊臣秀頼によって聖霊殿が再建され、次第に伽藍の復興が図られました。

今は寂しい感じがするが、江戸時代には河内三太子詣りがはやっていて賑わっていたようだ。

富田林 寺内町 興正寺別院

2017/10/08 08:26:31

富田林 寺内町 興正寺別院

興正寺別院は富田林・寺内町の成立と発展の中心となった浄土真宗(一向宗)の寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。

錦織中の道標

2017/10/08 08:37:31

錦織中の道標

東高野街道に沿った錦織中に神南辺のの道標がある。

「すぐまき尾山.右滝谷山へ十丁」  

神南辺大道心隆光の建立

孝子地蔵

2017/10/08 08:42:18

孝子地蔵

河内長野市に入り近鉄線を越えたところにある「孝子地蔵」

昔、東国から西国巡礼に出た親娘が第四番槙尾山施福寺から第五番紫雲山葛井寺に行く途中、ここにさしかかったとき、母親は長旅の疲れが出て倒れてしまった。
娘は村人の助けをかりて、一心に看病したがそのかいなく母親は亡くなってしまった。
仕方なく娘は母親の遺体を荼毘に付し遺骨をだいて国へ帰っていった。
その後、娘は母親の死が忘れられず、再びこの地にきて地蔵尊を造立、母親の菩提を葬った
説明板によると地蔵には「左まきのを道」とある 道しるべ地蔵でもあった。

東高野街道と西国巡礼道の分枝点

2017/10/08 08:48:28

東高野街道と西国巡礼道の分枝点

この辺りから東高野街道は左に折れて坂を下り河内長野駅前辺りで西高野街道と合流する。
一方西国順礼道は此処から右に折れて千代田を経て天野山を経由して施福寺方面へ進む。

原町の旧阿弥陀寺石造物群

2017/10/08 08:55:13

原町の旧阿弥陀寺石造物群

掲示板によると

西高野街道に沿いに位置する当資料は、現在、原町の地蔵講によって祭られており、十三仏板碑二基、地蔵菩薩像一躯、観音菩薩像一躯から成る石造物群です。これらは当地の南側にかつて存在し、二十世紀初めに廃寺になった阿弥陀寺の境内にあった墓地に祭られていましたが、同寺の廃寺後、旧境内の北側の当地に改めて祭られたとの伝えがあります。

此処の仏さんは非常にいい顔をしている。

天野山

2017/10/08 09:18:19

天野山

観光客も少なくていい感じです。

秋は紅葉が非常に美しい、海外の騒がしい人たちが居ないので、のでお勧めです。

天野山 豊臣秀頼寄進の擬宝珠

2017/10/08 09:22:30

天野山 豊臣秀頼寄進の擬宝珠

天平年間(729?749年)、聖武天皇の勅願により僧行基が開創し、弘法大師が密教の修行をしたと伝えられています。南北朝時代は後村上天皇の行在所にもなった名刹です。

寺内にある擬宝珠の中には豊臣秀頼寄進の擬宝珠があって 
 
奉 内大臣豊臣 朝臣 秀頼公 と刻まれる。

施福寺への分枝

2017/10/08 09:36:54

施福寺への分枝

ここで施福寺へ道が分かれる。

所謂 旧外環状171号線といわれるが 昔は河内・泉州の郊外の集落をめぐる道であった。
泉州では天野山・施福寺・松尾寺・牛滝山・水間寺、を結ぶ順礼道としての利用も盛んであった。

岸和田上白原にある道標

2017/10/08 10:03:58

岸和田上白原にある道標

関連リンク

岸和田上白原にある道標この道が順礼道であった確証となった。

右道 伊勢大神宮 三拾六里
大和當麻寺 九里拾五丁
愼尾寺二里二拾七丁
左道 大和信貴山 九里三拾丁

刻まれる名はすべて寺である。

考恩寺 釘無堂

2017/10/08 10:13:02

考恩寺 釘無堂

聖武天皇の勅願を受けた、行基によって建立されたと伝えられ、畿内四十九院の一つであるとされる寺院。現在の御堂は、鎌倉時代後期に再建されたもので、大阪府下で最古の部類の木造建築物として国宝に指定されている。建立時に釘を使用していなかったとされることから、別名「釘無堂」と呼ばれ、平安時代中期の本尊阿弥陀如来をはじめとする仏像群19体と板絵1枚が安置されており、いずれも重要文化財に指定されている。

水間寺

2017/10/08 10:20:41

水間寺

水間寺(みずまでら)は、大阪府貝塚市にある天台宗別格本山の寺。
水間観音の通称で知られる。本尊は聖観世音菩薩。
周辺とともに大阪みどりの百選に選定されている、裏山には意外と行かないが秋の紅葉は美しい。

川の合流点にあるので太古は水に関する機関であったのだろう。

紀州街道 蛸地蔵 辺り

2017/10/08 11:20:03

紀州街道 蛸地蔵 辺り

紀州街道は参勤交代の道のイメージがあるが、和歌山・泉州・と堺・大阪を結ぶ大動脈であった。

泉州沿岸には多くの漁師や水運業が栄えたのでこの道は海の神 住吉大社 への順礼道でもあった。

蛸地蔵の云われは、かつて岸和田城に一揆が襲来したときに1人の大法師(地蔵尊の化身)と数千の蛸が城の危機を救ったことから、この寺に地蔵尊を安置したと伝えられている。

紀州街道 岸和田本町

2017/10/08 11:21:57

紀州街道 岸和田本町

岸和田本町辺りは紀州街道の中でも最も街道風情が残っている町です、街道筋に発展した古い商家の街並みがおよそ300mにわたり残されています。

個人的には大阪府下では最も整備された町であると思う。

泉州 だんじり 

2017/10/08 11:47:20

泉州 だんじり 

この日は三連休の中日で河内・泉州では祭礼の特異日でした。

この地方は(河内・泉州)はだんじり ふとん太鼓 が乱立していてあちこちで 若い衆ががんばっていました。

旧堺湊郵便局

2017/10/08 12:18:33

旧堺湊郵便局

昭和8年開局・昭和50(1975)年ごろ新局舎の完成に伴い 郵便局舎としての役割を終えた。一時、数学教室として使用されていたが、現在は無人となって いる。

地域の人に愛された感じが漂ういい建物です。

司馬遼太郎の街道を往く(1976年頃訪問) 紀州街道 に書かれている。この辺りの紀州街道では本に中に書かれている店で、今でも営業しているところがたくさん残っている。
旧い町 堺 である。

芝辻理右衛門屋敷跡

2017/10/08 12:32:15

芝辻理右衛門屋敷跡

「榎並屋勘左衛門(えなみやかんざえもん)家は江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され、
芝辻理右衛門(しばつじりえもん)家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位に
ありました。
この両家に分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)、榎並屋勘七(忠兵衛)、芝辻長左衛門を
加えた五鍛冶(のちに二鍛冶が脱落して三鍛冶)が平鍛冶と呼ばれ他の鉄砲鍛冶を
統制しました。
榎並屋勘左衛門の屋敷は桜之町東1丁で、大道(紀州街道)に面して東にありました。

大和橋

2017/10/08 12:38:33

大和橋

現在の大和川の下流部は、江戸時代の中期に付け替えられたもので、大和橋は、そのとき紀州街道が大和川を渡るところに架けられた橋であった。

最初の大和橋は、大和川の開削と平行して工事が進められ、宝永元年(1704)九月、川の通水に先立って完成、渡り初めが行われ、十月には堺奉行の管理、つまり公儀橋となり、大和橋と命名されている

幕府が架けた橋であるから通行する人が多かった事が想像される。

住吉大社

2017/10/08 12:48:10

住吉大社

日本で一番多い船名が 住吉丸 だそうで、この神社の霊験は押して知るべし。

境内の灯篭は日本全国の廻船問屋・廻船講・などが勢ぞろいしている、今でも参詣者はあまねく引きも切らないが、江戸期もすごかっただろう。